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架空の財閥を歴史に落とし込んでみる  作者: 常盤祥一
4章 昭和時代(戦時中):崩壊への第一歩
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35話 戦時中②:日林財閥(9)

 太平洋戦争の勃発によって、国内の生産体制は戦時体制に移行した。これにより、自由な生産活動は制限され、戦時に必要なものに集中させる体制となった。


 日林財閥では、木材の大量供給を行う様に厳命された。日林が保有する国内の山林から大量の木材が切り出されたが、それでも不足した。その為、占領地での森林経営も任された。フィリピンやタイ、インドネシアなど東南アジアの占領地に進出し、これらの地域での森林開発と木材の切り出しを行った。

 同時に、開発した地域の植物や樹木のサンプルを持ち帰った。このサンプルは、戦後に製薬や種苗などの分野で生きる事となる。


 日林は、伐採一辺倒だと保水や後世の資源の問題から、伐採後の植樹を通常通りに行う予定だった。しかし、政府や軍部は『重要なのは今現在であり、将来ではない。植樹する余裕があるのなら、より多くの伐採して、内地に木材を供給しろ』として猛烈に反対した。日林側は、自分達が長年の森林運営によって得られたデータ、植林しなかった場合の山の末路などを話して強硬に反対した。

 日林の抗議は最終的に通ったが、時間や人員などの問題から、『必要最低限の植樹にする事』とされた。日林の抗議に『ある国が戦争に必要だとして、山にあった木を全て伐採した。山から木を切り過ぎた結果、大雨の時に土砂崩れが発生し、その国で最も重要な工場を直撃した。その影響で、その国は武器などの物資調達に支障を来たす様になり、最後は戦争に敗れて滅んでしまった』と言われれば、軍としても反対する事は難しかった。そして、軍が反対しなければ、政府が反対しても効果が薄かった。

 この結果、日林が伐採した地域については多少なりとも植樹が行われた。しかし、伐採の規模に対して植樹が少な過ぎた為、焼け石に水だった。それでも、東南アジアの現地住民からは『彼らは資源を奪うだけではない』と見られた事で、戦後に宗主国が戻り日本人を処罰しようとした際に、日林関係者を匿ったり逃がしてくれたりなどしてくれた。


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 また、日林の主力事業の一つである製紙業の統廃合も行われた。大規模な製紙会社同士の統合は、1930年代の大・王子製紙の成立によって殆ど発生しなかった。日林製紙も、他の製紙業者と統合する事も無ければ、吸収される事も無かった。

 一方、工場の転換が一層行われた。当時、日林製紙の工場の多くが旧式で小規模なものだった。1930年代後半から閉鎖やパルプ工場など他業種への転換などが行われていたが、開戦後はその動きが更に進んだ。国内にあった小規模工場の大半がパルプ工場に転換され、一部はレーヨンの製造工場や火薬の製造工場に転換された。


 大規模製紙会社の統合は無かった一方、地方の中小製紙業者の統合は加速した。1942年に、商工省が地方の製紙業者を統合する方針を打ち出した。これによって設立された企業の代表例が、四国の大王製紙である。

 日林の製紙会社は日林製紙が行っているが、地方には日林の系列である中小の製紙会社が存在する。この統合によって拡大し、北海道の「北洋製紙」、東北の「奥羽製紙」、北陸の「越州製紙」、四国と山陽の「瀬戸内製紙」、九州の「高千穂製紙」が成立した。また、1943年に日林製紙とこれら地方の製紙会社と共同出資でパルプ製造会社である「八島パルプ工業」を設立した。


 化学部門の日林化学工業も、急速に事業を拡大した。戦前の日林化学は、国内での事業が中心だった。しかし、開戦によって東南アジアを占領すると、現地の工場の運営を委託されたり、日本林産や日林製紙と共同して森林開発や鉱山開発なども行う様になった。上記の八島パルプ工業の設立や日林製紙の工場転換にも関わっており、一時は日林化学工業と日林製紙の統合も検討された程だった。

 同じ化学部門でも製薬系の京師薬品は、軍用に大量の薬品を製造した。しかし、京師薬品単体では供給に追いつかなかった為、日林化学や大室化成産業などにも協力を依頼して対応した。

