12 母校にて
河野はるかから譲ってもらったハッピーパックの袋を提げて、如月は、かつて自分が通っていた高校へ向かった。
本当は、せっかく手に入れたドーナツは親友の和海に渡したいところだが、先に引き受けていた高遠の用事を優先させなければならない。
夏休み中の学校の活気は二極化していた。グランドからは運動部の元気な声が聞こえるが、校舎の方角はしんと静まり返っている。
如月は、校舎をぐるっと回り、保健室の窓の下に立った。一、二年生の教室がある校舎に挟まれたこの中庭は、人の気配がなかった。もうひと棟奥の校舎では、受験を控えた和海たち三年生が補習を受けているのだろう。
如月は、手ごろな位置にある木に手をかけ、するすると登っていった。窓越しに保健室を覗き込むと、養護教諭の美咲ゆりは窓を背にしてパソコンに向かっていた。
木の実を軽く投げてガラス戸に当てると、美咲はすぐに顔を上げた。高遠から聞いていたのだろう、驚く様子もなく、すぐに立ち上がって窓を開けてくれる。如月は、足場にしていた枝を軽く蹴って身軽に窓枠に跳び移った。
音も立てずに靴を脱いで室内に入ると、中はクーラーが効いて、ひんやりとしていた。汗ばんだ体に冷風が心地いい。如月は目を細め、閉めた窓ガラスにもたれてしばしの間体の熱を冷ました。
「かなり汗かいてるわね。急に冷やすと風邪を引くわよ」
挨拶よりも先に美咲から養護教諭らしい注意を受けたが、如月は、大丈夫、俺はそんなに軟弱じゃないからね、と笑って手を振った。
「ゆりさん。久しぶり。元気だった?」
ようやく窓のそばから離れた如月は、壁際に重ねてあった椅子を勝手に持ってきて座った。
そして、ここを訪れた目的である、高遠から頼まれたドーナツの袋を美咲に手渡す。絶対に、『俺から』だと言えよ、と高遠からはくどいくらい念を押されていたので、如月は、にこっと笑って、言った。
「これ、俺から。ゆりさんの口に合えばいいけど」
高遠の名前を出さなかったのは、確信犯である。
真夏の殺人的な暑さの中散々時間をかけて並ばされ、エイプリルたちとの合流もすっかり遅れてしまった。その上、和海への土産も用意できていない。これくらいの嫌がらせは許されるだろう。
美咲は、その意味が分かったようだ。校内の大部分の男子生徒、男性教諭を虜にする美貌で、くすっと笑った。
「それ、高遠が如月君に頼んだんでしょ。私が前に、これ食べてみたいって言ったら、あの人、今度会う日までに必ず届けるって言ってたのよ。自分で並んで買ってねって言っておいたのに、如月君に頼んだってことは……今日のランチのキャンセルは、本当に手が離せないよっぽどの理由があったのね」
どうやら高遠は美咲に心配をかけまいと警察沙汰になった今回の件は話していないらしい。その点は如月も高遠に賛成だったので、何も言わずに頷いただけだった。
「で、如月君の方は、元気にやってるの?」
そう言いながら、美咲は冷蔵庫からスポーツドリンクを出して如月に手渡した。きっと、運動部の熱中症対策のため常備しているものなのだろう。
俺? 元気元気、と調子よく言いながら、如月はそれを受け取った。炎天下の中長時間立っていたため、体はかなり発汗し、軽い脱水状態だった。冷たい清涼飲料水をごくごくと一気に飲み干すと、水分が隅々に行きわたるのが感じられた。
夕刻が近づき、長い夏の日もそろそろ傾いている。窓から差し込む西日が二人を照らした。部屋の中が空と同じ夕焼け色に染まっていく。
そろそろ補習も終わる頃だろう。せっかく来たのだ。早く和海に会いたい。
「ゆりさん、三年生の補習って何時に終わるの?」
すぐにでも会いに行きたい如月だったが、次の美咲の返事を聞いて、動きを止めた。
「あら。深町君から聞いてないの? 夏季補習は毎日午前中で終わりよ」
受験生にとって肝となる夏休みは、集中的に家庭教師をつけたり、大手予備校の講座をとったりしている生徒が多く、午後からそちらに向かう者もかなりの数に上る。深町和海が取っているクラスも、昼過ぎにはその日の日程を終了しているそうだ。だから、殆どの者がとっくに学校を出ているという。
「じゃあ、和海も?」
「ええ。どこにも寄る用事がなければ、もう家に帰っているんじゃないかしら」
そう言えば、和海の家に電話をかけたとき、兄の深町刑事が彼は補習だと言っていたが、帰宅時間までは聞いていなかった。と言うか、怖くて聞けなかった。そうか、昼までだったのか。じゃあ、それに合わせて自分がこっちに来ていれば、とっくに彼との再会を果たすことができていたはずだったのに。
(そういや、町で和海と同級生の河野さんにも会ったじゃないか。くそ、迂闊だったな。俺、ほんと、今回どうかしてるな)
如月は、がっくり肩を落とした。
今朝、日本に到着したときにはすぐにでも和海と会えるつもりでいた。それなのに、現実はどうだろう。同じ日本にいるというのに、まだ自分は彼の声さえ聞いていない。
彼との再会はいったいいつになるのか……。なんだか、親友の姿がどんどん遠く離れていくような気がする如月だった。
不意に、廊下が騒がしくなり、ノックもなしに、ガラッと保健室の戸が勢いよく開けられた。
「美咲先生っ! こいつ、診てやって下さい」
学生服姿の背の高い男子生徒が、部活の途中らしい格好の小柄な生徒に肩を貸して入ってきた。
運ばれてきた生徒は、先輩らしい長身の生徒にしきりに遠慮している様子で椅子に座った。シューズを履いていない方の足首が痛々しく腫れあがっている。
美咲ゆりが、ちょっと待っててね、という風に如月の方をちらりと見た後で、運ばれてきた男子生徒の前に座った。
「あなた、たしか、バスケ部の島村君だったわね。怪我したときの様子を詳しく話してもらえるかしら」
「はい」
島村というそのバスケ部の二年生は痛みに冷や汗を浮かべながらそのときの様子を説明し始めた。
彼が美咲と話している間、後輩をここまで連れてきた長身の男子生徒が何気なく如月の方を向いた。
気配を忍ばせ、目立たないように座っていた如月に気づき、次の瞬間、驚いたように目を丸くした。
「如月? ええっ、まじ?」
その顔を見た瞬間、如月も懐かしさに声をあげた。
「吉村」
それは、元クラスメイトで熱血バスケ少年の吉村篤志だった。