17 意外な顔合わせ
「じゃ、行ってきまーす」
潜めた声で言って、和海はそっと家を出た。リビングのソファでは、如月がぐっすり眠っている。
今朝、ぎりぎりまで勉強して、そろそろ朝飯にしようか、と言って和海が立ち上がったとき、如月は和海の問題集に丸を入れていた。だが、いったん台所に行きかけた和海が、パンでいいか、と聞きに戻ってくると、すでに如月はこの状態だった。開いたままの問題集にはすべて赤でチェックが入っていたが、本人はいくら呼んでもまったく反応がない。よほど疲れていたのだろう。
(そういや、昨日、最初に顔見たとき、なんだか顔色悪かったよな)
昨日保健室で再会した如月を見たときの違和感にようやく気づく。ただの印象に過ぎないが、前に会ったときより元気がなく、調子も悪そうだった。
思えば、仕事が忙しいとかで日本に来るのも遅れたほどである。仕事を終えてすぐにこちらに向かったのだろう。疲れが残っていても不思議ではない。それなのに徹夜で自分につき合わせてしまった。
和海はソファにもたれて眠っている如月を横にして、布団をかけてやり、置手紙を残して、学校に向かったのだった。
***
「ただいま」
昼過ぎ、鍵を開ける音がして、玄関が開いた。
ネクタイを緩めながらリビングに入ってきた深町和洋は、ソファーに眠る人物を見て思わず目を疑った。
(……如月凌、だよな?)
布団に顔を半分埋めるようにして眠る如月を何度も見返す。こんなに間近で、こんなにまじまじと見たことはなかったが、間違いない。
如月凌。正体不明の国際窃盗犯で、なぜか弟の元クラスメイト。しかも、いつの間にか弟の親友という立場を獲得しているらしい。今は鳴りを潜めており、犯罪行為からは足を洗ったと言われているが、やはり、かわいい弟に近づけたくはない人物だ。
昨日、TAKATOカンパニーで社長の高遠朗が襲われたとき、如月はその場にいたと思われる。恐らく、脅迫状が送られてきた仲間の高遠を助けにきたのだろう。犯人を取り押さえたのも彼かもしれない。しかし、捜査員が到着したときにはすでに姿をくらませていた。
(いったい何しにうちに来たんだ。和海を余計なことに巻き込む気じゃないだろうな)
蹴り起こしてやろうか、それとも、この際、手錠でもかけてやろうか……。
和洋が以前、日本で彼の犯罪行為を追っていたときはまったく証拠を残さず、捕らえられるような相手ではなかった。その彼が、すぐ手の届くところで、眠っている。こんなチャンスを逃すべきではないんじゃないか? 和洋は思わず手を伸ばした。
ふと、机に置かれたメモが目に入る。和海の字だ。
凌へ 昨日は疲れているところ、無理に連れてきて悪かったな。しかも、調子悪そうだったのに徹夜で勉強見てもらっちゃって。でも、おかげですごくはかどったよ。感謝してる。起きたら、飯でも食って、出かけてきていいからな。
(……なるほど。和海が如月を呼んだわけか。こりゃ、とっ捕まえるわけにはいかないかな)
ため息を吐きつつ、机の上を見る。昨夜は二人でかなり頑張ったのだろう。何冊もの問題集が山を作っていた。
如月の様子を見ると、和海の言うように確かに疲れたような顔をしている。以前一度だけTAKATOカンパニーの画廊で出会ったことがあったが、そのときよりやつれている気もする。
(不本意だが……今回は見逃してやるよ)
心中で呟くと、取りに来た着替えを持って、和洋はそっと玄関に向かうのだった。
***
「……りょう、凌。いい加減、起きろよ」
和海の声に、如月はぱっと目を開けた。はっと起き上がり、きょろきょろと辺りを見回す。見慣れない部屋にいる。確か、リビングで和海と勉強をしていて……眠気に負けて意識が落ちたようだ。リビングにいたはずの如月は、いつの間にかしっかりとベッドを占領して眠っていた。
(俺、いったいどれだけ眠っていたんだろ。和海はマーク模試に行くんじゃなかったのか?)
如月を揺り起こした和海は、呆れた顔をしている。
「凌、よっぽど疲れてたんだな。それはわかるが、せっかく来たんだから遊びに行こうぜ」
「うん。もちろん、そのつもりだ。でも、和海、今日はマーク模試なんだろ。いいのか?」
目の前で、和海はますます呆れた顔になる。
「いつの話だよ。模試は二日前に終わったぜ。昨日は休みだからせっかく遊びに行こうと思ったら、お前、起きないんだもん。エイプリルに説明したら、疲れてるんだから起こすなって言うし」
それで、昨日は如月を置いてみんなで遊びに出かけたらしい。そして今日、週末の二連休の最終日こそはと、和海が一生懸命起こしにかかったというわけだった。
「うわー。せっかく来たってのに、俺、何やってんだか。ありがと、和海。起こしてくれて。もう目が覚めたから、遊びに行こうぜ!」
さっと飛び起きると、体は嘘のように軽くなっていた。体調は回復し、言うことなしだ。シャワー借りに行くと、洗面所で深町和洋と鉢合わせする。
「げげっ。ふ、深町刑事」
びびって回れ右をする如月の首の後ろを、和洋はがしっと掴まえた。
「お前な。二日もうちで寝こけていたくせに。今更なんだよ」
リビングのソファーを占領されて邪魔だったので、和洋が如月を客用ベッドに運んでくれたらしい。
ええっ、と妙に慌てた様子の如月を残し、和洋はさっさと仕事に出かけてしまった。今回は見逃してやるさ、でも次に現場で遇ったら容赦しないからな、と言う言葉を残して。