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架空の財閥を歴史に落とし込んでみる  作者: 常盤祥一
3章 昭和時代(戦前):暗雲の到来
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30話 昭和戦前⑧:大室財閥(19)

 1935年から1937年は、大室財閥にとって不幸な時期だった。何故なら、大室財閥を率いていた三兄弟が相次いで亡くなった為である。

 1935年10月に次男の匡彦が急に体調を崩し、そのまま回復する事無く12月に67歳で亡くなった。1936年2月に三男の淳彦が風邪を拗らせ、そこから肺炎に悪化して同年6月に63歳で亡くなった。長男の忠彦も1936年10月に倒れ、一時は持ち直したものの年齢と今までの無理が祟り、1937年2月に74歳で亡くなった。

 原因は、昭和恐慌から経済は混乱状態にあり、その荒波の中で大室財閥を傾かせない様に彼らが懸命に努力したが、その為に努力し過ぎた事によって過労となり、年齢も合わさって(全員60歳以上である)病気になり易かった。つまり、過労と老衰による病死であった。


 三兄弟を失った事は大きな損失だったが、そこで停滞する程大室財閥は柔な組織では無かった。1920年頃から行われていた後継者教育によって、既に彼らの孫や初代から付き従っていた者の子孫らが会社を支える体制が整っていた。また、三兄弟の頃には、財閥が巨大化した事と後継者争いを解消する目的で、集団指導体制を整えていた。

 1930年代前期にこの体制は整っており、彼らが亡くなった頃には誰か一人が亡くなっても大勢に影響が無い様な組織となっていた。その為、大室財閥は今まで通りの行動を取った。


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 1930年代の中頃から、大室財閥では軍需産業に対する割合が増加した。以前から、造船所や電機を保有している事から比較的割合はあったが、日本が満州事変以降、軍拡路線を歩んでからは顕著だった。航空機への参入や造船所の機能強化をしてから、急速に軍需が伸びていった。その象徴が、徳島の航空機工場だろう。他にも、輸送用車両や装甲車両の製造、火薬や各種薬品を製造する化学が拡大し、軍需産業に融資する金融も拡大した。


 また、この拡大に際して、既存の施設の強化と新しい設備の建設が行われた。

 まず、堺と横浜(本牧)の造船所の設備の強化から始めた。元々、堺造船所は第一次世界大戦の頃から強化が行われており、1930年代中頃には戦艦(扶桑型・伊勢型が限界)・大型空母(翔鶴型)が建造可能な船台1基、重巡洋艦や中型空母(飛龍程度)が建造可能な船台1基、駆逐艦や5千トン商船が建造可能な船台2基とドック1基を有していた。他の場所では、横浜に重巡洋艦が建造可能なドック1基、駆逐艦や5千トン商船が建造可能な船台1基とドック1基を有していた。

 しかし、今後の軍拡や予想される対米戦を考えると現状の施設では不足すると見られていた為、これらの施設の強化が行われた。具体的には、既存の建造施設の拡大と造船用のドックの新設である。これは、戦艦の建造を目指したのでは無く、巡洋艦や駆逐艦などの補助艦艇の整備を迅速にする為である。


 現在、海軍は軍縮条約の期限が切れると同時に、大規模な海軍拡張計画を立案している。その実現の為には、多数の建造施設が必要となるが、現状で戦艦を建造出来る設備を保有しているのは、呉と横須賀の海軍工廠、長崎の三菱重工業と神戸の川崎造船所(現・川崎重工業)の4か所しか無かった。

 一応、堺の大室重工業も建造は可能だが、規模から考えると3万5千トン程度が限界であり、新世代の戦艦を建造するには小さ過ぎた。加えて、戦艦の建造を経験していない事から、海軍側が戦艦の建造を敬遠していた。八八艦隊計画時、十三号艦の1隻を大室重工の堺造船所で建造する計画だったが、それが流れた為、造船所の拡大計画も霧散し、戦艦の建造は行われなかった。

 この事から、大室重工業は戦艦の建造を諦め、他の艦艇、つまり空母や巡洋艦などの建造が可能な設備を整える事を考えた。

 具体的には、堺に中型ドックと小型ドックを1基ずつ、横浜に中型ドックを1基と小型ドックを2基増設し、大阪府南部の多奈川に大型ドックを1基と中型ドックを1基、小型ドックを2基を有する新しい造船所を建設する事が計画された。

 これらの計画は1934年から行われ、海軍拡張計画が行われる1937年までに全ての計画が立てられた。それと同時に工事も行われ、1940年には大体の施設は使用可能となった。


 また、造船所の強化と連動して、製鉄・セメント・機械・金属・ゴムの強化も行われた。これらは、造船所の建設や拡大、日本全国で行われている電力開発に必要だった。製鉄は造船所やダムで使用する鋼材に、セメントも造船所やダムで使用される。機械は、造船所の設備を整えるのに必要となる。金属は発電所からの送電や造船所への配電の銅線に、ゴムは銅線の被膜に必要となる。

