10 炎天下の下で
混乱するTAKATOカンパニー本社ビルを離れた如月は、うだるような暑さの中、甘いにおいが漂う、パステルカラーの外装をした店の前にいた。いや、店の前という言い方は正しくない。正確には、店の前から伸びる行列の後ろの方に並んでいた。
『ハッピー・くりーむ・ドーナツ』の文字が躍るその店は、夏前のオープン早々ものすごい人気となった砂糖とクリームがたっぷりかかった甘いケーキ生地のドーナツの店である。看板にはカラフルなドーナツのイラストがたくさんついているあまりの人気ぶりに、常に買い物客の行列ができ、都心で一番買うのに苦労する手に入りにくいスイーツとなっている。
それだけの人気なので、プレゼントや手土産にすれば相手に喜ばれること間違いなし、なのだそうだ。そう高遠に言われ、というか、脅され、如月は炎天下の中延々一時間もこの行列に並んでいた。
列に並ぶ前、如月はライアンの携帯に連絡を取っていた。
簡単に事情を説明した後、如月は、高遠から聞いていた、若い女の子が喜びそうなスポットを彼に丁寧に説明した。高遠が紹介してくれた場所が、所謂デートスポットの類だったのが、猛烈に気に食わない。本当は自分が案内したかったのだが……
しかし、今は仕方がない。この後ドーナツを買わねばならない如月が彼女たちと合流できるのは、この行列の長さを考えると、明らかに当分先である。まさか、エイプリルを一緒に行列に付き合わせるわけには行かないのだから。
列には旅行客らしき家族連れや、若い女の子が多いが、サラリーマン風の中年男性もちらほら見える。きっと家族(きっと娘)にせがまれて土産に買って帰るのだろう。手土産に大人気のスイーツだというのは本当のようだった。
「あー、暑い。それにしても、さっきからぜんぜん列が進んだように見えないんだけど」
如月は思わずしゃがみこみ、弱音を吐く。ぎらぎらと照りつける真夏の日射しが体にきつかった。思わず前に並ぶ女子高生の日傘に入れてほしくなったほどである。
そんな如月に、背後から甲高い声がかけられた。
「お兄ちゃん、情けないなあ。そういうのって、軟弱って言うんだぞ。なあ」
「うん、そう。母さんがそう言ってた。近頃の若い男は軟弱すぎるって」
なんだと? 話の内容にむっとして如月が振り返ると、そこには、お揃いのキャップを被った小学校低学年くらいの二人連れの男の子があきれたように如月を見下ろしていた。
夏休みに入って毎日遊びまわっているのだろう。少年たちのTシャツから剥き出しの腕も、半ズボンから伸びた足もきれいに日に焼けている。それに対して真っ白と言うわけではないが、連日昼間に室内で働いている如月はほとんど日に焼けていない。健康そうな小麦色の彼らから見たら、もともと体つきも細い如月は軟弱そうに見えるのかもしれない。
「……うるさいよ。俺のどこが軟弱なんだ」
じろりと睨んで言ってやったが、この年齢特有の無邪気さにで、彼らにはまったく遠慮というものがない。
「だって、お兄ちゃん、お父さんよりも弱そうだもん。なあ」
「うん。うちのお父さん、強いんだぞ。お父さんのパンチを受けたらお兄ちゃんなんか一発でKOだよ」
どうやら親はボクシングにでも嵌っているらしく、少年たちは得意そうに鼻の穴を膨らませて自慢している。実際にはたとえボクシングライセンスを持っていたとしても如月に適うわけはないのだが。
「やーい、軟弱男〜」
調子に乗って囃し立てる子どもたちに、如月は一気に精神レベルを下げ、半ば本気で相手をし始めた。
「この野郎、そんなこと言うやつは、こうしてやる!」
少年を抱え上げ、逆さまにぶら下げてやる。始めはびっくりした様子だったものの、如月が本気で怒ってはいないことがわかると、怖いもの知らずの少年は逆に喜んだ。もう一人の少年が、えい、このやろう、放せ、と背中にぶつかってくるので、期待に応えてそっちも抱えあげてやる。
キャーキャー言って喜ぶ少年たちの相手をしているうちに、永遠に続くかと思われた列はもうだいぶ短くなってきていた。生意気な少年たちとのスキンシップは、如月自身にも結構いい気分転換になったようである。
漸く自分の番がきたときには、すでに如月が高遠の会社を出てから二時間が経過していた。
「大変お待たせいたしました」
深々と頭を下げ、バイトらしい女の子が応対に出た。如月はカウンター越しに人気の品が詰め合わされてかわいい手提げ袋に入っている、手土産に最適というハッピーパックを二つ注文した。商品を待つ間、後ろに並ぶ少年二人が名残惜しそうに話しかけてきた。
「お兄ちゃん、二つもハッピーパック買ってどうするの? 彼女にお土産?」
「まさか、彼女が二人いるの? それって二股っていうんだよ」
「……おい、こら。ったく、ろくでもない言葉ばかり知ってるな、お前ら。親の顔が見てみたいよ」
呆れてそう言うと、少年たちの顔がぱっと輝く。
「見たいの? うちにおいでよ。会わせてあげるよ。僕ら、お母さんにお土産に買っていくんだ。これ買ったら、すぐに家に帰るから」
「……あのな。顔が見てみたいってのは、冗談だよ。お兄ちゃん、急いでるから、また今度な!」
もうエイプリルたちも映画を見終わっている時間だ。彼女たちと合流する前に、元母校に行って美咲ゆりに高遠から頼まれたドーナツを渡さなくてはならない。学校で補習を受けているであろう和海にも、ひょっとすると会えるかもしれない。とにかく、時間が惜しい。
代金を払い、少年たちの頭をそれぞれくしゃくしゃと撫でてやり、如月は店を出た、いや、出ようとした。
そのとき、たった今出てきた店のカウンターで、バイトの女の子のすまなそうな声が聞こえた。
「ごめんね。さっきのお兄ちゃんで、売り切れちゃったのよ。また、今度来てね。坊やたち」
「ええー!」
さっきまでにこにこしていた少年たちの悲鳴が聞こえる。
店の扉に手をかけ、今まさに出ていこうとしていた如月は、思わず足を止めた。……止めざるを得なかった。