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架空の財閥を歴史に落とし込んでみる  作者: 常盤祥一
番外編:日鉄(+α)による新路線建設
42/112

番外編:日鉄財閥が支援・設立した鉄道会社(関東)

〈関東〉

・武州鉄道[羽生~菖蒲~蓮田~岩槻~武州大門~赤羽(赤羽岩淵)]

 詳しい事は「17話 大正時代③:日鉄財閥(2)」を参照。

 関東大震災後、人口の郊外への移転が進んだが、武州鉄道沿線では大きく進まなかった。武州鉄道が全線開業したのが復興が一段落付いた1927年だった事、東京側の接続が赤羽という東京市の端である事、他の路線との接続が王子電気軌道だけだった事などの理由からだった。

 その為、目蒲電鉄や東横電鉄(共に東急の前身)や東武鉄道の様に郊外電車は走らなかったが、都市部に近い所を走る事から気動車(当時はガソリンカーが主流)の積極的な導入が行われた。これにより高頻度の運転が可能となり、沿線住民の足として充分に活用された。


 この形態は12,3年続いたが、戦時体制が近づくにつれガソリンの入手が困難となり、気動車の運行頻度も減少した。これに代わる様に蒸気機関車の運行が増加したが、一定程度の発展をした沿線にとって蒸気機関車のばい煙は迷惑でしかなった。その為、電化の要請が行われたが、資本・資源不足によって電化の見込みは無かった。


 その後、1944年に総武鉄道(現・東武野田線)と一緒に東武鉄道に吸収され、「東武赤羽線」となった。戦後、東武の手によって旧・武州鉄道は電化される事となる。


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・相模中央鉄道[平塚~厚木~田代~半原、平塚~伊勢原~大山口](架空)

 平塚~八王子の免許を持つ「八平軽便鉄道」と、平塚~大山の免許を持つ「大山鉄道」を日鉄が買収し、1912年に両社を統合して設立された。史実では、大山鉄道の免許が下りたのが1914年で、八平軽便鉄道の免許が失効したのが1913年であるが、この世界では、1911年に平塚~伊勢原の免許を獲得した「大山軽便鉄道」が、大山までの免許を獲得して「大山鉄道」と名乗ったとする。


 工事は、第一次世界大戦や関東大震災を挟んで中断されたものの、1925年までに大山方面の全線と平塚~半原が開業した。路線は、全線1067㎜・直流600Vである。半原~八王子は山岳地帯を走る事から、工事費や採算の問題から工事は行われなかった。しかし、バス連絡は行われた。

 相模川の砂利や丹沢からの薪炭、大山詣りの参拝客などの利用が多く、恐慌時でも三分の配当が行われた。小田急が開業してからは一時は利益が減少したものの、東京への輸送時間の減少からその後はむしろ活性化し、再び利益は増加した。また、後述の相武電気鉄道が田名で繋がった事で、直通電車の運行も行われた。


 その後、戦時体制に進むにつれ、平塚や厚木には軍事施設が設立されると、そこへの人員輸送が活発化した。この為、車輛の増備と平塚~厚木の複線化が計画された。増備の方は国鉄からの客車の払い下げで何とかなったが、複線化は資材不足で戦後に持ち越された。

 また、相模中央鉄道も戦時統合に巻き込まれた。合併は無かったものの、大東急の傘下に組み込まれた。戦後は大東急の傘下から小田急の傘下に代わり、戦前から行われた小田急相武線を通じた新宿~半原の直通運転が続いている。


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・相武電気鉄道[鶴川~淵野辺~上溝~田名~田代]

 史実では、1927年に免許を獲得し工事も行われたが、その後発生した昭和金融恐慌によって資金不足となり工事は中断、免許も1936年までに全て失効した。免許では、起点は溝の口を予定していた。他にも、田名から分岐して川尻方面の支線と、厚木から長後、戸塚を経由して横浜市中心部(黄金町や長者町)へ至る路線も計画していたが、全て未完成に終わった。

 その後、東急(大東急時代)や小田急によって似たルートの路線が計画されたものの、戦争による資材不足や敗戦による軍の消滅による建設理由の消滅(沿線ルートの相模原一帯は陸軍施設が多数存在した事から、軍への物資輸送も考えらていたと思われる)によって、何れも完成する事は無かった。その後、この地域に鉄道が通るのは、多摩ニュータウンの開発が一定程度進んだ1970年代中頃の事である。


