24話 昭和戦前②:大室財閥(17)
アメリカから始まった世界恐慌は、瞬く間に世界中に波及した。
日本も例外では無かった。恐慌が始まる直前、金融恐慌からの立ち直りを目的にデフレ政策と金解禁を実施した。これらが上手く行けば、中小企業は淘汰される反面、低コストを武器に輸出が増大し、不安定だった為替も安定すると見られた。
しかし、この政策の実施直後に世界恐慌が発生した。恐慌によるアメリカ経済の低迷によって、最大の貿易相手であるアメリカ向けの輸出額の減少した上、国内の金(正貨)が大量に流出した。更にこの後、生糸とコメの値段も暴落し、国内経済は再び低迷した。
この経済低迷に対し、国債の大量発行と一時的な軍備拡張を行う事で苦境を脱しようとした。この政策は一応成功し、他の列強と比較して一足早く不況から脱した。
しかし、この政策の実施中にロンドン海軍軍縮会議や満州事変があり、軍部の発言力や不満が高まっていた。その様な中で軍拡を行い、その後で軍縮を行った事で軍部や右翼の不満は高まった。その結果が、血盟団事件から始まる閣僚・財界人へのテロ行為であり、極め付けが2・26事件である。日本は急速に軍国主義化していった。
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大室財閥は、昭和金融恐慌では不意打ちを喰らいダメージを受けたが、世界恐慌からの昭和恐慌は予想出来た。大室物産ニューヨーク支店からの報告で、ニューヨーク証券取引所の株価の動きやアメリカの鉱工業の生産状況から、近い内に株価は暴落すると見られていた。
暴落に備えて資金確保の準備していたが、準備中に金融恐慌が到来した為、大室財閥は大きな被害に遭った。しかし、金融恐慌後の処理によって準備の完了が早まるというメリットになった。
昭和恐慌によって国内経済は再び大打撃を受け、中小企業が大量に倒産し失業者も急増した。大室財閥はこの機会を利用して、更なる拡大を行った。金融恐慌によって組織の再編成が完了しており、以前からアメリカ発の恐慌に準備していた事から、その後の対応は早かった。今回は中小企業や農村部の被害が大きかった事から、既存企業への吸収では無く、子会社として傘下に収めるもしくは下請けや孫請けの方向での拡大となった。これにより、既存の大企業の生産の一部を子会社や下請けに委託し、大企業(特に大室重工業)は余剰生産力や経営資源を別の技術や重要性の高いモノに投入出来る様になった。
また、アメリカの不況に乗じて、日本に不足していた工作機械の大量輸入を行った。確かに、日本の工業力は第一次世界大戦前と比較すると上昇したが、未だに列強の中では下位であり、上位の米英独と比較すると基礎工業力では大きな差を付けられていた。そして、工作機械は高価でありその国の技術力の証でもある為、簡単に国外に輸出される事は無かった。
しかし、現状は大きな不況の中にありモノが全く売れない状況である。その様な中で、少しでも金(現金)が手に入る手段があるのならば、それに乗らない訳が無かった。実際、最初の2年間は最新の工作機械を大量に売却している。流石に、アメリカ政府は仮想敵国への援助に当たるこの行為に制限を掛けた。その後は、中古品の購入に限定され、輸出量にも制限を掛けられた。それでも、国内では充分に使えるモノであった。
これと同様の事をドイツに対しても行った。アメリカとは違い、ドイツは気前良く最新の工作機械を長期に亘って輸出してくれた。これは、ドイツと日本が直接敵対していない事、アメリカ以上に経済的に厳しい状況では相手を選んでいられない事、大室財閥がドイツと関係がある事(大室電機産業とAEG、大室化成産業とバイエル)からだった。
大室財閥のこの動きを見て、他の財閥も同じ事を行った。そして、安価で大量に兵器の生産が出来るのならと陸海軍の一部もこの動きに賛同し、なし崩し的ではあったが、産軍を挙げての工作機械の大量導入が行われた。
米独両国から輸入した工作機械は、財閥の工場や工廠の古い工作機械の刷新に使用された。そして、財閥や工廠から放出された工作機械は、半分は中小企業に、もう半分は建国間もない満州国(と言っても、大連や奉天が殆ど)に移された。
これにより、財閥系企業や工廠は設備の刷新と生産効率の向上、精度の向上が図られ、中小企業では生産力の向上が見られた。そして、満州国では史実以上の工業化が成される事となった。この事は、後の太平洋戦争で大いに役立つ事となった。




