40話 昭和戦後④:中外グループ(3)
戦後、小売業の発展は著しかった。モノ不足の反動から、売りに出せば何でも売れた程だった。特に、1950年代後半からは日本人の所得が急上昇し、それに伴う購買意欲の向上から、今までの小売業の形態すら変化させた。
それでも、少数店舗で中小企業が多数だった為、景気の影響を受け易かった。実際、1964年の東京オリンピック後は、今までの反動から不況になり、中小が殆どだった小売業の倒産が多かった。
中外グループ、正確には中外銀行や大室物産は、今後の小売業は大幅に拡大すると見られた為、倒産寸前のスーパー同士を合併させて、大型スーパーに転換させる事となった。
これを受けて、関東のスーパー複数社が合併して1966年に誕生したのが「日本小売」だった。誕生当初は、店舗数15、売上高5000万円と小規模なものだったが、全国各地のスーパーを統合していく事でGMS化を進め、1982年には店舗数284、売上高8000億円という大企業になった。そして、今までブランドとして使用していた「NICCOLI」を、正式に会社名に変更した(但し、登録上は「ニッコリ」)。
一方、協和銀行は中外銀行とは別に動いており、関西で同様の事を行っていた。日本小売より一足早い1964年に6社を統合して、「共和ストア」を設立した。その後、共和ストアは日本小売とは異なり、食品スーパーマーケットの路線を歩んだ。その為、GMSの様な躍進は無かったが、安定した成長を見せた。
1982年には、全国に店舗数162、売上高2000億と拡大、翌年には会社名をブランド名だった「キョースト」に変更した。
「NICCOLI」と「キョースト」、同じ小売業だが異なる業態の為、同じグループ内での関係は比較的良好だった。これは、大都市圏や大企業の面倒は中外銀行が、地方都市や準大手企業・中堅企業・中小企業の面倒は協和銀行が見るという、グループ内での棲み分けが為されていた為である。
実際、関東に基盤を持ち、衣類に強いGMSの「NICCOLI」、関西に基盤を持ち、食品に強いスーパーマーケットの「キョースト」は、シナジー効果を生み出しやすかった。実際、1985年には両社は提携関係を結び、以降は日本有数の小売グループの一角を占める様になる。
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戦後、今まで統制されていた甘味料の需要が急増した。尤も、この頃は砂糖の供給源だった台湾や南洋諸島を失った事とその後の混乱から、砂糖の供給が不安定だった。その為、当時の甘味料と言えば、水飴か人工甘味料を使用したものが殆どだった。
砂糖の供給が安定するのは、台湾や南洋諸島の統治が安定してくる1950年代前半からだった。それ以降は、砂糖の輸入が順次緩和され、1963年には粗糖(砂糖に加工する前の段階)の輸入が完全に自由化された。
これにより、砂糖を原料に使用するお菓子産業は急速に拡大した。その一方、水飴メーカーは倒産するか今までの技術を応用して別業種に進出するかのどちらかになった。
中外グループは、太陽食品工業が主導して国内のお菓子メーカー・水飴メーカー・飲料メーカーなどの食品メーカーの子会社化を進めた。この動きにより、全国の中小の食品メーカーを傘下に収める事に成功した。
暫くは今まで通りの業務を行っていったが、戦後の復興が進んだ1950年代後半から少しずつ生産内容が変更された。この頃になると、国民の所得が向上し、食の多様化が進んだ。その為、今までの水飴の需要は減少し、チョコレートやビスケットなどの洋菓子の需要が高まった。この動きは、粗糖の輸入の自由化以降は急速に進み、水飴メーカーの整理淘汰が進んだ。
これを受けて、中外グループは太陽食品工業を中核にグループ内の食品系メーカー(他に大室製粉、大室製糖、東亜水産などがあった)の再編を行った。その中で、次の事が決定した。
・水産加工・冷蔵食品は「東亜水産」が担当する