 この世界では、昭和金融恐慌後に相武電鉄の株式を日鉄が引き受けた事で経営権を掌握した。日鉄の資金力を得た事で工事は急ピッチで進み、1932年に鶴川~田代間が開業した。予定されていた溝口方面は、小田急への乗り入れで代替出来る事から中止され、他の支線も建設されなかった。また、同じ資本関係にある先述の相模中央鉄道との直通運転を行い、鶴川~田名~半原間の直通電車も運行された。

 小田急(戦前の為、「小田原急行鉄道」)との乗り入れを想定した為、当初の路面電車型では無く、小田急に準じた高速電車の走行に耐えられる様な設備を整え、電車も高速運転が可能な車両を導入した。これらの初期投資は嵩み、人口の少なさから利益も出なかったものの、その後は沿線に陸軍施設が多数設立されると、物資や人員の輸送で増収になった。


 同時に、鉄道網の整備と鉄道会社の統合にも巻き込まれ、小田急と時を同じくして東急に統合、大東急の一員となり「東急相武線」となった。戦後、大東急は解体され、相武線は小田急に編入され「小田急相武線」となった。


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・南津電気鉄道[関戸(現・聖蹟桜ヶ丘)~鑓水~橋本~三ヶ木]

 この路線も相武電鉄と同じく、多摩・相模原地域への電鉄を予定しており、1926年には免許を獲得している。沿線は甲州や多摩で作られた絹を横浜へ輸送する途中にあり、絹輸送の仲介を行っていた商人が多数いた。それを背景とした経済力があった事から実現の可能性は低くは無かったが、昭和恐慌とそれによる生糸の暴落によって資金難となり、鑓水付近ではレールの敷設まで行われていたが工事は中断され、1934年までに全ての免許が失効した。


 この世界では、相武電鉄と同時期に株式の引き受けを行った事で経営権を掌握した。その後、津久井側のルートを変更した上で特許に切り替えた。

 ルート変更は、横浜線単独の相原よりも、国鉄横浜線・相模鉄道(現・JR相模線)が乗り入れる橋本の方が集客力が見込めると判断された為である。そして、津久井郡の中心地である中野・三ヶ木への延伸も予定された。

 特許への切り替えは、京王電気軌道(現・京王電鉄)との直通を予定した為である。地方鉄道法の関係上、免許のままでは京王の軌間である1372㎜での敷設が不可能であった。その為、軌道法による特許に変更して、京王との規格に合わせた。

 ルートの変更と特許への切り替えに時間が掛ったが、1931年から工事が再開された。鑓水付近の工事は完了していた事もあり、関戸~橋本は1934年に開業した。残る橋本~津久井も翌年に開業した。開業当初から行楽シーズン限定であるが京王との直通運転を行い、新宿~関戸~三ヶ木の長距離運転が行われた。


 この後、戦時統合の一環で1942年に京王に吸収されるも、京王も大東急に吸収された事により、旧・南津電鉄は「東急南津線」となった。戦後、大東急が解体されると、旧・京王、旧・南津電鉄、旧・帝都電鉄(現・京王井の頭線)は「京王帝都電鉄」として独立し、旧・南津電鉄は「京王南津線」となった。

 戦後、京王の財政基盤が怪しかった事から、旧・南津電鉄の伝手で中外グループ(大室・日鉄・日林の各財閥が戦後に集結して結成した企業グループ。「中外銀行」を中核とする)に支援を要請した所、中外グループはこれを快諾した。これにより、この世界では京王は中外グループの一員となった。


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・筑波高速度電気鉄道[上野~八潮~流山~守谷~筑波山口、八潮~野田市~岩井~結城~宇都宮](宇都宮方面は架空)

 史実では、免許を取得して直ぐに昭和恐慌が到来して資金不足に陥り、柿岡地磁気観測所の関係で直流による電化が出来ないなどの問題が重なり、工事は殆ど進まなかった。その後、会社は京成に吸収され、上野側の免許は京成の上野~青砥間の都心乗り入れ線に活用され、残りの免許は1936年までに全て失効した。


 この世界では、日鉄が筑波山の観光開発や鉄道空白地帯の宅地開発を目的に強力に支援した。同時に、八潮から分岐して野田、境、結城を経由して宇都宮に至る路線の免許も取得した。これは、筑波方面と同様に鉄道空白地帯の開発を目的とした。また、免許も変更され、鉄道では無く軌道に変更し、線路幅も1067㎜から1372㎜に変更された。これは、京成からの出向者の意向で、京成の都心乗り入れを考えての事だった。

