番外編:この世界での日本海軍(日露戦争後~第一次世界大戦)
今回は説明の為、非常に長いです。加えて、「書きたい事を多く詰め込む」という私の悪い癖が出てしまった為、回りくどい書き方となり非常に読みにくいかと思います。加えて、説明不足やご都合主義もある為、内容に繫がりが無いかもしれません。
書いた本人が何を言っているんだとは思いますが、本当に申し訳ありません。
日露戦争で、日本海軍は日本海海戦で華々しい勝利を飾った。この勝利に国民は沸いた。しかし、陸軍と日本の商船団は戦後、海軍をこう批判した。『奴ら(海軍)は、自分達の武勲にしか興味が無いらしい。国が滅んでも、自分達が残っていればそれでいいのか』と。この批判は、浦塩艦隊にいい様にされた事を、日本海海戦の勝利で蓋をしようとした行為に対するものだった。日本は海外からの物資が無ければ戦えない、その事を忘れる事は許されなかった。
日露戦争の反省で、海軍は通商護衛の為の組織作りをする事を政府と陸軍に約束する事となった。その一環として、史実では海軍に編入された旅順で着底した艦や日本海海戦での鹵獲艦の内、戦艦6隻をロシアに返却した。この行為に『折角の賠償品を敵国に返すとは何事だ』『ロシアが再び攻めてくるのでは』という批判もあった。しかし、戦後の厳しい状況では6隻の戦艦を保有するだけの余裕は無く、加えて、修理中にイギリスで建造中の戦艦「ドレッドノート」の情報が入ってくると、これら鹵獲艦の戦力価値はほぼ無くなった。この為、反対派も戦力価値が無くなった鹵獲艦を編入するよりも、新型戦艦を造った方が質的な戦力向上になると判断して、この動きに反対する事は無くなった。
しかし、ドレッドノートの竣工は、当時日本が保有していた香取型戦艦や筑波型装甲巡洋艦(後に巡洋戦艦に変更)、建造中の薩摩型戦艦や鞍馬型巡洋戦艦も旧式化する事を意味した。その為、早急に弩級戦艦を保有する事が望まれた。この時計画されたのが、後に河内型戦艦と呼ばれる2隻の戦艦だった。
史実の河内型は、艦首側と艦尾側が50口径30.5cm連装砲、両舷が45口径30.5cm連装砲だったが、この世界の河内型は全ての主砲塔を45口径30.5cm連装砲としている。この理由は、主砲を2種類載せる事による不都合の解消と、他の戦艦に載せられている45口径30.5cm連装砲にする事で調達予算の削減や予備砲塔の確保のし易さを考えての事だった。
この動きに東郷平八郎は反対したと言われているが、設計側や事務方から主砲の統一によるメリットやコストについて説明されると納得せざるを得なかった。これは、海軍が日本海海戦の勝利で驕りを見せた事で、政府から『驕れる者は久しからず』と批判された事から、彼と艦隊決戦派の権威が史実よりも低かった事から、強く反対する事が難しかった為であった。
こうして、史実とは異なり河内型が本当の弩級戦艦として完成する事となった。しかし、弩級戦艦が河内型だけでは戦力不足なのは目に見えており、河内型が竣工する1912年には、イギリスが34.3cm砲を搭載した戦艦を竣工させていた事から、いずれ河内型の戦力価値も無くなると見られた。
この後、巡洋戦艦「金剛」のイギリスへの発注が行われるが、それ以降の36cm砲搭載の超弩級戦艦の調達は史実と同様である。
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時代は少し先に進み、第一次世界大戦時、イギリスは日英同盟に従い日本の対独参戦とヨーロッパへの派兵を要求した。史実では、対独宣戦布告はしたものの、本格的なヨーロッパ派兵は行っていない。しかし、この世界では、海軍の主力艦隊がヨーロッパに派遣されている。
この理由は、日露戦争によって海軍の権威が史実よりも低かった為だった。つまり、ヨーロッパに派遣する事で国内的には権威付けを、対外的には日本海軍の意地を見せる事が目的だった。
