番外編:中外グループの社会人野球(1990年代~)
1980年代末から日本はバブル景気によって空前の好景気に見舞われた。その後、1992年にバブル景気は緩やかに終息に向かった。これにより、景気は緩やかに後退したが、企業にとってはこれが幸いし、環境への変化に対応させる事が出来た。
また、この世界では中国と韓国の経済発展が進んでおらず、それに伴う日本の製造業の空洞化や技術移転が進んでいなかった。台湾や満州がライバルとして台頭しつつあったが、製鉄や造船、製紙などの重化学、半導体などの分野では依然として日本がトップに君臨していた。
同様に、国防と流通網の整備を理由に公共事業の削減はされず、「ハコモノ行政」という批判はあるものの、道路や空港、港湾の整備は続けられた。バブル期においても過剰な開発(ゴルフ場、スキー場など)が規制されていた事もあり、ゼネコンの経営状況も比較的マシだった。
これらの要因によって、日本の景気は史実より安定しており、企業の状況も史実より遥かにマシな状況だった。
_________________________________________
景気の緩やかな後退と日本の産業界の優勢の維持は、社会人野球に良い影響を及ぼした。史実では、バブル崩壊と長引く景気の悪化により、多くの社会人野球チームが休廃部に追い込まれた。これまでも、不景気を理由に複数のチームが休廃部していたが、この時は多くの名門チーム(熊谷組や河合楽器、北海道拓殖銀行など)が無くなった。その他の野球部も名門に続く様に無くなり、企業の野球部は100を切る程にまで減少した。
この世界では、バブルの終息とその後の対応によって落ち着いた景気後退となった。これにより、企業の業績は悪化しつつあったが緩やかなものだった。そうなると、急速なリストラは行われる事は無く、野球部も存続した。特に、重化学(製鉄、機械、化学、製紙)の名門の多くは存続し、例として新日鐵の各野球部(八幡、堺、光、室蘭)に神戸製鋼、東芝府中に協和発酵、いすゞ自動車に王子製紙苫小牧など、多くの名門や有名企業のチームが存続した。重化学以外でも、河合楽器や熊谷組などが存続した。
また、21世紀以降も景気は緩やかに上昇し、人口減少も大きな問題とはなっていない事から、日産自動車や三菱重工長崎などが存続している。
だが、全ての野球部が存続出来た訳では無かった。史実より景気が良いとはいえ不景気になった事は事実で、中には史実と同じ様に急速に業績が悪化した企業も存在した。
その代表的なチームは北海道拓殖銀行である。史実の拓銀は1997年に経営破たんし、その前年には野球部は廃部している。この世界では1997年時点でも存続しているものの、経営が苦しい事には変わらなかった。その為、経営合理化の為に2000年に廃部となった。その際、部員は北海道の他のチームに移籍となった。
たくぎん以外でも、大昭和製紙やヤオハン、大和銀行にプリンスホテルなどが解散に追い込まれた。だが、それらのチームの部員は他チームに移籍したり、同じ地域内で廃部となった野球部の部員と共にクラブチームを設立する事で野球を続けられた。
複数保有しているチームは、一方に集中させる方針を取った。
この例の代表的なチームはNTTである。こちらは史実通り、NTT東日本とNTT西日本に統廃合された。他にも、住友金属鹿島が住友金属野球団(堺市)を、日本通運(さいたま市)が日本通運名古屋を、東芝(川崎市)が東芝府中をそれぞれ統合しており、史実と同じになった。前述した日産自動車も日産自動車九州を統合して存続し、三菱重工も長崎が存続している代わりに三原が整理対象となって廃部となった。
この内、住友金属鹿島には続きがあり、この世界では住友金属が新日鐵とではなく大室製鉄産業と経営統合した。これにより新社名は「住友大室製鉄」となり(存続会社は大室製鉄産業)、住友金属鹿島は「住友大室製鉄鹿島」と改称された。合わせて、大室製鉄堺も「住友大室製鉄堺」に改称された。
それ以外にも、企業合併によって野球部の統合が行われたところもある。