 また、この3社が共同して、1943年に日本初のペニシリンの大量生産を成功させた。これは、日本にペニシリンの情報が入ったのが史実よりも早く、軍部も重要性に気付いた事から、京師繊維に製造工程の早急なる確立と大量生産ラインに乗せる事を要請された。

 しかし、京師繊維単体では無理があった為、日林化学と大室化成にも協力を仰いだ。その後、東京帝大や京都帝大も協力する様になり、1942年にはペニシリンの製造に成功し、臨床試験でも好結果を出した。これを受けて、1943年に大量生産が行われた。

 これにより、陸軍の医療事情は多少好転したが、これはあくまで補給が届いている地域に限定された。補給が途絶え途絶えの地域では、史実通り飢えと病気に苦しめられる状態だった。


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 事業拡大の一方、大室財閥系の同業企業との統合や国家の統制に組み込まれて日林の手から離れた事業もあった。


 繊維部門の京師繊維は、大室財閥系の日東繊維工業と1943年に合併し「新東繊維」を発足した。その後も中小の繊維会社を統合して、新東繊維は拡大した。拡大によって、麻や綿などの天然繊維、合成繊維のレーヨンの製造量は拡大した。

 その一方、一部の工場は航空機用の器材(通信機など)を製造する工場に転換された。また、レーヨンの原料となるパルプの製造の為、東南アジアでのパルプ工場の建設・運営などを行うなど、業種の拡大も行われた。このパルプ製造についてはノウハウが少なかった事から、日林製紙との共同事業という形になった。


 食品系では、日林系の「日林食品」と大室系の「大室食品産業」が統合して「太陽食品工業」になった。これにより、食肉や魚に強い日林食品と、飲料や穀物関係に強い大室食品産業が一つになった。戦時中は軍用缶詰の製造が殆どであり、この時の経験から、戦後は缶詰や保存食品に強い食品メーカーとして歩む事になった。


 金融では、日本林商銀行が大室銀行に、日林火災保険が大室火災海上保険にそれぞれ統合された。これにより、日林財閥は金融事業を全て失い、以降は大室財閥の影響力が強まっていく事になる。事実、戦後の財閥解体後、旧・大室財閥を中心とする企業集団「中外グループ」に組み込まれる事になる。


 造船・機械部門の「日林造船機械」は、大室重工業に吸収されて消滅した。造船所は、木造船以外にも海防艦や小型商船などの建造を行った。機械工場の方は、合板の製造機械から工作機械の製造に転換した。しかし、大室重工業との規格やノウハウの違いから、旧・日林造船機械の工場で製造された工作機械の出来が今一つだった為、戦後に旧・日林造船機械の機械部門は「企業再建」を名目に分離独立する事となった。


 家具・合板製造部門が「日林木材工業」は、木材加工のノウハウを買われ、木製航空機の製造を要請された。これについては、大室重工業と共同で木製航空機(エアスピードエンボイを基にした小型双発輸送機、後に海軍に「一式双発輸送機」として採用)の開発を行っていた事を買われての事だった。

 しかし、単独では難しいと判断された為、1942年にに松下電器産業と合弁で木製航空機を製造する「日松航空機」を設立した(史実では、1943年に松下電器産業単体で「松下航空機」を設立)。当初、旧式化していた九九式艦上爆撃機の全木製化(「明星」爆撃機)を予定しており、1943年には早速試作機が完成した。試験の結果、生産性や性能などの面から良好と判断されたが、元が金属機の為、運動性の低下や重量の増加といった問題も見られた。

 明星以外にも、機上練習機「白菊」を基にして全木製化と大型化した対潜哨戒機「南海」、昭和飛行機工業と共同して零式輸送機の全木製版の製作などを行った。しかし、明星と木製零式輸送機は、重量の問題や利用場面の減少から試作段階で中止となった。

 一方、南海の方は、海上警備総隊や日本近海の航空隊で重宝された。重要資源であるアルミを使用しない事、磁気探知機への干渉が少ない事、白菊由来の運動性の良さなどから300機近く生産された。しかし、日松飛行機単体では供給に追いつかない為、白菊を設計した九州飛行機、日本國際航空工業など中小の航空機メーカーにも生産を委託した。

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