理由としては少々子供じみていたが、イギリスとフランスが『派兵費用や物資などは負担する』と約束した事から、その規模は巨大だった。イギリスから希望のあった金剛型だけでなく、完成したばかりの超弩級戦艦「扶桑」を旗艦に河内型や薩摩型も派遣、戦艦5隻・巡洋戦艦4隻を主力とする「遣欧艦隊」が編成された。加えて、連合国の通商路を護衛する目的の特務艦隊が2年程早く編成され、これらも地中海やインド洋などに派遣された。
尚、陸軍は派兵しなかったが、戦訓の確保を目的に多くの観戦武官を派遣した。
こうして、史実以上の規模で派遣されたが、被害も史実以上となった。
史実では、駆逐艦「榊」の大破が最大の損害だったが、この世界では、史実よりも2年早く派遣された特務艦隊に所属する駆逐艦が2隻沈められ、3隻が損傷、巡洋艦も1隻損傷した。これらの被害は、全てUボートによるものだった。そして、遣欧艦隊も「河内」と「安芸」がUボートによって攻撃され、「安芸」が撃沈されてしまった。
海軍内では、最強と言われた戦艦が潜水艦によって簡単に沈められてしまった事に大きなショックを受けた。これを受けて、沈没した戦艦の代艦を建造すると共に、対潜護衛の充実を図る事となった。この議論の中で、『日本は通商立国であり、その為には商船が必要となる。しかし、戦争となればその商船に被害が生じる。それを守るのも海軍の仕事ではないのか』という意見が出された。当初は適当に流されるかと思われたが、日露戦争で第二艦隊に所属していた将校だけで無く、特務艦隊や遣欧艦隊の将校からもこの意見に賛成する者が出た。
その後、これらの意見を纏めた報告書が本国に持ち帰られ、戦後の通商護衛戦の理論作りや護衛艦の充実、対潜装備の開発が進められる事となる。一方、この文書によって、後述の八八艦隊建設構想にブレーキが掛けられる事にもなった。
遣欧艦隊は予期せぬ被害に遭ったものの、相応の戦果を挙げた。ユトランド海戦で、金剛型巡洋戦艦は「金剛」と「霧島」が中破したものの、ドイツの巡洋戦艦2隻を撃沈、2隻を大破させている。加えて、史実では沈んだ「クイーン・メリー」が金剛型の応援で助かった事などから、イギリスの勝利に貢献したとして、艦長や司令官らに勲章が贈られた。
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さて、主力艦隊がヨーロッパに派遣された事で、国内である問題が発生した。それは、『日本近海に主力戦艦がいない事』だった。当時、国内にいた弩級以上の戦艦は「山城」だけであり、「伊勢」と「日向」は扶桑型の欠点から設計が改められた事で完成が遅れた。そして、他の戦艦は前弩級や準弩級の為、どうしても戦力的に見劣りした。現状では他の国が攻めてくる事は無いだろうが、それでも主力艦が居ない事に不安を覚える人はいるだろうし、何より旧式化した艦の代替が必要になる事から、その為の艦の建造が必要と判断された。
そして、これらの予算は1915年に下り早急に建造が開始された。これにより、史実よりも1年近く早く八八艦隊の艦艇の建造がスタートした。また、大戦中に「安芸」の沈没やその他損傷艦が再戦力化するまでの繫ぎを目的に建造促進が図られた。
しかし、先述の対潜戦に関する報告書が届けられた事で、八八艦隊の整備に疑問符が付けられるようになった。この整備計画の中では多数の駆逐艦も整備される事となっていたが、駆逐艦の装備の中に爆雷が無い事が疑問視された。そして、1918年に第一次世界大戦が終結すると、八八艦隊の整備そのものが国家財政に重荷となった。
そもそも、八八艦隊の予算が下りたのは第一次世界大戦の好景気に沸いていた為でもあった。それが終わってしまえば、この巨大艦隊計画は平時には過ぎたるものだった。しかし、海軍の近代化や質的強化も図る必要がある事から、1920年に八八艦隊計画は次の様に改訂された。
・現在計画中の戦艦・巡洋戦艦(紀伊型戦艦と十三号型巡洋戦艦の事)は建造中止。
・代わりに長門型・加賀型・天城型の建造を促進し、他の超弩級艦の整備を強化する。
・現行の駆逐艦・巡洋艦に対潜装備の充実を図ると同時に、通商護衛戦用の護衛艦の建造を行う。
・将来を見据え、潜水艦・航空機・通信・電気に関する研究費を増額する。