この例の代表的なチームはJFE西日本である。この世界でも日本鋼管と川崎製鉄は合併してJFEスチールが成立している。それに伴い、両社の野球部も統合する事となり、日本鋼管系のNKK(福山市)と川崎製鉄系の川崎製鉄水島(倉敷市)が統合して「JFE西日本硬式野球部」が設立された。
_________________________________________
中外グループにもバブル後の不景気の影響による変化があった。休部または廃部となったチームも幾つか存在する。大きく影響を受けたのは金融と小売業、鉄道業だった。
1970年代に軟式及び準硬式から硬式野球部に転向した三洋生命、昭和生命、協和大同銀行だが、東京及び大阪は激戦区である為、地区連盟主催大会は幾つか制しているものの都市対抗及び日本選手権への出場は中々叶わなかった。1980年代から90年代に何度か出場したものの、最高でベスト8止まりなど良い成績を残せなかった。
その後、バブル景気の終息に伴う景気の緩やかな後退と、大規模な企業再編に伴う事業の選択と集中によって野球部にとっては厳しい時代となった。幸い、三洋生命は廃部とならなかったが、昭和生命については千代田生命との合併による混乱で1999年から3年間は休部となり、2002年に「昭和千代田生命野球部」と改称して再開した。協和大同銀行も本業への集中、東海銀行との合併とそれに伴う合理化を理由に2002年に廃部となった。
小売業のNICCOLIも、バブル景気終息後の消費の冷え込みや嗜好の多様化でGMSの形態が時代遅れとなり、21世紀初頭から本業が不振状態となった。この煽りで、2004年に野球部は廃部となり、選手は他の中外グループ各社に分散された。
バブル景気以降、地方の人口が微減傾向となった。そこに、道路網の整備や自家用車の保有台数の増加などの要因も加わり、鉄道及びバスの輸送量が減少に転じた。この影響は、北陸を勢力圏とする加越能鉄道(加越能)が大きな影響を受け、高速バス部門以外では赤字が大きくなった。
また、札幌急行鉄道(札急)はバブル期に沿線人口の増大とそれに伴う観光開発を見込んでレジャー開発にのめり込んだ事が災いし、多額の不良債権を抱え込む事となった。
山陽電気鉄道(山電)も、沿線人口の減少と国鉄民営化による山陽本線との競争激化、沿線のレジャー開発及び宅地開発の停滞によって赤字が増大した。沿線の工業地帯の雇用が大きい事から輸送の減少は少なかったものの、神戸・姫路~赤穂・岡山の通しの利用者が減少した事は打撃だった。
当然、早急な経営再建が望まれ、遊休資産の売却やリストラの促進、不採算部門の切り離しなどが行われた。こちらは、倒産した場合の地域の交通網や信用の関係、社内における野球部の重要性が高くない事から野球部は早々にリストラされる事となった。その為、1997年に加越能が、1998年に札急が、2000年に山電の野球部が廃部となった。
だが、廃部による地域の社会人野球の火を消すのは反対され、地元の有力者や企業と共同でクラブチームが設立された。これは、他の社会人野球チームが消滅した事で、その受け皿となるクラブチームの設立が望まれていた為でもあった。これにより、1999年に「福井あわらベースボールクラブ」が、2000年に「空知ベースボールクラブ」が、2001年に「岡山クラウンズ」がそれぞれ加越能、札急、山電の後継チームとして設立された。選手は、前身チームだけでなく廃部となった他のチームからの選手も集められた。
他にも、名門の日本林産が完全に撤退し、日本鉄道興業も縮小を余儀なくされた。これらの発表は驚きをもって迎えられた。
日本林産は、国内の林業だけでなく住宅建設やバイオマス火力など多角化したが、国内材のコストの上昇や林業従事者の減少、住宅需要の落ち着きなどで業績が低下し、野球部を持つ体力が無くなりつつあった。その為、2000年の活動を最後に廃部となったが、元選手と鳥取・島根両県の社会人野球チームの選手が合同で「山陰倶楽部」を設立して事実上クラブチームとなって存続した(本拠地は鳥取県米子市に移転)。