 また、筑波電鉄の出資に大室財閥を誘った。これは、大室電機産業が持っている交流電化の技術を利用したかった為である。筑波山の近くにある柿岡地磁気観測所の影響で、直流による電化は不可能だった。

 尤も、地磁気観測所が近くにあっても直流電化は絶対不可能では無く、複式架線方式(2本の架線を平行に掛ける方式。路面電車で見られる)や短い間隔で変電所を設置すれば可能である。しかし、前者は高速運転に不向きである事、後者はコストの問題があった。

 この申し出に、大室側は難色を示した。大室電機も交流送電や交流用モーターの開発はしていたものの試作段階であり、鉄道に載せられる小型のものについては計画段階でしかなかった。それでも、日鉄は共同開発を持ち掛けるなどして、あらゆる手段を取って大室を引き込もうとした。

 結局、出資は叶わなかったものの、共同開発には応じてくれた。この出来事により、日鉄と大室電機の関係は蜜月状態になり、その後の統合に繋がる事となった。尤も、共同開発をしても交流電化の技術は中々完成せず、戦後も交直流電車のコストや気動車の性能向上などから、筑波方面の交流電化は諦められた。


 話は戻るが、1934年に上野~筑波山口間と京成との連絡を目的に町屋~青砥間が開業し、1937年には八潮~宇都宮間が開業した。一方、電化については地磁気観測所の関係から、守谷~筑波山口間と野田~宇都宮間については非電化となり気動車での運行となった。この為、(恐らく)日本唯一の馬車軌(1372㎜)の気動車が運行される事となった。


 筑波電鉄の役員の多くは京成からの出向者である為、京成との関係は強く、実質的に京成の子会社であった。その事もあり、1943年に筑波電鉄は京成に吸収された。戦後も、旧・筑波電鉄の役員は京成で大きな影響力を有した事から、戦後の京成は中外グループに所属する事となる(史実では三和グループに所属)。

 また、地下鉄浅草線を介した京成と京急の直通が計画された際に京成側の改軌を予定していたが、この世界では成田方面、筑波方面、宇都宮方面に路線を持っている為、総延長は史実の3倍近くとなる。これにより、改軌する為の費用も3倍以上となり、輸送への影響も大きくなる為、京成は「全ての路線を改軌する事は事実上不可能」と回答した。これにより京成の改軌計画は頓挫し、浅草線は京成の片乗り入れになった。一方、京急は三田線への乗り入れに変更された。


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〈他の路線への影響〉

・鉄道敷設法43号の開業

 43号は『茨城県土浦ヨリ水海道、境、埼玉県久喜、鴻巣、坂戸ヲ経テ飯能ニ至ル鉄道 及水海道ヨリ分岐シテ佐貫ニ至ル鉄道 並境ヨリ分岐シテ古河ニ至ル鉄道』の事である。史実では開業しなかったこの路線が、この世界では開業した。しかし、実際に開業したのは『茨城県土浦ヨリ水海道、境、埼玉県久喜、鴻巣、坂戸ヲ経テ飯能ニ至ル鉄道』の部分だけであり、埼玉側の起点は高麗川に変更された。

 この路線の目的は川越線や八高線と同様に、主要幹線間のバイパスであった。単独で常磐線と東北本線、高崎線を結び、八高線を介して中央本線とも結ぶ事で、東京の中心部を通らずにこれらの路線の貨物の融通を図り、軍需を含めた貨物の効率的輸送を行う事が目的だった。

 工事は早急に進められ、1940年に全線が開業し「常武線」と命名された。戦後は貨物輸送が激減し典型的なローカル線となり、川越線・八高線との一体運用が行われた。


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・京成白鬚線の存続・延伸

 京成白鬚線は、押上線の向島(廃止)から分岐して白鬚に至る路線である。京成系の王子電気軌道(後の都電荒川線など)と接続して、都心部への直通を予定していたらしい。しかし、それは実現せず1936年に廃止となった。


 この世界では、筑波方面への客を押上・(東京市電を介して)浅草へ輸送する目的で、白鬚~南千住~千住大橋~梅島のルートが計画された。この路線は1934年に完成した。開業当初は、市電や東武との競合で乗客はそれ程増加しなかったが、この路線が真価を発揮したのは、戦後の浅草線開業後の事だった。


