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架空の財閥を歴史に落とし込んでみる  作者: 常盤祥一
番外編:この世界の日本国内の状況
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番外編:戦後の日本の鉄道(北海道・東北)

〈北海道〉

・改正鉄道敷設法第133号(『胆振国苫小牧ヨリ鵡川、日高国浦川、十勝国広尾ヲ経テ帯広ニ至ル鉄道』)の開業

 日高と十勝を海岸回りで結ぼうとした路線であり、日高本線と広尾線、及び両線を繋ぐ様似~広尾に相当する。


 工事は1952年から行われた。この世界では、朝鮮戦争の余波で樺太と千島がソ連軍の攻撃を受けた。その影響で、樺太と千島、及びその後方である北海道の交通網の強化が図られた。この路線もその一環だった。

 様似~広尾は、日高山脈が海岸まで迫っている事から地形的に悪く、強風がよく吹く事から環境も悪かった。また、簡単に運行不能にならない様に、建設中の路線と日高本線の高規格化(沿岸付近のルートを内陸部に移してトンネル化)も同時に行った。その為、建設工事は長引いた。


 それでも、1963年に工事が完了し、同年8月に開業した。これに伴い、日高本線と広尾線は「日勝本線」に統一され、日高本線の旧線は廃止となった。

 その後、日勝本線は日高や襟裳への観光輸送、札幌と十勝を結ぶ予備ルートとして活用された。民営化が決定した後も、距離の長さや通勤・通学の利用客、観光への利用からJR北海道に引き継がれた。


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・改正鉄道敷設法第142号ノ3(『新得ヨリ上士幌ヲ経テ足寄ニ至ル鉄道』)

 史実の北十勝線に相当する路線である。この路線の目的は、石勝線と白糠線と合わせて、沿線の開発や札幌釧路間の短絡を目的とした。他にも、池北線(北見~池田、廃止)と合わせて札幌網走間の短絡も兼ねていた。


 工事は1952年に行われた。この路線も日勝本線同様、攻撃された場合のバイパスとして計画された。特に、この路線と網走本線(池田~北見~網走、後の池北線と石北本線)、現在計画中の第134号(石勝線)と合わせる事で、石北線のバイパスとなる事が期待された。石北線ルートの方が距離が短いが、急勾配が多い事から貨物輸送を行うには厳しいと見られた。

 工事区間の内、新得~士幌は北海道拓殖鉄道に沿うルートの為、1954年に買収の上で廃線、改めて建設を開始した。沿線を通る農家の反対があったが、この区間は平野部で大きな障害は無かった。その為、1957年には新得~士幌が「北十勝線」として先行開業した。

 残る上士幌~足寄については(士幌~上士幌は士幌線と共用)、1961年に開業した。これにより、北十勝線が全通した。


 北十勝線が全通したものの、優等列車の運行は無かった。肝心の石勝線の開通が遅れた為である。その為、開業から15年はローカル輸送に徹し、一時は赤字ローカル線として廃止になりかけた。

 1975年に石勝線が開業した事で、北十勝線はようやく日の目を見た。石勝線~北十勝線~池北線ルートが完成した事で、札幌網走間の高速化が実現した。距離こそ共に約380㎞だが、石勝線や北十勝線が高規格で建設されたので高速化がされている事、途中にスイッチバックが無い事から、「おおとり」がこのルートに変更となった。


 国鉄再建時、北十勝線は第二次特定地方交通線に指定された。しかし、帯広郊外の通勤・通学輸送に利用出来る事、札幌・帯広~網走のルートになる事から、池北線、士幌線と共に第三セクター「北勝高原鉄道」に転換となった。また、「おおとり」は札幌~網走(石勝線・北十勝線・石勝線経由)に変更となり、1日4往復に増便となった。


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・改正鉄道敷設法第145号(『北見国興部ヨリ幌別、枝幸ヲ経テ浜頓別ニ至ル鉄道 及幌別ヨリ分岐シテ小頓別ニ至ル鉄道』)の一部開業

 史実の興浜線と、北見枝幸から分岐し天北線の小頓別に至る支線に相当する。後者については、美幸線との誘致争いに敗れたが、このルートは天北線の当初予定のルートであり、歌登町営軌道が運行していたルートでもある。


