42話 昭和戦後⑥:中外グループ(5)
高度経済成長期、造船や鉄鋼、機械や電機、化学や製紙といった重化学工業は拡大し続けた。オイルショックによる停滞があったものの、成長は続いた。
これに対し、鉱業と林業については衰退傾向にあった。これは、鉱業は国内鉱山の採掘量の減少や採算割れ、海外産の安い鉱石の輸入が、林業も国内の林業従事者の減少、海外産の木材との価格競争が理由だった。当然、中外グループ内でも、大室鉱業、大室金属鉱山、日本林産がその影響を受けた。
また、繊維も一時は傾いたが、その後の転換が上手く行き、新たな道を歩んでいる。
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大室鉱業は炭鉱を保有していた為、エネルギー革命による影響を大きく受けた。大室鉱業が保有している炭鉱は、樺太炭田、北海道の天北炭田や留萌炭田、東北炭田(岩手県葛巻町)、九州の唐津炭田や北松炭田、天草炭田など中小規模のものが多かった。かつては、国内の他の炭鉱業者と共に、国内の新炭鉱の開発や既存炭鉱のスクラップアンドビルトによる整備によって、優良炭鉱の存続に動いていた。それでも、樺太炭田、天北炭田と東北炭田以外は1960年代までに全て閉山となった。
これにより、大室鉱業は事業転換を余儀なくされた。ただ、いきなり他業種の転換は難しい為、石炭に関連する事業から始まった。主にコークス精錬やセメント、海外炭の輸入、炭鉱跡周辺での砕石事業から始まった。コークスとセメント、砕石事業への転換は成功し、徐々に炭鉱事業者からコークス・セメント事業に転換していった。これにより、炭鉱は殆ど技術継承程度の規模でしか無く、細々と自社向けに採掘する程度となった。
セメントの比重が高まると同時に、大和セメント(大室化成産業のセメント事業が戦後に分離独立したもの)との競合も高まっていった。両社の規模は中小程度でしか無く、他社との競争力強化の為に何度か合併案が出たが、合併案が出た1980年代はビルや空港の建設があり需要があった事から、この頃の両社の業績は好調だった為、合併が見送られた。結局、建設需要が落ち着いた1994年に大室鉱業を存続会社として両社は合併し、「大室セメント鉱業」が成立した。
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大室金属鉱山も、国内鉱山の採掘量の減少や海外からの安い鉱石の大量流入によって、国内の鉱山の内、優良鉱山以外は全て閉山した。元々、中規模鉱山が大半だったので、採算が割れやすかった事も閉山を早めた。それでも、北海道や東北に優良鉱脈を有する鉱山を保有していた為、そちらに注力する事となった。
多くの鉱山を閉山したが、採掘した捨石から多少の資源の回収や、鉱山跡地の鉱毒処理や緑化など、行うべき事は山程あった。当時、多くの鉱山や炭鉱が閉山となったが、そのまま放置して鉱害や土砂崩れの問題になる事が多かった。
その為、閉山後の鉱山周辺部の緑化を行ったり、かつての設備を利用して廃家電や工業廃液のリサイクルを行うなどして、周辺地域が完全に無人化して野ざらしになる事を防いでいる。流石に、坑道を埋めて陥没を防ぐ事にまでは資金が回らなかった。これは、大室鉱業でも同様だった。
多くの鉱山が閉山した後、残った鉱山での採掘とリサイクルによる金属の精錬が主業務となった。この為、非鉄金属の精錬で重複する大室金属産業との経営統合が検討された。
しかし、大室金属鉱山が行っている鉱山跡の処理問題や鉱山事故による賠償問題から大室金属産業が難色を示した為、経営統合は白紙となった。以降、大室金属産業は非鉄金属の精錬と関連商品の製造、大室金属鉱山は産業廃棄物からのリサイクル事業、海外鉱山の資源開発と一応の棲み分けが図られた。
因みに、大室金属鉱山と大室鉱業だが、鉱山・炭鉱での採掘に付き物だった排水の処理についてだが、1957年に両社が共同で「大同興産」を設立して、温泉開発を行っている。これにより、北海道や東北、九州で温泉街の開発を行っており、閉山後の観光開発を行っている。これは、閉山後の地域経済への悪影響を緩和する事となり、新規雇用の創出や観光収入の発生などにも繋がった。
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日本林産は、戦後の財閥解体で林業部門と商業部門に分割され、持ち株会社としての性格も失われた上に、「日本林産」の名称も外された。1952年に社名を「日本林産」に戻し、林業事業者として国内最大級の規模を誇った。当時、国内の復興や新規の建設が多数あり、それに伴う木材の需要が高まっていた為、大量の木材が切り出された。その後も、住宅の建設ラッシュによって木材の需要は高い状況が続いた。
これによって、日本林産は莫大な利益を上げた。ここで上げられた利益は配当だけでなく、新たな山林の買収や品種改良、植林費用に充てるなどして、私益だけで無く公益にも努めていた。
この状況が変化したのは、1960年代からだった。この頃から、安価な輸入木材が大量に流入した。また、品質も安定していた為、あっという間に国産に取って代わられた。国産木材では、安定した品質の木材の供給が難しく、環境や人件費の関係から安価での供給も難しかった為であった。
これに対して日本林産は、あらゆる手を使って国産木材を利用してもらう様に努めた。それは、積極的な品種改良の実施、農業学校系や大学の林業科への支援強化、それと連動する林業従事者の育成、木材を利用した新事業の展開である。
「積極的な品種改良の実施」は、特に安定した品質を持つスギの開発に注力された。スギは、当時の日本の人工林の主力となっていたが、強度が安定していなかったり、含水率(物体内に含まれる水分の比率)が高い為、乾燥させる時間が長くなるなど、建材として使用するには意外と欠点が多い。
