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架空の財閥を歴史に落とし込んでみる  作者: 常盤祥一
3章 昭和時代(戦前):暗雲の到来
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29話 昭和戦前⑦:日林財閥(7)

 東北では、奥州地域(現在の福島県、宮城県、岩手県、青森県)の工場施設の強化と奥羽山脈における電源開発を行った。元々、日林は私設鉄道の沿線の森林開発・植林から始まり、初期の出資者の中で最大だったのが、東北本線などを建設した日本鉄道であった。その為、東北地方の旧・日本鉄道沿線(=奥州)には日鉄の工場が置かれていた。

 実際、仙台には木材加工場や製紙工場、後には造船所や化学工場が置かれた。また、これにより、仙台郊外の名取や塩釜への工場や企業の進出も進み、他の企業の工場も進出した。それ以外にも、三陸や浜通りなどの沿岸部には水産加工場と製薬工場が置かれ、それ以外の地域には木材加工場や食品加工工場が置かれ、農地の開発も推し進めた。

 上記以外にも、日露戦争以後に進出した出羽地域(現在の山形県、秋田県)でも、秋田や酒田に中規模ながら製紙工場や木材製品の工場が置かれた。

 

 また、電源開発は、奥羽山脈や出羽山地、北上山地など多くの山岳地帯があり、北上川や最上川、阿武隈川などの大規模な河川が多数存在する事から水力発電に適しているとされ、積極的な開発が計画された。また、これらの大規模河川は大雨などで氾濫した事から、治水事業としての側面もあった。

 しかし、計画を全て日林単体で行うのは不可能であり、奥羽日林電力(日林系の電力会社で東北を担当)としても企業体力を超える事業は行えなかった。その為、地元の電力会社や自治体共同して場所毎に分けて建設を行う方法が計画された。これならば、複数の場所で同時に工事が出来、1つの会社が工事を中断しても他の場所では影響が小さくなると見られた。加えて、日林だけが巨大化する事も無い事から、他の電力会社から大きな恨みを買う事も無いと見られた(尤も、新規に参入してきた時点で相応の恨みを買っているのだが)。

 この案に対して、他の電力会社の意見は二分した。一方は、新参者が入ってくる事や新参者の意見など聞きたくもないという者、もう一方は、単独での開発は難しいとしてこの案に乗る者であった。その為、日林のこの案は紛糾し、最終的に日林の意見に賛同する会社だけでこの計画を実行する事となった。

 この結果、当初のダム建設予定地の2/3程度が開発される事となった。開発は1929年から始められた。開発開始直後に昭和恐慌が襲い、日本全体が不況に覆われた事で、一時は計画が中断された。特に東北地方では酷く、農村部の荒廃が進んだ為、開発の意義すら見失いかねなかった。

 それでも、荒廃した農村部を再建する為には東北全体の開発が必要だとして、計画の中止はされなかった。加えて、その後の満州事変後に日本の景気が上向き始めると計画は再開された。調査などを進め、多くの地域では1933年から建設が行われた。


 これらのダムは1937年から次々と完成した。ダムの完成により、多くのメリットがあった。第一に、暴れ川と言われた北上川や最上川の氾濫が減少し、今まで増水時に氾濫する為開拓が出来なかった下流域の農地の開発が進んだ。

 第二に、ダムの完成により大量の電力が供給される様になり、東北地方に企業の進出が進んだ。これは、戦時体制になりつつあり、軍需産業の比率が急増した時期と重なり、軍需中心ではあったが東北地方の工業化が進んだ。

 第三に、農地開発や工場の新設によって東北地方では大量の人手が必要となった。当時の東北では余剰人口があった事から、その余剰人口が開拓された農地の農民や工場の労働者として吸収された。これにより、史実では関東や満州に移住した人口が東北に定着する事となった。


 大規模な東北の開発が行われたが、東北全体の開発は日林単独では行われなかった。採算が取れるか分からない事業もあり、東北全体を開発しようとすると、財閥の体力を超えると見られた為だった。その為、他の財閥と共同出資して設立した「東北興業」という会社を挟んで行われた。東北興業についてはここでは詳しく述べないが、この会社は史実でも存在したが、設立した時期と経緯が異なる。