 この世界では、北方警備を目的に第145号の建設を1952年から行われた。この区間は歌登町営軌道が走っているが、全線買収の上で廃止した。町営軌道の規格では、高速運行や長大編成に耐えられない為である。

 小頓別~北見枝幸については、町営軌道の用地を利用出来る事、難所が少ない事から、1955年に開業し「歌登線」と命名された。残る雄武~北見音標~北見枝幸については、雄武~北見音標が1973年に開業したものの、残る北見音標~北見枝幸については8割の工事が完了した所で中断となり、遂に開業する事は無かった。


 歌登線が開業した事で、枝幸町は直接札幌や旭川と繋がった。これにより、水産物の輸送や枝幸町への旅客輸送で大いに賑わった。

 歌登線と興浜北線が繋がった事で、小頓別~浜頓別で2つのルートが形成された。1つは中頓別経由の北見線ルート、もう1つは北見枝幸経由の歌登線・興浜北線ルートである。距離的には前者の方が短いが(中頓別経由で約45㎞、北見枝幸経由で約60㎞)、沿線人口だと後者の方が有利だった。また、建設時期の違いから後者の方がやや規格が良かった。


 その為、1961年に北見線と歌登線、興浜北線で改編が行われ、音威子府~小頓別~歌登~北見枝幸~浜頓別~鬼志別~南稚内が「天北線」となり、残った小頓別~中頓別~浜頓別は「頓別線」となった。

 その後、天北線は優等列車が運行され、北海道樺太間の輸送の第二ルートとして活用された。民営化後も残り続け、天北線ルートは札幌稚内の都市間輸送やオホーツク地域への観光輸送ルートとして活用された。


 一方、頓別線はローカル輸送に限定され、国鉄再建時に第一次特定地方交通線に指定され1987年に廃止となった。興浜南線も同様だった。

 また、歌登線の開業によって、美幸線はその目的を失った。一応、美深~仁宇布が1964年に開業したが、そこから先は大きく工事が行われる事は無かった。最終的に、史実と同じタイミングで廃止となった。

 

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〈東北〉

・改正鉄道敷設法第27号(『福島県福島ヨリ宮城県丸森ヲ経テ福島県中村ニ至ル鉄道 及丸森ヨリ分岐シテ白石ニ至ル鉄道』)の一部開業

 この路線は、現在の阿武隈急行の福島~丸森~角田、未開業の丸森~中村(1961年から相馬)、角田~白石から成る。目的は、中通り(福島)と浜通り(相馬)の接続、他の計画線と接続して山形方面の連絡や東北本線のバイパスとなる事にあった。

 史実では、1968年に槻木~角田~丸森が丸森線として開業したものの、同じ年に東北本線の複線化・電化が完了した為、目的だった「東北本線のバイパス」はほぼ消滅した。加えて、「東北本線のバイパス」目的で建設した為、高規格の反面、市街地から離れた場所に敷設された事により、利用客も少なかった。

 その後、利用客の少なさから「日本一の赤字線」と言われた。国鉄再建時に第一次特定地方交通線に指定され、1986年に第三セクター「阿武隈急行」に転換された。

 転換後、残る福島~丸森の開業、電化、東北本線との直通などにより、利便性の向上が図られた。


 この世界では、丸森線の建設促進同盟に「福中鉄道建設促進同盟」が合流した。福中鉄道建設促進同盟は、「福島と浜通り北部を一本で結ぶ鉄道」の建設を要望した(中通りと浜通りを結ぶ鉄道は、郡山~いわきの磐越東線のみ)。両者が同じ鉄道敷設法にある事から、両者は合流して「丸森・福中鉄道建設促進同盟会」となった。

 同盟会の熱心な運動により、1957年には調査線、1959年には建設線に昇格した。丸森線については東北本線との兼ね合いがあるものの、福中線についてはそれが無かった為、1962年に工事が行われた。この内、福島~丸森は丸森線との共用である事からC線(主要幹線)規格で、丸森~相馬はB線(地方新線)規格で建設された。


 建設は進み、1970年時点で丸森~相馬の道床の工事は完了しており、レールも3割が敷設済みだった。一時は、丸森線の開業区間の利用者の不振から、残る区間を開業させるべきか判断されたが、福島~丸森の工事が殆ど完了している事、地元からの熱心な要望から、工事が続行された。