日本鉄道興業は、日本における鉄道車両の更新が一通り完了した事で需要が大きく減少した。不幸な事に、日鉄は1970年代の中外グループ内での重工系の統合の影響でほぼ鉄道車両専業メーカーとなっており、他の業種は発電機とタービンなどの重電部門ぐらいで、その重電部門も海外への輸出が一段落した事で業績の悪化が避けられなかった。
その為、輸出強化と本業強化の為に経営資源の集中とリストラが行われ、その一環には野球部の廃止も含まれていた。だが、社内からの反対が多かった為、当初予定の千葉と防府の両チームの廃止こそ免れたものの、どちらか一方の廃止は避けられなかった。社内の投票の結果、実績から防府が存続する事が決定し、千葉が廃部になる事が決定した。
2003年、惜しまれつつも日鉄千葉が廃部となり、選手の多くは防府に移った。これにより、残った防府の野球部は「日本鉄道興業野球部」と改称した。
_________________________________________
一方で、一度は廃部が決定したが、内外の反対と業績の好転で土壇場で存続が決まった野球部も存在する。これは、日鉄土木と大室物産が該当する。
ゼネコンの日鉄土木は、バブル期にリゾート開発に注力し過ぎたのが痛かった。バブル終息後にリゾート開発計画が軒並み縮小され、土地価格の下落も合わさり、大幅な赤字を記録した。超過債務に至らなかったのは幸運だったが、早急にリストラと収益の改善を行わなければ倒産は避けられないと見られた。リストラの中には、野球部の廃部も含まれており、1997年に翌年から休部、近い将来に廃部する事が発表された。
しかし、バブル終息後に政府主導で国内の道路、空港、港湾設備の強化の為に動いた事、その後の極東危機(※1)と相次いだ自然災害によってインフラ整備の強化が叫ばれた事で、業績が回復に向かった。これにより、適度なリストラや収益構造の改善はするべきものの、無理なリストラはする必要は無いと判断され、会社の一体の象徴でもある野球部の廃部は白紙となり、2001年には3年以内に野球部を復活させる事が発表された。そして、当初予定より1年遅れたものの、2005年に正式に復活した。
商社の大室物産も、伝統的に非資源に強く不動産投資に消極的だった事から、バブル景気による影響は大きくなかったが、海外、特に東南アジアへの進出を強めていた事からアジア通貨危機での影響を大きく受けた。これにより設立以来の大赤字を記録し、早急に立て直しが迫られた。当然、そこには事業の集中とリストラが含まれており、リストラには野球部も対象に入っていた。
しかし、都市対抗出場や日本選手権優勝の経歴を持つ野球部の解散は内部からの批判が大きく、当時の経営陣の多くも野球愛好者だった事から、野球部のリストラは先送りとされた。その後、極東危機後に東南アジア及びインドの経済は回復し、それに伴い大室物産の業績も回復した。これに伴い、野球部の廃部は白紙となった。
_________________________________________
大きく影響を受けたチームもあれば、影響が小さいチームも存在する。製鉄や製紙などの重化学系がそれに該当する。特に重工系と製鉄、電機、セメントなどは極東危機(※1)の影響で業績が回復傾向に向かった事が大きかった。
大室製鉄、大室重工、大室電機などは変わらず保有を続けた。それ処か、廃部となったチームから人材を集めたり、予算を増額するなどして強化策を次々と行った。また、1996年には元プロ野球選手を3人までチームに編入しても良い事となり(※2)、更なる補強が行われた。
その結果、1997年の都市対抗で大室製鉄が初出場で初優勝を成し遂げた。更に、同じ年の日本選手権にも出場し、中外グループ初の同一年の両大会制覇(※3)なるかと思われる程順調だったが、決勝で三菱重工神戸に敗れて惜しくも準優勝だった。