 その為、セメントとゴムを製造する大室化成産業、機械を製造する大室重工業と大室電機産業の施設が強化された。具体的には、大室化成は下関にセメント工場を新設し、和歌山にゴム工場を新設した。大室重工業は千葉の機械工場を強化し、徳島の航空機工場内に新設した。大室電機も千葉と堺の機能を強化し、石狩港に新設した。

 また、1936年に大室製鉄金属が製鉄部門と非鉄金属部門に二分し、製鉄部門を「大室製鉄産業」に、非鉄金属部門を「大室金属産業」とした。同時に、「大室金属鉱山」(旧・日林鉱業の金属部門)も改変し、非鉄金属部門を大室金属産業に移転し、残る鉱山部門は「大室鉱業」と合併した。

 そして、和歌山に製鉄所を建設し、堺の施設も増設した。また、徳島と横浜には銅線工場が設立され、君津には銅の精錬所が建設された。尤も、これらの施設は1935年現在では書類上の事でしか無く、これらが現実のものとなるには5年は掛った。


 そして、造船や機械の強化によって、工作機械の国産化も強化された。これは、1935年頃からアメリカからの工作機械の輸入が低調となり、ドイツ単独に頼る状況となっていた。しかし、有事になりつつある状態で、産業の要となる工作機械を輸入に頼るのは、輸入が途絶した時に産業全体がしかねないとして、工作機械の国産化が勧められた。

 他の財閥や企業は、輸入した工作機械が結構な数存在していた事でこの動きは低調だったが、工作機械の自給を内務省や陸海軍が推し進めた事で国策となった。これにより、他の企業も工作機械の製作を始めた。その多くは、海外の工作機械のデッドコピーであったが、海外製の工作機械を使用して製作した事から比較的高品質なものを作製出来た。

 これにより、ボールベアリングなどの精度が要求される加工品の精度が史実より高くなり(史実の10倍は精密な加工が可能)、この事が後の太平洋戦争における製造能力や継戦能力の維持に役立った。


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 大室財閥の造船所の拡大、それに伴う製鉄やセメントなど他部門の拡大によって、他の企業も造船所の新設や施設強化、セメントや機械の拡大が進んだ。これは、史実では存在しない大室財閥や日鉄財閥の規模が比較的大きい事から、ライバルに蹴落とされない様に、三菱や住友、神戸川崎など重工が中心の財閥は、造船所や機械工場の拡大を行う事となった。


 三菱では、三菱重工業が長崎造船所に10万トン級の艦艇を建造可能なドックを1基新設し、既存の2基を拡大し、1基は10万トン級、もう1基は5万トン級の艦艇を建造可能な設備に拡大した。長崎以外にも、横浜と神戸では中型ドックを1基新設し、下関の彦島では駆逐艦が建造可能な小型ドックを1基新設した。

 三菱電機も、三菱重工の拡大に合わせて神戸や長崎、及びその周辺にある工場の機能を強化した。


 住友では、鉄鋼需要の増大から住友金属工業が、銅線需要の増大から住友電線製作所(現・住友電気工業)がそれぞれ四国に進出し、製鉄所と銅線の工場を建設した。

 他にも、住友機械製作(現・住友重機械工業)が工作機械の製造に乗り出し、四国の今治と坂出、新居浜にあった小規模な造船所を買収して造船業に進出した。


 神戸川崎では、川崎造船所が神戸造船所に5万トン級の大型ドックを1基新設し、岡山県の和気郡片上(現・備前市)に新しい造船所を建設した。この地に建設された理由は、瀬戸内海の存在から攻撃されにくい事、片上鉄道が存在する事から交通の便がある事からだった。規模は中型ドック1基と小型ドック2基であり、1935年から工事が行われ、1940年には一部の機能が使用可能だった。また、片上の造船所に隣接する形で航空機工場も建設された。

 製鉄所も岡山港に建設され、1940年から稼働した。当時、岡山港周辺には工場などが多数建設された事から、その輸送路として宇野線の大元から分岐して岡山港への路線が1943年に開業した。


 他にも、石川島重工業や播磨造船所(共に現・IHI)、大阪鉄工所(現・日立造船)、日本鉄道興業が造船所や機械工場などの強化や新設を行った。これらの拡大によって、史実より1~2割の重工業生産力を獲得する事となり、船舶や兵器の供給力が向上した。

 一方、施設の強化によって原料の使用量が急増し、1930年代から海外からの地下資源の輸入量が急増した。これにより、外貨の消費量が史実より進み、これの代替案として輸出品の増大や国内の金鉱山の開発促進、輸入している地下資源の国内鉱山開発、代替品の開発などが急速に進んだ。

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