最終話 昭和戦後⑧・20世紀末・21世紀頭:中外グループ(7)
ようやく、本編は最終回となります。時代は、バブル景気から21世紀の頭となります。中外グループの設定を広げ過ぎて自分でも設定の理解に追い付かず、中身は結構スカスカです。
最後は大分駆け足になりました。
長い間、読んでいただきありがとうございました。本編は終わりですが、番外編はまだまだ続きます。
1980年代、日本の経済は黄金時代だった。第二次オイルショックによる経済構造の変化、省エネの促進、技術投資の拡大、輸出の増大など、日本経済は順調に伸びていった。かつての高度経済成長期の様な高い経済率こそ無かったものの、平均4~5%台の伸びで安定していた。
その一方、対日商品最大の輸入国であるアメリカとの貿易摩擦は深刻だったものの、太平洋・アジア方面の防波堤兼進出拠点である事、日本もアメリカ製の兵器や農産物の輸入量を増やしている事、日米両軍の装備の共通性から、史実の様な大規模な対立とはならなかった。それでも、スーパーコンピューターの導入問題やFSXの開発問題、日本市場の開放などは発生した。
1985年9月のプラザ合意、日本電信電話公社の民営化などにより、日本経済は絶頂期に入った。後に「バブル景気」と呼ばれる好景気に突入した。
1987年頃から、日本政府はバブル景気による税収の増加と乱開発の抑止を目的に、消費税の導入、資産価値が高いものや技術に対する投資の強化、必要以上の設備投資の抑制、土地や株に対する過剰な投資の抑制、投機の制限、北日本と沖縄への投資誘導などを行った。また、アジアでの冷戦の収まりが見えない事から、軍事に対する予算増額や軍事技術に対する投資の強化が行われた。
これらの政策が功を奏し、史実の様な土地や株への過剰な投機熱は弱かった。それでも、日本全体が金余り状態だった事からそれらへの資金の流入は避けられなかったものの、史実の7割程度となった。また、リゾート開発ブームなどがあり、史実同様国内のリゾート開発は行われたが、史実の8割程度だった。
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バブル景気に乗る一方、新技術に対する投資やバブル終了後の事にも注意を払っていた。日本政府は、第一次世界大戦中や戦後の例から、この好景気は長く続く事は無いと見ていた。その事を経団連など各種経済団体を通じて意見をしており、「現状に甘んじる事無く、どの様な事態が発生しても大丈夫な体制造りをしておく事」、「量的拡大と同時に質的向上の方に注力する事」という方針が取られた。
これにより、各社は考えて経営を行う様になった。特に大きかったのは、各社が業種とは関係無く土地や株に手を出す事が少なかった事である。得た資金を配当や技術投資に回され、余裕が出た時に土地や株に手を出す事が多かった。
その後、早い段階から金融の引き締めが行われ、段階的に引き締めていった。これにより、景気は緩やかに下り坂となり、正常な状態に戻った。これは企業にとって良性に働き、人員や資産の整理にゆとりを持って行う事が出来た。その為、急激な景気の後退とそれが原因となる企業の倒産は少なかった。
それでも、過剰な投資を行った事で不良債権を積み上げ、その後の処理に手間取った事で倒産する企業は存在したが、大手や準大手ではその様な例は少なかった。だが、日本長期信用銀行や三洋証券、マイカルといった大企業が倒産した事は大きなニュースとなり、他の企業は倒産を避ける為に不良債権の処理を加速させたり、国際競争力を高める為に合併が促進されるなどの結果を生んだ。
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電機や自動車などの軽薄短小産業は、所得の拡大やバブル景気による需要の拡大で好業績を上げ、質的向上から輸出も増大し、輸出の主力商品となった。
また、バブル景気による日本経済そのものの好調により、付加価値が高い商品の開発が進んだ。その為、高級車やスポーツカーの需要が拡大した。家電も高級志向になり、生活スタイルの変化から、それらに合わせた新型家電が生まれた。
他にも、通信技術の向上や高度電子化社会(インターネット化)に向けて、情報・通信に対する投資が強化された。電電公社の民営化とその後の通信の自由化によって、今後は通信産業が急速に拡大すると見られた。