それ以降も、大室系の野球部の都市対応と日本選手権への進出が目立つ様になり、特に大室重工徳島は1998年から10年連続で都市対抗及び日本選手権に出場するという大記録を成し遂げ、2002年には両大会制覇を成し遂げた。この年から金属バットの使用が禁止された為、投手力と木製バットになれている選手を多く保有していた事が決め手となった。一方で、この年以外は良くてベスト8、最悪1回戦敗退だった為、この年だけ状況が良かったと言える。
大室系の野球部の躍進が目立つが、日林系の扶桑製紙も同様の事を行った。当時、大昭和製紙の経営不振による野球部の解散によって同業他社の野球部員が放出された為、補強を行う事が出来た(後に、大昭和製紙は扶桑製紙に統合される)。これにより、2001年の都市対抗に扶桑製紙宮崎が初出場し、ベスト8に進出した。他にも、北海道が2003年の日本選手権でベスト4、四国が2006年の都市対抗でベスト8、同年の日本選手権でベスト4と勝ち進んだ。
_________________________________________
21世紀になってから、経済構造の変化や人口増加の停滞、スポーツの多様化によって社会人野球はやや停滞の様相を見せている。プロ野球の方も同様だが、人気回復とファン人口の拡大の為にプレーオフが導入されたり(※5)、エクスパンション(球団拡張)を行う(※6)などして増加傾向に向かっている。
社会人野球の方も人気回復の為に都市対抗及び日本選手権への出場枠の拡張を行いたかったが、既に何度も拡張を行っており、現状36チームが出場可能となっている。また、社会人野球チームの数も微減傾向にあり、これ以上の増加が見込めなかったその為、これ以上の拡張は大会の質の低下となりかねない為、拡張が出来ない状況だった。
一方、クラブチームについては増加傾向にある為、2002年から全日本クラブ野球選手権大会の出場枠が段階的に拡張され、最終的に2010年に24チームと大幅に拡張された(※7)。
社会人野球の未来はやや厳しいものがある。企業の状況や人口に左右される為、今後も安泰とは言い切れない。だが、地域に根差した活動が続けられており、社の一体感だけでなく地域との共生の象徴としての存在もある。その意義を失わなければ、まだまだ存続するだろう。
※1:1998年から2年程の期間、満州の政変に伴う中国、北朝鮮、韓国が軍事行動を起こす寸前となった。同時期のアメリカ政府が、冷戦終了に伴う緊張の緩和と対中・対満政策(まとめて西側に引き摺り込もうとした)から政治的・軍事的プレゼンスを示す事に否定的だった事、アジア通貨危機による混乱のガス抜きが原因だった。アメリカが前述の為、事実上日本単独で事の対処をする事となった。幸い、ロシアの満州への介入による満州の政変とそれに伴う北朝鮮の鎮静化、中国内部の政変、韓国の日米両国による経済制裁などにより戦争にはならなかった。これ以降、日本は周辺状況の不安定さから装備の更新と質的向上を行う様になり、アメリカも東アジア・東南アジアへのプレゼンス強化の為の政策を行う羽目になった(市場開放、一部技術の格安での移転など)。
※2:史実では1999年から解禁され2人まで。
※3:これを成し遂げた事があるチームは1997年時点で東芝(1988年)のみで、それ以降もJX-ENEOS(2012年)、日本生命(2015年)のみ。
※4:1972年に東北パルプを統合した事で1986年に設立。史実の日本製紙石巻。
※5:「架空の財閥を歴史に落とし込んでみる」の『番外編:この世界でのプロ野球の状況(1980年代~)』参照。
※6:「架空の財閥を歴史に落とし込んでみる」の『番外編:この世界でのプロ野球の状況(1980年代~)』及び『番外編:この世界でのプロ野球の状況(2000年代~:別の世界)①』参照。
※7:出場枠は2009年に16チームとなるまでは年々違っていた。史実では、第1回の1976年は10チーム、それ以降は11~16チームで、20チーム以上は2006年(21チーム)と2008年(20チーム)のみ。