・飲料部門は、新設する「愛宕飲料(後に「アタゴ」に改称)」に譲渡する
・製菓・冷菓部門は、新設する「東邦製菓」に譲渡する
・製粉・デンプン加工業は、大室製粉から改称した「大和製粉」が担当する
・製糖は、大室製糖から改称した「大和製糖」が担当する
・上記以外の食品加工は、「太陽食品工業」が担当する
・製薬部門は、「太陽製薬」が担当する
この再編は、太陽食品工業がグループの中核会社として統括し、他の会社は業態毎に統合した。これにより、各社で重複していた部分の統合が完了し、経営の効率化が成功した。その後、各社は日本で十指に入る食品メーカーとして拡大していき、「太陽食品グループ」と呼ばれる一大総合食品メーカーとなった。
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戦前、中外グループの旧・日鉄財閥が陸運会社を保有していたが、日本通運設立の際に全事業を譲渡した為、陸運業から離れた。それでも、京成や西鉄、北陸鉄道や駿遠鉄道、仙台鉄道といった日鉄系の鉄道会社が沿線を中心とした陸運業を保有していた。
戦後、旧・日鉄財閥の関係者が「再び全国規模の陸運会社を持とう」という動きが出た。中外グループとしてもこの動きは悪いものでは無かった為、支援する事となった。
戦後に勃興した中小の陸運会社を傘下に収め、関東の「関東内外運送」、東海の「東海内外運送」、北陸の「北陸内外運送」、近畿の「近畿内外運送」、九州の「九州内外運送」、東北の「東北内外運送」、北海道の「札幌内外運輸」の7社に統合された。この6社は資本関係や人的繋がりがあり、それぞれ京成、駿遠鉄道、北陸鉄道、南急、西鉄、仙台鉄道、石狩鉄道との提携と支援を行っていた。これにより、各内外運送はノウハウを獲得し、鉄道会社は広域的な運送業務を行える様になった。
これらの内外運送が規模が拡大しノウハウが蓄積した1960年代、中外グループは1社に統合させる計画を打ち出した。1つに統合する事で、効率的な業務を行える事、日本通運に並びたいという思惑があった。
しかし、この動きは提携していた鉄道系陸運業社の猛反対があった。もし統合となれば敵対関係になりかねない事、今まで育ててきた市場や顧客を荒らされる事が理由だった。
この意見に賛成する企業も多く、何より統合するよりも、各地域毎に任せた方が逆に効率が良い上に、適度な競争によってより拡大していくと判断された事から、統合は白紙となった。
この結果、各内外運送は、提携していた鉄道系陸運業社に統合されて消滅した。中外グループを担う一大陸運会社を創るという計画は失敗したものの、その目的から創られた企業が最終的に中外グループの陸運を担う様になった。そう考えると、この動きは無駄では無かった。
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戦時中の日本の航空会社は、大日本航空に一本化されていた。敗戦によって、日本は航空機の生産・設計は勿論、飛ばす事も不可能となった。その為、大日本航空も解体された。
その後、GHQによって日本人の手によって航空機を飛ばす事が許されるのは1950年の事だった。この翌年には日本航空が設立されたものの、日本に乗り入れる航空会社(ノースウエスト航空)の委託運行という形だった。自前での国内船運航が行われたのは1952年からだった。
その翌年の1953年には日本航空株式会社法が制定され、日本航空は民間航空会社から半官半民の特殊会社になった。これにより、日本航空が運航出来る航路が国際線と国内幹線に限定され、それまで運行されていた準幹線や地方線は他の航空会社に移管された。
1952年に航空機の運用の制限が廃止されると、多くの航空会社が設立された。その中には、全日本空輸の前身である極東航空と日本ヘリコプター輸送、日本エアシステムの前身である東亜航空や富士航空、日東航空などがあった。