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 四国では、徳島と三島(伊予三島、現在の四国中央市)への進出を行った。これは、日林財閥が立江~土佐山田の四国中央鉄道と阿波池田~伊予三島の四国横断鉄道を支援した事と関係する(『番外編:日鉄財閥が支援・設立した鉄道会社(中国・四国)』参照)。特に、四国山地からの豊富な木材資源を活用して、製紙業と木材加工業が数多く進出し、水力発電の開発も進められた。それだけでなく、化学や造船、機械や金属なども進出した。これは、日林が四国全体の工業化の推進だけでなく、徳島を有力な工業都市にしようとする計画があった。

 

 徳島に進出したのは1928年からであり、その時は四国中央鉄道と沿線から産出される木材の加工程度だった。その後、発電所の計画が立案された実地調査も行われたものの、暫くは大きな変化は無かった。これが大きく進展するのは1935年以降の事である。

 1935年に大室重工業が徳島に航空機工場を建設する事となった。この話を聞いた日林は、部品や電力の供給に加え、徳島に大規模な工場を建設すると大室に伝えた。大室側はこれを歓迎し、両者が共同して徳島を工業都市にしようという話になった。

 大室重工の工場建設に合わせて、日林も日林化学や日林特殊陶器などの重化学工業の進出を強化した。合わせて、1933年から行われていたダムの建設も、これらの工場への電力供給の為に促進された。これらの施設は1938年から稼働し、徳島が四国最大の工業都市として君臨する第一歩となった。


 三島の方は、原料の確保が容易な事から製紙業や木材加工業が進出したが、地元には多くの製紙業者が存在した事から一時は対立関係にあった。これに対し日林は、原料の優先的な供給や経営が傾いた企業の救済を約束した。

 これに乗った企業もあれば、『自分達だけで対処する』と言って乗らなかった企業もあった。その為、三島の経済界は二分し、以降町内の有力企業は親日林派と反日林派で分割する事となった。これは、戦時中の統合にも反映される事となった。


 兎に角、三島へ製紙工場や木材加工場が進出し、電力開発によって豊富な電力が送られた。これにより、日林以外の有力企業、特に近畿や西日本に基盤を置く企業が三島に工場を置くようになった。主な企業として、住友系の住友機械工業(現・住友重機械工業)や住友化学工業(現・住友化学)、多木製肥所(現・多木化学)などの化学メーカーであった。他にも、大量の電力を使用するアルミニウム精錬や、近畿や瀬戸内に存在する造船会社や重工向けの機械や部品を製造する下請けも多数進出し、新設された企業もあった。これにより、三島は製紙と重化学の街として発展していく事となる。

 

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 南九州では、宮崎への進出を行った。こちらも、宮崎電気鉄道を支援した事と関係する(番外編『番外編:日鉄財閥が支援・設立した鉄道会社(九州)』参照)。宮崎電鉄の沿線は林業地帯として有名であり、こちらでも四国と同様に製紙業と木材加工業が進出した。

 同時に、大淀川とその支流の電源開発も行われた。宮崎電鉄の開業によって物資の輸送は容易となり、1933年から工事が行われた。ダムは1937年に完成し、宮崎電鉄や沿線へ電気が供給された。


 ダムの完成に伴い、大量の電力を使用し、将来の主力兵器と目される航空機の主材料となるアルミニウムの精錬業が進出した。また、化学の進出も盛んだった。これは、県北部の延岡と隣の熊本県八代に日窒コンツェルンの企業が置かれていた為であった。日林系だけで無く、森コンツェルンや日曹コンツェルンの企業が相次いで進出し、大量の硫安や苛性ソーダなどの生産が整いつつあった。

 これに伴い、日窒コンツェルンは宮崎に対抗するべく、八代や延岡での設備強化に着手する事となり、朝鮮での設備強化は鈍化する事となった。

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