その為、電機・通信メーカーによる通信機器やコンピューターへの投資が強化された。日本のコンピューター開発は1960年代から行われていたが、今までは大型のものが中心であり、今回は小型化と高性能化が目的だった。これらの成果は1980年代後半から1990年代に掛けて花開き、日本の電機メーカーのパソコンのシェア拡大にもなった。
同様に、半導体に対する投資も強化された。この時、政府から「技術漏洩、特に技術者の流出には注意する事」と釘を刺された。過去、安易に海外移転して共産主義国に技術が渡ったという事件があった為、各企業はこれを厳守した。
その結果、電子機器や液晶などの分野における日本の競争力は保たれた。これは21世紀に入るまで続き、それ以降は台湾が競争相手となったが、既に市場でのシェアの多くを獲得していた為、優位は揺らがなかった。
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造船や重工、製鉄などの重化学関係も、東南アジア諸国の開発や国内開発によって需要が大きかった。この世界では、中国と韓国の発展が史実より遅い事からその方面での需要が弱いが、その代わりに東南アジアとインドがその役割を担っている事、一部が国内に残り続けている事から、総合的な差し引きはゼロだった。
特に、日本のお家芸とも言える造船と製鉄は、アジアにおいては日本の独壇場だった。その中でも、特殊鋼などの高級鋼材、大型船舶は日本の右に出るものはいない程だった。
史実では、中国・韓国の伸びが著しく、日本との競争力を獲得したが、この世界では、朝鮮戦争時のいざこざで韓国との付き合いは疎遠となり、戦後のトラブルや日本の反共主義、文化大革命などにより中国との付き合いも疎遠となった。その為、日本から中国・韓国への技術支援や投資が殆ど無く、大型製鉄所や造船所が史実より遥かに少ない状況だった。
また、軍需の伸びが大きい事も、重化学の需要を上げた。1980年代、冷戦が最高潮を迎えた頃、米ソに合わせる様に日本も軍拡を進めた。特に、海軍の拡大が目玉で、6万t級の大型空母やイージス艦の建造、汎用駆逐艦や哨戒艦の大量建造が進められた。海軍以外にも、陸軍の新型戦車や新型装甲車の導入、空軍のF-15Jの大量導入決定や航空隊の増大など、三軍全てで拡大が進められた。これにより、主要造船会社のドックはフル稼働、各工場もフル稼働となった。
一方、この時に三菱重工業や川崎重工業などの主要重工・造船メーカーの製造能力が軍需で手一杯となり、民需を満たすには到底不足していた。その為、中堅や中小の造船メーカーへの受注が増加する事となり、これらの規模拡大となった一方、船舶の単価や設備投資の予算の高騰により、中堅・中小クラス単独では規模の拡大が難しくなった。その結果、造船効率の向上と競争力強化を目的に、それらの造船会社の整理統合が進む結果ともなった。
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中外グループも、バブル景気に乗り、その後の終息にも対応した。大室財閥系は流れを読む事は得意であり、日林財閥系と日鉄財閥系も脆弱な組織とは無縁の存在であり、一部の例外を除き各社は大きな損失を被る事無く迎えた。
特に、電機メーカーの大室電機産業と大室通信産業、化学メーカーの大室化成産業と日林化学工業、繊維メーカーの新東繊維など、軽薄短小産業の企業の伸びが大きかった。これらは、付加価値が高い商品を生産した事、小型の電子機器や新繊維を採用する商品が増加した事などが理由だった。
それ以外にも、重工の大室重工業、製鉄の大室製鉄産業などの重厚長大産業も、伸びの鈍化こそあったものの大きな受注があった事で拡大を続けた。
それでも、バブル景気終息後の緩やかな経済の降下と経済のグローバル化の進展により、企業グループが単体で存続していくのは不可能となった。その為、銀行の再編に乗じる形で、各企業の再編が進み、企業グループの再編も進む事となった。芙蓉グループ(富士銀行)と第一勧銀グループ(第一勧業銀行)、興銀グループ(日本興業銀行)が統合して「みずほグループ」になり、住友グループ(住友銀行)と三井グループ(さくら銀行)が銀行を通じて合併し、他の企業の連携が進むと見られた。
