7話 明治初期②:大室財閥(7)
ようやく、当初の目的だった『閉鎖された国立銀行を前身とする普通銀行があったら』という部分になります。
1872年、国立銀行条例が制定され、その翌年には第一国立銀行が発足した。これにより、金と等価の紙幣が発行される事となった。尤も、紙幣を発行できるだけの金の準備が出来ない事が多く、4行の設立に止まった。これを受けて、1876年の改正によって金以外の準備でも設立可能となり、以降全国で国立銀行が設立され、最終的に153行設立された。また、国立銀行とは別に、1876年には三井銀行が、1880年には安田銀行(後の富士銀行)が設立された。
この様な流れの中、彦兵衛は銀行への参画にはこの時は懐疑的であった。その理由は、銀行がどの様なものか理解出来ていなかった為であった。一応、彦兵衛商店における取引の中には両替商に似た事を行っている事から、参入は不可能では無かった。しかし、ノウハウの不足と資本面での不安から、単独での参入は不可能と考えていた。
その為、他の銀行への出資や経営に参画する事と、銀行のみならず金融全般の勉強を商店全体で行う事で、将来的な銀行業への参入を狙った。特に、本拠地となった東京、西日本における中核拠点の大阪で設立される銀行への参画が予定された。
この考えの下、1878年に設立された東京の第三十三、大阪の第二十六と第百二十六の各国立銀行に出資した。これが銀行業参入への第一歩となったが、この時はあくまで出資者としての参画であり、経営者としてでは無かった。
当時、まだ彦兵衛が銀行業への知識不足から、『自分達が経営を握っても、上手く出来るかは分からない。現在は、銀行業の事を知る必要がある』と考え、海外からの知識の吸収に勤しんでいた。幸い、彦兵衛商店は洋書の取引を行っており、その中には銀行についての書物だけでなく、金融業全般や簿記についての書物もあった。それらから、銀行運営のノウハウ、投資術、簿記の付け方や活用法などを、商店の主要な人材達が4年掛けて隈なく吸収した。
大きく動いたのは、1882年10月だった。出資していた第百二十六国立銀行が閉鎖するかもしれないとの知らせが届いた。この意見を受けて彦兵衛商店では、この機会を利用して第百二十六国立銀行を買収し銀行経営に参入しようとする意見と、もう少し時間をかけて学んでから参入するべきという意見で分かれた。これに対し彦兵衛は前者、つまりこの機会に銀行業に参入する事を決定した。彦兵衛曰く、『確かに、我々が学ぶべき事は多い。しかし、実際に経営してみなければ分からぬ事も多い。これを機に、我々が学んだ事を生かしてみよう』との事だった。
この言葉と決定により、彦兵衛商店が電撃的に第百二十六国立銀行の経営権を掌握した。銀行側も、『少しでもお金が戻ってくるのならば、こちらも反対しない』として、この動きを止めなかった。かくして、第百二十六国立銀行は彦兵衛商店が経営権を握った。
その後、出資していた第二十六、第三十三国立銀行も翌年までに買収して第百二十六国立銀行に一本化した。その後、第四十五、第六十、第九十七、第百十一の各国立銀行と一部の民間銀行を1898年までに買収、統合し、1900年という節目に第百二十六銀行(1898年に国立銀行から普通銀行に転換)を大室銀行と改称した。
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続いて、保険業である。
彦兵衛は、保険業への参入に意欲的だった。商人である彦兵衛にとって、倉庫の火災や船舶の沈没などによる商品の損失は避けたかった。その為、もし商品に不測の事態が発生した場合の損失を抑えられる何かがあればいいなと考えていた。この考えは出店当初から考えていたが、当時は知識やノウハウが無かった事から、考え程度で止まっていた。しかし、前述の金融業の勉強中に保険業についての書物を読んだ事で、保険業への参入は現実味を帯びる事となった。
加えて、出店初期に外国商人の勧めで火災保険と海上保険に加入していたが、ここで保険の有用性を認識した。同時に、日本国内の保険を外国に握られるのは不味いと考え、日本人の手で保険を作れないかと考えた。
こうした考えの下、1879年8月に日本最初の本格的な損害保険会社である東京海上保険(後の東京海上火災保険)が設立されたのを受けて、同年10月に彦兵衛商店内で保険業への参入が計画された。その中で、単独で設立か他社との合同で設立するかが検討された。
単独設立派は他者からの妨害を受けない事を、共同設立派はリスクを抑えられる事をそれぞれメリットとして掲げた。共に意見として一理あった為、どちらで始めるかが中々決定しなかった。仕方なく、彦兵衛を含めた主要人物全員による多数決で決められる事となった。その結果、僅差で単独設立派が勝利した。この決定で、単独設立の方向で動く事となったが、同時にその動きは共同設立派が中心となって行う事が決められた。これは、争いで敗れたからと言って計画から外す事は無いというメッセージだった。
こうして、1883年2月に大室火災保険が設立された。決定から設立まで1年以上掛かったのは、知識の吸収に時間が掛かった為であった。その後、前述の銀行業への参入によって一時苦しかった資金繰りに目途が立ち、新聞社への影響力拡大によって広告を出せるようになって顧客を増やす事に成功した。この後、当時勃興していた類似保険会社や後続の損害保険会社を買収、子会社化していく事で拡大を重ねていき、1925年に社名を大室火災海上保険と改称した。
上記の大室火災保険とは別に、1897年に大室倉庫保険が設立された。こちらは、火災保険や海上保険を扱う大室火災保険とは異なり、動産保険を扱く事を目的として設立された。こちらも同業他社を買収していく事で拡大し、1933年に東亜動産火災保険と改称した。この頃には、安田財閥系の日本動産火災保険(後の日動火災海上保険)、野村財閥系の東京動産火災保険(後の大東京火災海上保険)、東京川崎財閥系の日本簡易火災保険(後の富士火災海上保険)と合わせて「動産四社」と呼ばれた。
生命保険の参入は遅かった。これは、ノウハウの不足と庶民の生命保険に対する理解不足からだった。その為、当初は参入する予定は無かったが、大室火災保険が買収した保険類似会社の中には、生命保険に類するものを運営するものが多かった。これらをそのまま廃止すると混乱が生じる事となり、かと言って、お門違いのものを扱う気も無かった。結局、同じ類似保険会社の共済五百名社(後の安田生命保険)と、当時日本初の近代的な生命保険会社として設立された明治生命保険に売却した。
しかし、その後の明治生命の成功と生命保険の拡大を見て、生命保険への参入が急がれた。
当時、大室火災保険が買収した損害保険会社の中に、生命保険も兼営している会社があった事から、これらの生命保険部門を分離させて、1895年に東亜生命保険として設立した。その後、他の生命保険を買収して拡大し、日本・第一・明治・帝国(後の朝日生命保険)・千代田・安田・三井・住友の各生命保険と共に「九大生保」に名を連ねた。
明治初期だけでなく、その後の事についても多少書きました。展開が急ぎすぎていると思いますが、申し訳ありません。