2 寄宿舎学校で
「エイプリル、お食事のあと部屋に来ない? 一緒にトランプでもしましょうよ」
夕食のため、部屋を出たエイプリルに、一人の少女が声をかけた。薄い金髪をお下げにした小柄な少女は、アリスンという名前で、この学園でエイプリルが最初に仲良くなった友達だった。
転落事故のため、五年もの間寝たきりだったエイプリルが目覚めたのは、春の終わりの頃だった。彼女の実質上の保護者である如月凌の知り合いから紹介されて、とんでもなく偉い外科医が難しい手術を引き受けてくれたらしい。……が、エイプリル自身はそんなことは何も知らない。
ただ、目が覚めたときに優しそうな笑顔があったことが心に強く残っている。短いつんつんの赤毛にそばかすの浮く人のよさそうな顔、穏やかなトーンの低い声。始めは彼のことを、小さいとき、転落事故の直前まで慕っていた大好きなおにいちゃんだと思っていた。やがてそれがエイプリルの思い違いで、彼は看護士のライアン・ウィンターソンという青年だと知った後も、彼の笑顔を見て、穏やかな話し声を聞くと満ち足りた気持ちになった。
本当の凌おにいちゃんも忙しい中、エイプリルのところによく通ってきてくれた。陽気でサービス精神旺盛な彼は、来るたびに何かしら素敵なお土産や、面白い話を聞かせてエイプリルが退院するまで退屈をしないように気を配ってくれた。
退院したエイプリルが、またあの施設に戻るのかと不安な思いをしていると、如月はそんな彼女の心配を見越していたように、病院の近くにアパートを借り、何もかもきちんと揃えられた部屋を用意してくれた。そこで彼は、一ヶ月間みっちりとエイプリルに勉強を教えてくれた。それは、五年もの大切な少女時代を棒に振ってしまった彼女にとって、これからの未来に繋がる大切な知識の数々だった。
やがて夏前にエイプリルは伝統ある寄宿舎学校に編入した。本当は学校教育をほとんど受けられなかった彼女はもっと下の学年からやり直す必要があるのだろうが、どういう手続きをしたのか、如月はエイプリルを同年代の少女たちと同じ学年に入れるようにしてくれた。学力の方も、天才如月凌による一ヶ月にわたる家庭教師のおかげで、該当学年の授業にもそこそこついていくことができ、エイプリルは自分の保護者の凌おにいちゃんに、感謝しても仕切れないくらいの思いを抱くのだった。
エイプリルが寂しくないようにと、如月は忙しい合間を縫って、週末は外出に連れ出してくれた。彼が来られないときはライアンが寄宿舎の前まで迎えに来てくれた。実は、ライアンの優しい笑顔を見られることもエイプリルにとって密かな楽しみだった。――すっかり年頃の娘を持った親ばかの心境でいる如月がそのことを知ったら火のように怒るだろうが。
やがてすっかり慣れた学校でも、新しい友達ができ、エイプリルは漸く取り戻すことができた少女時代を謳歌していた。
食事の後、そのままエイプリルはアリスンの部屋に遊びに行った。寄宿舎の部屋は二人部屋で、彼女と同室のローラもエイプリルを歓迎してくれた。おしゃべり好きのローラは、せっかく始めたトランプをさっさとわきに追いやって、つい最近学園にやってきたばかりのエイプリルのことをいろいろ知りたいと、質問攻めにした。
「ねえ、ねえ、エイプリル。来週末から夏の休暇でしょ。お休みの間の予定は何かあるの?」
「ええと、まだよくわからないけど、凌おにいちゃんの家に行くと思うわ」
「ええー」
ローラとアリスンは身を乗り出した。
「凌おにいちゃんって、週末に迎えに来る、あの人でしょ? 如月さんって言ったっけ。黒髪ですっごくかっこいいの! ねえねえ、あの人、エイプリルの恋人?」
「ちがうって。凌おにいちゃんは、私の保護者なの」
必死で説明するエイプリルだったが興奮する少女たちは聞いてはいない。何しろ、エイプリルのいうその保護者である青年は、彼女と血のつながりはないということであるし、年齢もまだ未成年である。何より、幼く見える東洋系の顔立ちのため、エイプリルとちょっとしか変わらないように見えるのだ。恋人だとしても全然おかしくはない。
「んーと、じゃあ、その人が恋人じゃないなら、あっちの彼? ときどき如月さんの代わりに迎えに来る、赤毛の背の高い人。大人っぽくて優しそうで、笑顔が素敵なのよね」
「もうー、いいなあ、あんたは」
彼女たちが言っているのはライアン・ウィンターソンのことだろう。彼も、恋人ではないのだが、なぜかそれを否定できないまま、顔を赤くして困り果てるエイプリルだった。
質問攻めにしばらく付き合い、頃合いを見て友人の部屋を出てきたエイプリルが漸く自室に戻ってきたのは、消灯時間ぎりぎりだった。
中途編入のエイプリルが入ったこの部屋には今は彼女一人しか住人はいない。だから鍵を開けたエイプリルは、部屋の中に人影を見つけて、驚いた。
「……きゃ、」
大声で叫ぼうとしたエイプリルに、その人影は焦って飛びついた。彼女の口に大きな手でふたをする。一瞬恐怖ですくんだエイプリルの耳に、懐かしい声が飛び込んできた。
「エイプリル、俺だよ……ごめん、驚かして」
出そうとした声を飲み込んで首を声の方に向けると、窓から差し込む月明かりで、彼女が大好きな保護者の焦った顔が見えた。
「凌おにいちゃん」
エイプリルが自分に気がついたのを確認して、如月はほっと息をついて手を離した。
「……でさ、夏の休暇に入ったら、一緒に、日本に行かないか」
月明かりでも見て取れる、嬉しそうな顔で如月はエイプリルの顔をのぞきこんだ。
消灯時間が過ぎたので、エイプリルは寮監の先生に見咎められないよう自室の電気を消したまま、ベッドに腰掛けていた。如月は開け放した窓の木枠に器用に腰を下ろし、両足とも膝を立てて窓枠に載せていた。ちょっとバランスを崩せば窓の外に落っこちそうな体勢だが、彼がそんなどじをするはずが無いことはわかっている。
「日本かあ」
エイプリルにとっては話に聞いたことしかない。でも、行ってみたかった。いろんなものを見て、いろんなことを感じ、吸収したいと思った。それに、大好きな凌おにいちゃんがこんなに嬉しそうに話す彼の親友という和海お兄ちゃんにも会ってみたかったのだ。
うん、行ってみたい、と返事をすると、如月はこれ以上ないくらい嬉しそうな顔をした。彼のこんな顔を見られただけでも、行きたいと返事をしてよかった、とエイプリルは思う。その後、一つだけ気になっていることを聞いてみた。
「あの、それって、ライアンさんも一緒に行ってくれるのかしら」
がくん
エイプリルがそう言った途端、如月が体勢を崩した。窓の外の五階下の地面に転げ落ちそうになって、危うく踏みとどまる。
「だ、だいじょうぶ? 凌おにいちゃん」
慌てて駆け寄るエイプリルに、なんだか弱弱しい声で、ああへーきへーき、と返事をする如月はちっとも大丈夫そうには見えない。
「そーか、エイプリルはライアンと一緒に行きたかったんだ。あっそう。ふーん……」
元気の無い声で言いながら、じゃあ、とりあえず休暇に入ったら迎えに来るから、と言い置いて、妙によろよろした足取りで、如月は窓から出て行った。