中外グループもこの流れに乗った。手を組んだ相手は、三和グループだった。これは、三菱グループだと飲み込まれるのではという恐れがあった。それに対し、三和グループであれば主導権を握りやすい上、バブル景気で傷を負った企業が多かった事も理由だった。
2001年4月、中外銀行と三和銀行、大室信託銀行と東洋信託銀行、大室證券とつばさ証券が株式移転を行い、持株会社「UFJホールディングス」を設立した。その後、翌年までに中外銀行が三和銀行と合併して「UFJ銀行」が、大室信託銀行が東洋信託銀行と合併して「UFJ信託銀行」が、大室證券とつばさ証券が合併して「UFJ証券」がそれぞれ成立した。同時に、UFJ傘下のリース会社や投信会社などの合併が行われた。
また、中外銀行以外の中外グループの金融各社の再編が進み、以下の様になった。同時に、各社傘下の企業(リースや投信、信販など)も合併が行われた。
〈都市銀行、信託銀行、証券〉
・中外銀行、大室信託銀行、大室證券→2001年4月に三和銀行、東洋信託銀行、つばさ証券と経営統合、「UFJホールディングス」傘下に。翌年、UFJ銀行、UFJ信託銀行、UFJ証券となる。
・協和大同銀行→2001年10月に東海銀行と経営統合、「あすかホールディングス」傘下に。翌年、東海銀行が合併してあすか銀行成立。
・日鉄證券→単独で「日鉄フィナンシャル・ホールディングス」設立。
〈生命保険、損害保険〉
・昭和生命保険→2000年4月に千代田生命保険と合併、「昭和千代田生命保険」となる。
・三洋生命保険→2001年4月に新亜グループ系の協栄生命保険と経営統合、「KSライフホールディングス」を設立しその傘下に入る。
・大室火災海上保険、昭和火災海上保険→2002年6月に合併し「大室昭和損害保険」設立。同時に、両社傘下の東邦生命保険も子会社生保と合併。
金融以外でも、商社や化学、製鉄など各社の合併が行われた。これは、グローバル化が進んだ事で単独での存続が難しくなった事、不良債権処理の為、合併が推奨された事が理由だった。
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1989年1月8日に昭和から平成に変わって以降、世の中は目まぐるしく変わった。バブル景気によって日本全体が好景気に沸いた一方、バブル景気終息後は、90年代中頃から後半にかけて中小企業を中心に企業の経営危機が相次ぎ、企業再編のラッシュが押し寄せた。他にも、カルト宗教によるテロ事件や、新聞とテレビの不祥事が一気に噴出してマスコミ改革が行われ、新政党の乱立による政局の混乱などが相次ぎ、安定した状態では無かった。
また、対外的には、東欧諸国の社会主義体制の崩壊とその後のソ連崩壊によって冷戦が終結したかと思えば、中華人民共和国の影響力拡大や韓国の体制の変化によって、東アジアでの冷戦は終結する処か熱を帯びた。その後、「極東危機」と呼ばれる戦争寸前の状態になるなど、東アジア世界の安定はまだ先と見られた。
それでも、日本は西側における東アジア・太平洋方面の要であり続け、日本もその任に応えた。そして、その方面で混乱が続く程、日本の重要性が増し、また国内の混乱を早急に収めようと動いた。
そして、21世紀に入り、東アジアと東南アジアの隆盛と同時に、地域覇権争いが目立つ様になった。その中で、日本はアメリカと日本主導で協調する形で、この地域の安定に勤め続ける事となる。
中外グループも、平成、21世紀に入り、安定した運営が行われている。かつての様な拡張こそ無くなったものの、今までの経験や財産を活かし、今後の不安定な未来で生き残る為、常に動向を察知している。また、グローバル社会で生き残る為、かつての様に国内の競合他社による競争だけでなく、協調して共に成長したり、海外の企業と提携して新技術やノウハウを吸収するなど、やるべき事は沢山あった。
今後、グループの安泰は不明だが「選択を間違えなければ大きな危機を迎える事は無いだろう」と見られた。取り敢えず、21世紀に入った現在、中外グループのスタートは悪いものでは無かった。今後も、中外グループは成長を続けるだろう。