 浅草線の開業と直通運転の開始で、京成は念願だった浅草・都心部への乗り入れを達成した。これにより、支線扱いされた押上線は、浅草線と京成本線を繋げる主要路線になった。同様に、白鬚線も浅草線と筑波本線を繋げる主要路線となり、筑波本線・宇都宮線沿線の宅地開発が促進される要因となった。


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・京浜電鉄(後の京浜急行電鉄)青山線の地下鉄化(未成)

 京浜電鉄青山線は、都心部への乗り入れを目的に計画された路線であり、品川~白金~広尾~青山~千駄ヶ谷というルートを計画した。このルートは、特許を出願した時の東京市と郡部の境界付近を通っていた(渋谷や新宿が東京市に合併されるのは1932年)。しかし、沿線の宅地化の進行や市内乗り入れを巡る東京市との対立によって進展せず、白金以北は1926年に失効、残る区間も1928年に失効した。


 この世界では、13年早い1924年に「京浜地下鉄道」が設立され、青山線の免許を譲渡した。そして、譲渡された免許を一度返上した上で再取得した。これは、一部ルートの変更と千駄ヶ谷~新宿を追加した為である。

 しかし、青山線のルートは大きな集客地が無い事から、採算が取れないとして建設が進まなかった。結局、京浜地下鉄道が「帝都高速度交通営団」に統合されるまで、多少の土地買収を行った以外何も進展が無かった。

 

 しかし、免許そのものは営団地下鉄に持ち越され、新宿~東中野~池袋を追加して「営団地下鉄白金線」として1977年に開業する事となる(白金線のアルファベットは「R」が割り当てられる)。


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・湘南電鉄(現・京急の横浜以南)の葉山延伸

 湘南電鉄は、三浦半島を一周する路線を計画した。その計画では、金沢八景から横須賀、浦賀、久里浜、長井、林、葉山、逗子を経由して金沢八景に戻るというものだった。その後、三崎方面への延伸が加わるなど計画の変更がされ、計画の内、本線の金沢八景~浦賀、久里浜線と逗子線の全線が開業した。久里浜線は元々、浦賀からの延伸の予定だったが、トンネルを掘る必要があった事、戦時下で開業を急いだ事から、現在の形となった。それ以外の、逗子~葉山~三崎口~三崎は未開業に終わった。


 この世界では、日鉄が積極的な投資を行っている事を見て、湘南電鉄の出資元である安田財閥や京浜電鉄が史実以上に出資した。これにより、湘南電鉄は資金的な余裕が生まれ、逗子~葉山の路線の建設を行った。この理由は、海軍施設が沿線に出来る予定がある事、沿線の別荘開発を予定した事からだった。

 1936年に湘南逗子葉山口(後の逗子海岸)~葉山の路線が開業した。その先は史実と同様に開業せず、戦時中に軍の要請で武山線(衣笠~武山~林)の建設が始まるも、こちらも未完成に終わった。

 戦後、金沢八景~葉山は「葉山線」と命名された。沿線は、海や自然を残しつつ、別荘の開発が行われた事で、関東有数の別荘地となった。


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・南総鉄道の鶴舞町(現・上総鶴舞)延伸

 史実では計画倒れに終わり、会社そのものも小規模であった事から1939年に廃止となった。


 この世界では、日鉄の地方への拡大を見た安田財閥が、同系列の小湊鉄道との接続を狙っている南総鉄道を傘下に収めた。これにより、史実で廃止の要因となった資金不足はほぼ解消された事で、奥野~鶴舞町の建設が行われた。この区間が開業したのは1937年であり、これにより南総鉄道側の輸送人員は多少増加した事で廃止にならなかった。

 戦時中に、南総鉄道は小湊鉄道に吸収され、小湊鉄道が元から所有した路線は「本線」、旧・南総鉄道の部分は「南総線」と改称された。戦後も、南総線は廃止になる事は無く存続した。

4/30本文追加(湘南電鉄と南総鉄道の部分)

投稿後に思い浮かんだので追加しました。


4/30本文追加(京成電鉄と京浜電鉄の部分)

こちらも投稿後に思いついてしまいました。京成は筑波電鉄との関係から、京浜電鉄は湘南電鉄を統合した経緯から、上に追加しました。

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