 それにより、1971年に福島~丸森が、1972年に丸森~相馬が開業し「相馬線」と命名された。丸森線は全通し、福島と浜通りを結ぶ鉄道も完成した。


 両線の開業後、東北本線のバイパスや福島と相馬、相馬経由で平へのルートが構築された。今まで鉄道を要望していた地域に念願の鉄道が開業した為、利用客は多かった。

 それでも、国鉄再建時に丸森線が第三次特定地方交通線、相馬線が第二次特定地方交通線に指定された。沿線は存続する事を望んだ為、1987年に第三セクター「阿武隈急行」に移管された。


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・弘前電気鉄道の拡大

 弘前電気鉄道(弘前電鉄)は、弘南鉄道大鰐線を運営していた会社である。当初の予定では、中央弘前から板柳へ、西弘前(弘前学院大前)から分岐して西目屋村の田代に至る路線も計画されていた。背景には、地域開発以外に、三菱電機による地方電鉄の施設などのデモンストレーションというものがあった。

 しかし、朝鮮戦争による資金・資材不足によって大鰐温泉~中央弘前以外の建設が進まなかった。また、戦争後の道路・燃料事情の好転によって、建設が行われない間にバス輸送が強化された。並行する奥羽本線の存在もあり、既存線の環境も悪化した中で、新線の建設は不可能だった。

 結局、残る免許は全て失効し、最初に開業した区間のみとなった。その区間も、バスや国鉄との競争で厳しい状況だった。1970年に弘南鉄道に路線を譲渡し、会社は解散となった。


 この世界では、同じ三菱系の三菱金属鉱山が弘前電鉄に資本参加した。西目屋村にある尾太鉱山の資源輸送を、弘前電鉄に行わせようとしたのである。

 1953年に、弘前~西弘前~田代と中央弘前~板柳の工事が行われた。沿線の支援、三菱電機の企業体力が大きく落ちなかった事により、工事は順調に進んだ。翌年には弘前~西弘前が開業し、1956年には残る西弘前~田代(田代線)と中央弘前~板柳が開業した。これにより、当初の計画線が全て開業した。


 全線開業した事により、西目屋村や板柳町の開発が進んだ。「農業と住宅の混合」を理念に、無軌道な開発は行われなかった。また、田代線沿線の温泉開発や岩木山、白神山地の観光ルートとしても活用された。

 しかし、モータリゼーションの進行による利用客の減少、自然災害による運休と復旧が経営を悪化させた。また、三菱電機も経営から手を引いた事で、自力での経営再建は困難とされた。一時は大鰐温泉~西弘前の廃止も検討されたが、1970年に弘南鉄道との合併によって廃止は免れた。

 史実では譲渡だったが、この世界では弘前電鉄の規模が弘南鉄道に対して大きい事、尾太鉱山からの貨物輸送の存在から、合併という形となった。

 

 その後も、田代線と大鰐線は通勤・通学、観光で活躍した。合併当初は鉱石輸送も大きな収入源だったが、肝心の鉱山がオイルショックや海外からの輸入によって1978年に休山、翌年には閉山となった。これにより、利益の大きな部分を占めていた貨物輸送がほぼ消滅した。

 一方、開業後から行われていた沿線開発により、通勤・通学輸送量は増加した。弘前都市圏の拡大に伴い、沿線の開発が進んだ為だった。

 現在では、赤字に悩まされながらも、沿線の足として活用されている。


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・蔵王高速電鉄の開業

 蔵王高速電鉄(蔵王電鉄)は、山形~上山(かみのやま温泉)と途中の半郷から分岐して高湯に至る路線を計画した会社である。この鉄道も山陽電鉄の岡山延伸線や弘前電鉄と同様、戦後の混乱期に出願した地方の電鉄である。

 目的は奥羽本線で有数の混雑区間である山形と上山の旅客輸送だが、国としても国鉄との並行線は基本的に認めない方針だった。その為、当初は却下されたが、後に蔵王温泉への観光輸送や蔵王鉱山の硫黄輸送を加えた事で、1948年に認可された。

 翌年には第一期線として山形~上山の工事が行われ、日立製作所へ電車の発注も行われた。しかし、朝鮮戦争によって物価が高騰し、工事が中断された。その後も工事が行われる事は無く、1960年に免許は失効した。

