3 出発前の一仕事
「エイプリルのやつ……。あそこでライアンの名前が出るなんて、ショックだなあ。あーあ。またアシュレイ捜査官に愚痴でも聞いてもらおうかなあ」
次の朝。ため息をつきつつ、如月は仕事に向かっていた。
以前、エイプリルが目覚めたとき、付き添いのライアン・ウィンターソン看護士を見て自分と勘違いされてしまったことがあった。しばらくへこんでいた如月は、なんとなくICPOの捜査官ジェイク・アシュレイに電話をかけ、なんだか知らないうちに慰められてしまったのである。おまけに、珍しく暗い声の如月を心配したアシュレイは、日本にいる、彼の親友深町和海に連絡を取って、如月に電話をかけるように促してもくれたのだ。
どうした気の迷いだったのか。鉢合わせすれば如月を国際窃盗犯として捕まえようと躍起になるくせに。
「でも、まあ、彼も忙しいだろうしな。愚痴を聞かせてる場合じゃないよな。それよりも、今日は気合を入れて明日からの休みをもぎ取らなくっちゃ」
如月は自分に活を入れつつ、裏口から準備中の店に入り、狭い共同の更衣室で手早く仕事着であるコックコートを身に着けた。
「マスター、すごく大事な用なんです。お願いします。明日から十日間、俺に休みをください」
深々と頭を下げた如月を、店の主人は複雑な顔で見下ろした。
ある日突然ふらりと職を求めて店にやってきたこの黒髪の青年が、きつくてすぐ辞めるだろうという当初の予想に反してこれ以上ないくらいよくやっていることを主人は知っていた。実際、店はもう彼無しでは回していけないくらいである。
もともと田舎町の大衆食堂であるこの店の客がそれほど舌が肥えているはずはないのだが、一度極上の料理の味を覚えてしまえばもう以前の味では満足できるはずが無い。店には何人かコックはいるが、客が求める味を出せるのは、主人と、この青年くらいである。それでも、特に驕るでも、調子に乗るでもなく、嬉しそうに腕を振るい、後片付けや仕込など、誰がやっても大差ない仕事も自分の分はきっちりとこなす。勤務態度も真面目で、明るい性格は客だけでなく、厨房の中でも受けがいい。言うことなしの従業員である。
そんな彼がどうしても休みが欲しいのだという。十日間彼無しはきついが、何とか望みを叶えてやりたい、そう主人は思っていた。しかし、明日からというのは……。
「如月、実は、明日はどうしても外せない予約が入ってるんだよ」
「予約? でも、マスターがいれば一組くらい俺がいなくても大丈夫なんじゃ……」
言いかけた如月に、マスターは肩越しに店内を示した。厨房からカウンターテーブル越しに見える古い店内は、いつもと違っていた。椅子がきれいに片付けられ、何席もあったテーブルはくっつけられて、広くなった台の上には真っ白いクロスがかけられている。窓のそばにはクリスマスのときに使われるような星や花の飾りがあった。
「ええと、これ、どうしたんですか?」
驚きの余り珍しく察しが悪くなっている如月にマスターはにやっと笑って告げた。
「結婚式だ。お得意様のデニスが、店のルーシーと結婚することになってな、急遽ここで結婚パーティーをやることになった」
それが、ちょうど明日だ。そう告げたマスターの顔を見ながら、如月はこの店でウエイトレスをしている、陽気な女の子と、毎晩訪れて同じ席に座り、夕食をとっていく青年の日に焼けた顔を思い出していた。そう言えばここ最近やけに親密そうに話していた気がするが……そうか、結婚か。
しかも、余り蓄えの無い二人は、パーティーも何もする予定が無かったという。それを知ったマスターと従業員の有志がサプライズの会を計画したのだという。二人以外はほぼ町中の人が知っている明日のパーティーには、大勢の人が来るだろうから、今日はその準備にかかりきりだという。明日も、料理を出したり、様子を見て補充したり、食器の準備やら何やらで忙しいことは目に見えていた。
本当は、今日は早めに上がらせてもらい、明日の朝一番でエイプリルを迎えに行って、予め取っていた便で日本に向けて飛び立つ予定だったのだが、その通りには運びそうもない。
諦めのため息を吐いた如月は、仕事にかかる前に時間をもらい、電話をかけた。
一本目はすぐに終えたが、二本目はなかなか踏ん切りがつかない。でも、あまり時間を無駄にするわけにも行かず、如月はかけなれた番号の短縮ボタンを押した。
「ああ、ライアン? 俺、如月だ。さっき院長に電話をして明日から十日間、君の休みを確保した。実は、明日、エイプリルを学校に迎えに行って、そのまま日本に向かって欲しいんだ。……ああ、そうだ。十日間、日本で休みを過ごしたいんだ。……そうだ。悪いな、頼んだぜ」
ピッ
通話を切った後、如月はのろのろと腕を下ろした。そして、一度大きく首を振り、携帯を更衣室のかばんに放り込むと、一瞬にして気持ちを切り替え、仲間の結婚パーティーを盛り上げるため手を尽くした準備に取り掛かるのだった。