その為、これらの欠点を解決したスギを生み出す事が急務となった。しかし、品種改良は短期間で出来るものでは無い為、1954年から始まったスギの品種改良だが、1975年にようやく実用的な品種の育成に成功した(以降、このスギを「改良スギ」とする)。約20年で完成したのは、戦前から行われていた品種改良の技術、日本林産が保有していた遺伝子資源の存在、始めた時期の早さだった。その後、日本林産が保有する山林だけでなく日本各地の伐採した土地に、改良スギの植樹が行われた。
改良スギは、品質が外国産のものとも遜色無く、安定した品質を持っている事から、その後の日本のスギ林のスタンダードとなっていったが、成長がやや遅いという欠点が残っていた。また、改良スギが木材として切り出されるまでの間の林業従事者の減少という問題があり、これが解決されなければ植樹した所で意味が無かった。
その為に行っていたのが、「農業学校系や大学の林業科への支援強化」と「林業従事者の育成」である。この2つによって、林業についての教育を強化させ、森林の役割や林業の重要性、林業の将来についての教育を行った。
この結果、日本林産を始めとした林業会社に従事する高卒者や大卒者が微増傾向になった。同時に、林業の川下産業である製材業の従事者も微増傾向になった。
ただし、日本林産はこれを一時的なものとしない為に継続的に行っていく事を決めていた。現状ではあくまで微増でしか無く、今後もこの状況が続くとは考えにくい為である。その為にも、建設以外にも木材需要を増加する為の産業を育成する必要があると考えられた。それが、「木材を利用した新事業の展開」である。
日本林産は、古くから家具製造や合板製造、製紙に木材化学、最近では住宅建設や木製建材に進出していた。また、住宅建設に進出した1960年代前半に、過去に分離独立させた家具製造や合板製造に再進出している。これは、住宅需要が急増している事から、自社の木材を利用する目的だけで無く、大室化成産業や日林化学工業、日林木材工業の各社の住宅部門が1961年に独立・統合した「大日住宅産業」への対抗意識もあった。
木材を利用する産業には粗方手を広げていたが、まだまだ活用出来る分野があるのではと考えられた。
その様な中で発生したのがオイルショックだった。これにより、石油に頼る状況から、石油だけに頼らない経済への転換が図られた。ここで日本林産が考えたのが、間伐材やおがくずを利用した火力発電、今で言う木質バイオマス発電の実施である。
1960年代から70年代は、アメリカの製材・製紙業者が廃材を利用した火力発電を実施していた為、それを日本でも行おうというものだった。これを行えば、製材時に発生するおがくずや間伐材といった利用価値が低い木材の利用価値が上昇し、工場で使用する電力を自力で賄える事にもなる。
早速、1976年から扶桑製紙と共同で石巻工場に隣接して木質バイオマスによる火力発電所の建設が行われた。1979年に発電所は完成し、稼働した。定格出力は3.5万kwと小型だったが、これは木質バイオマス発電のプロトタイプという意味があった。
完成したが、燃料の供給体制の不安定、出力の不安定さが浮き彫りとなった。一時は石炭火力発電所に転換する事も考えられたが、木材の効率的な燃料への改良、発電効率の良いタービンへの変更などの研究が進められた。この研究には、日本林産と扶桑製紙だけでなく、大室物産や大室電機産業、日林化学工業など中外グループの多くの企業が携わった大規模な研究となった。
その後、高カロリーが期待出来る木質ペレット、その木質ペレットを製造する機械、高効率のタービンの研究が進んだが、それらの研究成果が花開くのは1980年代後半まで待たなければならなかった。
以上の様に、日本林産は国産木材の活用法を数多く考えた。これに釣られる様に、他の林業会社も真似した為、国内の林業の壊滅という結果は免れた。
しかし、林業が衰退傾向にあるのは間違いなく、日本林産も林業中心から林業・住宅・建材メーカーとしての道を歩む事となった。
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かつて、日本の輸出商品の主力だった繊維だが、高度経済成長期以降は重化学工業が輸出の中心となった。また、繊維の中でも、綿や絹といった天然繊維から、ナイロンやポリエステルなどの合成繊維が中心となった。
繊維大手の新東繊維でも、早くから合成繊維への進出を行っていた。これは、戦前・戦中にレーヨンを製造していた事、グループ内の化学メーカーとの共同開発など、環境に恵まれていた事も背景にあった。
その為、繊維不況の中でも業績は好調だった。また、合成繊維の製造過程や研究の中で、合成繊維が他の用途にも使用出来る事が判明した。これにより、繊維から化学・医療・素材といった化学メーカーとして変化していった。
また、合成繊維についても、石油由来だけでなく木材由来の合成繊維の開発や、グラスファイバーや炭素繊維、人工鉱物繊維の研究も行った。この研究開発は短期間では成果が出なかったが、1980年代から相次いで世に出された。
これら新素材の生産や研究が進む一方、既存事業である天然繊維は環境の悪化や生産コストの高騰から、海外製に対抗出来なくなった。また、オイルショックによって石油合成繊維も不調となった。これらの事態が、新素材の研究強化や他事業への進出強化になった。
また、オイルショックによって大きな赤字を計上した為、不採算工場や天然繊維の工場が相次いで閉鎖された。これらの工場は、一部は合成繊維の工場や他事業の工場に転換されたが、それ以外は郊外型ショッピングセンターやマンションの建設が行われた。これに合わせて、不動産事業への進出も行われた。