こうして、八八艦隊計画は縮小されたが、他の部門へ注力する事となった。これは、後の太平洋戦争で生きる事となるが、それは別の話である。
また、これと連動する形でシベリア出兵は中断、順次撤兵する事となった。
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日本の八八艦隊計画を見て、アメリカも海軍拡張計画を策定、戦艦10隻・巡洋戦艦6隻をはじめとした大艦隊を建設しようとした。しかし、日本が自主的に八八艦隊計画を半減させた事から、この巨大艦隊計画は批判される様になった。また、第一次世界大戦後の軍縮の空気から、1921年10月からワシントンD.C.で軍縮会議が開かれた。
史実よりも建造開始が早く建造促進もされた事で、ワシントン海軍軍縮会議の開始時、日本は既に「長門」「陸奥」「加賀」「土佐」を完成させ、「天城」「赤城」をほぼ完成させていた。実際は、「天城」と「赤城」は細部の工事が残っていたが、日本側は完成と主張した。完成としなければ、廃艦の可能性もあった為だった。
一方のアメリカは、「コロラド」こそ完成させていたが、それ以外の16インチ(40cm)砲艦は完成していなかった。イギリスに至っては、1隻も無かった。
その為、米英が共同して天城型巡洋戦艦を葬ろうとした。しかし、日本も完成させたばかりの戦艦を破棄する事は断固として拒否した。一方、軍縮そのものには賛成した為、日本側は「金剛型以前の全ての戦艦と建造中の戦艦を全て破棄する代わりに、残存する14隻を対米英6割とする」案を提示した。
この意見に、イギリスとアメリカの対応は分かれた。イギリス側は、まだ保有していない16インチ砲艦を建造出来るお墨付きを得られる事、日米を一定数の枠に収める事が出来る事、何より第一次世界大戦での恩もある事から、この意見に消極的ではあるが賛成を示した。一方のアメリカ側は、この意見を拒否するばかりで当初案、つまり天城型の全廃の上で対米6割を崩さなかった。
このままでは、日米の意見が決裂して会議の締結すら不可能になると考えられたが、ある偶然からこの会議は大きく進んだ。それは、「アメリカによる日本の暗号の傍受とその解読が発覚した事」だった。事の経緯は、日本政府がワシントンにいる代表団に間違った電報を送ってしまった。それをアメリカが傍受・解読し会議の場で利用したが、本来の情報とは異なる情報だった為、日本側は疑問に思った。調べてみると、間違って送られた電報の情報と寸分違わず一致した事から、日本の情報がアメリカに筒抜けである事が発覚した。これを受けて、日本側はショックを受けたが、同時にアメリカの対応が適切である事に納得し激怒した。
日本は、アメリカに取引を持ち掛けた。曰く、『暗号傍受の件は暴露しない。その代わり、こちらの案を呑め。出来ない場合は暴露する』と。半ば脅しだったが、この件が暴露されるとアメリカとしても不味かった事から、アメリカはこの条件を呑んだ。この結果、史実と同じくワシントン条約は成立したが、史実と異なる点は以下の通りである。
・米:英:日の主力艦の排水量の比率は、5:5:3とする。尚、米英の保有量を基準とし、トン数は80万トンとする。
・日本は「天城」と「赤城」の保有を認める代わりに、現在建造中の戦艦と12インチ砲の戦艦を全て破棄する。
・アメリカは破棄予定のコロラド級3隻・サウスダコタ級2隻・レキシントン級2隻の保有を認める。
・イギリスは廃艦予定の「クイーン・メリー」の保有と、新規に16インチ砲戦艦4隻の建造を認める。
・破棄した戦艦の代艦は主砲16インチ、排水量4万トンを上限とする。
日本は何とか「天城」と「赤城」の保有に成功した。しかし、多くの戦艦を保有した事は、維持費の増大にも繋がる。加えて、史実以上に米英が16インチ砲戦艦を保有する事となった。
『加賀型や天城型を戦艦として太平洋戦争に投入させたい』と思ったのが始まりでした。その為、日露戦争から考えたわけですが、この様にして上手く行ったかどうかは分かりません。私自身は無理だと思っていますが、「なんだかんだで日本に都合が良い様に進んだ」と思ってください。




