8 貸し
ガツン
地べたに座り込み、動けない如月の体に刃が届くより一瞬早く、高遠がナイフを持った腕を蹴り上げた。
ぐうっ、と黒い影は呻き、呆気なくナイフを取り落とした。ロータリーに転がったナイフの刃が真夏の日差しを受けて、ギラリと光を反射する。
間をおかず高遠は襲撃者の腕をとり、地面に押さえつけた。
「大丈夫か、如月」
肩で息をつきながら、高遠が如月の方を見る。ああ、と呟いた如月はふっと力を抜き、背中から地面に転がった。そのままの体勢で、長い息を吐き出す。
「さんきゅ、助かったよ」
借りを作っちゃったなあ、という声に、今まで何度も彼に助けられたことがある高遠はそんなこと、気にするなと言おうとしたのだが……即座に思い直した。
(ここは、貸しを作っておいたほうがいいな)
そんな高遠を尻目に、如月はようやく、億劫そうにゆっくりと起き上がった。今度は膝にも力が入り、ちゃんと立ち上がることができた。
「社長さん、けっこうやるじゃん」
「俺も、一応護身術程度の嗜みはある。まあ、お前みたいにプロを相手にはできないがな。今回の相手くらいなら俺でも何とかなる」
そう言って、高遠は押さえ込んだ襲撃者を示した。それは、中学生くらいの少年だった。
「犯人は子ども、か。あの刑事が言った通りだったわけだ」
高遠の言葉に、如月が眉間にしわを寄せる。
「……あの刑事?」
嫌な予感がする。
「ああ、お前も知ってるだろ。たしか、お前の友人の……ああ、彼だ。来たようだな」
言葉の途中で高遠は後ろを振り返った。建物の角を曲がって、数人の刑事らしい男たちが走ってくる。まだずっと遠くにいるその一団の中に、日本で最も会いたくない人物の顔を見つけ、如月はぱっと身を翻した。
深町和洋――親友である和海の兄で、腕利きの刑事。過剰なほど弟思いの彼には、絶対に自分を危険人物だと思わせたくない。
「悪い、社長さん、俺もう行くから」
「ああ。……あ、ちょっと待て、如月。ちょっと頼まれて欲しいことがあるんだが」
恐らく、これから市民の義務として事情聴取などに協力しなければならない高遠は、美咲ゆりとのランチの約束をキャンセルしなければならない。そのことだろう。
「わかってる。ゆりさんには俺から言って謝っとくよ」
そう申し出た如月だったが、高遠は首を振った。
「それは、いいんだ。俺が電話をして直接謝るから。実はもう一つ、美咲に頼まれていたものがあるんだ」
その用件を聞いた如月は盛大に顔を顰めた。
「ええー。俺、そんな時間ないんだけど。結構忙しいんだよ、これでも」
「わかっている。でも、今日までに届ける約束なんだ。これから警察に協力していたら俺が買いに行く時間はない」
「でも、俺、これからエイプリルたちと合流する予定なんだよ。和海への手土産もまだ買ってないし」
「なんだ、それなら、和海君の分も買えばいいじゃないか。手に入りにくい貴重なものだから絶対喜ばれるぞ」
「う、それはちょっと心が惹かれるけど……。でも、やっぱり、嫌だ!」
「そうか、それなら仕方がない」
最後の手段、とばかりに高遠がにやりと笑った。
「さっき、お前は俺に借りを作ったよな? お前ともあろうものが素人のガキにやられかけたなんて、一生の汚点だろう。それを助けてやった俺はお前の恩人だ。さあ、どうだ。これで嫌とは言えないだろう」
如月が言葉に詰まる。
言い争っている間に刑事たちがどんどん近づいてきている。深町刑事が顔を隠すように後ろを向いている如月に目を留めたような気がする。もうこれ以上ここにいるわけにはいかなかった。
「……社長さん、ぜったい性格悪くなったよな」
わかったよ、と仕方なさそうに言って、如月はその場から姿を消した。