 因みに、日立に発注した電車の内3両が完成していたが、蔵王電鉄が開業しなかった為キャンセルとなった。宙に浮いた電車を引き取ったのが、岡山で開業した備南電気鉄道だった。その後、備南電鉄が玉野市営電気鉄道になり、1965年に非電化になった後に高松琴平電気鉄道に譲渡された。


 この世界では、山形~寒河江~楯岡(現・村山)も追加で出願した。これは、山形市北部の開発、輸送量の多い区間への参入、改正鉄道敷設法第24号(山形県楯岡ヨリ寒河江ニ至ル鉄道)の実現が目的だった。

 この区間の免許も認められたが、先に山形~上山の建設が先だった。朝鮮戦争による工事の中断があったが、1年で終了した事、日立が三菱電機に対抗した事から、工事が進められた。

 1953年に山形~上山が開業し、残る区間の工事も行われた。山形~寒河江~楯岡は最上川以外で難所が無い為、1956年に山形~寒河江が、1958年に寒河江~楯岡が開業した。

 一方、半郷~高湯は山岳地帯で急勾配やトンネルが多数必要となり、工事も長期化した。最終的に、1959年に開業し、ここに蔵王電鉄が全線開業した。


 開業後の蔵王電鉄だが、上山~山形は奥羽本線と完全に並行している為、奥羽本線の整備が進むと厳しくなった。本数の多さでカバーするなどしたが、山形交通との対立もあり、厳しい状況が続いた。国鉄民営化後、何度か半郷~上山の廃止が検討された。


 一方、高湯への路線と寒河江・楯岡への路線は好調だった。高湯方面は、当初は蔵王鉱山の硫黄輸送に、鉱山の閉山後は蔵王温泉や蔵王山の観光開発に活用された。また、沿線でスキー場開発が進み、国鉄からの直通列車も運行された。

 但し、蔵王への観光ルートとして仙台鉄道の青根温泉からのルートも存在した為、蔵王電鉄と仙台鉄道はライバル関係になっていった。


 もう一つの寒河江・楯岡は、国鉄以上の高頻度運転、高速運転が行われており、国鉄から多数の旅客を奪った。特に影響が大きかったのが左沢線だった。山形~寒河江で並行しており、本数で勝負にならなかった為、国鉄末期に第二次特定地方交通線に指定された。その後、1987年8月に廃止となったが、寒河江~左沢については利用者が多かった為、蔵王電鉄に移管され存続した。


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・福島臨海鉄道の大規模化

 福島臨海鉄道は、1967年に小名浜臨港鉄道から改称した。常磐線の泉から海岸線に沿い、小名浜に至る路線を有している。また、途中の宮下から分岐して小名浜埠頭、藤原に至る路線や、小名浜から延伸して栄町に至る路線を有していた。

 そして、栄町から先は、江名鉄道が江名まで伸びていた。両社は一体的に運用された。

 しかし、前者は貨物の取扱量の減少によって2001年までに全廃し(尤も、1984年から貨物の取り扱いは無くなった)、後者も旅客・貨物の輸送量の少なさ、劣悪なインフラ(殆ど保守が行われていなかったらしい)、1965年の台風による一部施設への被害などによって1967年に廃止になると、翌年には廃止となった。


 この世界では、1963年7月に現在のいわき市(合併前は磐城市や平市など5市4町5村に分かれていた)が新産業都市になる事が閣議決定された事(翌年3月に指定)を受け、小名浜臨港鉄道が平(現・いわき)~小名浜を結ぶ鉄道を計画した。これは、平や沿線から工業団地への通勤路線として計画された。また、この計画は改正鉄道敷設法第31号(福島県平ヨリ小名浜ニ至ル鉄道)の実現でもあった。

 1964年には免許が申請され、67年には認可された。同年には福島臨海鉄道に改称し、国や自治体からも出資を受けた状態になった。工事は69年から行われ、1971年には開業した。また、廃止された小名浜~栄町~江名も復活した。


 全線電化で開業した平~江名は、出だしは順調だった。沿線はニュータウン開発が進められた為、利用客は見込めた。

 しかし、開業後のオイルショックによって企業の進出が鈍化し、人口の流入も鈍化した。それに伴い、ニュータウンの開発も鈍化した。その為、利用客の伸びも低調となった。

 それでも、大きな赤字にならなかった事、国道の交通量が増加した事によるバスの定時性が損なわれた事によって、利用客はその後も増加していった。

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