この世界では、終戦時の大日本航空の解体は行われなかった。事実上の敗戦によって、国際航路だけでなく外地への航路が失われた事は大きな痛手であり、財政難から倒産の危機すらあった。
それでも、大日本航空は細々と存続し続けた。GHQも、軍用機の生産・開発は事実上禁止していたものの、旅客機・練習機に限れば生産・開発は許していた上、運行も禁止しなかった。その為、日本人による運航や開発が途切れる事は無かった。
細々と経営していた大日本航空だが、流石に政府としてもこれ以上見過ごす事は出来ないとして、1952年に日本航空株式会社法が制定され、日本航空を設立して大日本航空の一切の業務を移管した。しかし、全てが移管された訳では無く、準幹線や地方線についてはそのままだった。社名も「日邦航空」に改称してそのまま運行を続けた。
この世界でも、史実と同じ様に1952年まで新規の航空会社の設立は認められなかった。これは、航空機の運航は禁止しなかったが、新規の航空会社の設立は禁止していた為である。
しかし、1952年に航空会社の設立が解禁されると、我先にと大量の航空会社が設立された。史実と同じ会社が設立されるも、一部は中外系の航空会社があった。それが、西鉄と阪急と共同で設立した「西日本航空」、京成・南急系及び大日新聞系の「東阪航空」だった。
西鉄と阪急は、共にパンアメリカン航空との繋がりがあった。共に販売代理店契約を結んでいた事、特に阪急はパンナムと合弁で航空会社を設立しようとした事などがある。その両者が、パンナムの支援の下、1952年に「西日本航空」を設立した。当初は、パンナムが運行し、西日本航空はその委託という予定だったが、海外に日本の空を独占される恐れがあるとして、当局がこの案を嫌った。その後、パンナムが西日本航空を支援する形に変更された。
この一方で阪急は、南海とも手を組んで別の航空会社を設立した。そうして1953年に設立されたのが「大阪遊覧航空」だが、早々に南海が手を引いた事で阪急単独となった。その後、阪急が2つの航空会社を保有する事の非効率さや路線の重複を解消させる目的で、1956年に西日本航空に統合された。
もう一方の「東阪航空」は、1952年に大日新聞が中心となり、京成と南急を誘う形で設立された。こちらの目的は社名の通り、東京と大阪を結ぶ航路を保有したいというものだった。
これ以外にも京成は、1958年に日本遊覧航空を子会社化し、1960年には東阪航空に合併した(史実では全日本空輸に合併)。
その後、中小の航空会社が乱立したものの、資本力の小ささや日本経済の小ささから赤字になる企業が殆どだった。この為、1960年代に入ると中小事業者の統合が進められた。その中で1964年に誕生したのが、日東航空・富士航空・北日本航空が合併した「日本国内航空」と、西日本航空・東阪航空が合併した「日本東西航空」だった。日本国内航空は東急・近鉄系で、日本東西航空は京成・南急・阪急・西鉄系の航空会社として成立した。
その後、1970年代に航空業界の再編が行われ、東急・近鉄系の日本国内航空と東亜航空が1971年に合併して「東亜国内航空」が誕生し、その直ぐ後に日本東西航空と日邦航空が合併して「日邦東西航空」が誕生した。更に、翌年には日邦東西航空は横浜航空を合併し(史実では、1974年に日本近距離航空に合併)、規模の上では国内第3位の航空会社となった(実際は、前身企業の赤字やローカル線ばかりを抱えている為、かなり危ない状況)。
これにより、中外グループである京成・南急・西鉄の影響がある航空会社が設立された事で、中外グループは航空会社を保有する事になったが、日邦東西航空そのものは九天会に加盟する事は無かった上、中外グループから特別優遇された訳でも無かった。
それでも、大日・阪急・南急・西鉄というジャ・リーグ球団を保有する企業が親会社になった事で、球場がある都市同士の定期便やチャーター便の利用、球場での広告などによって、知名度は上昇し利用客も増加した。




