15話 大正時代:大室財閥(12)
1913年1月16日、大室財閥の創設者である彦兵衛が81歳で亡くなった。彦兵衛の葬儀は、彼の遺言により財閥の者だけで行われる筈だった。これは、彼が華美な事を好まなかった事から、派手な葬式や多数の参列者が来る事を嫌った為だった。
しかし、彦兵衛死去の知らせを聞いて取引先の企業や中央省庁(内務省と文部省、内務省から分離した農商務省、逓信省、鉄道院)の幹部クラスの面々が参列した。当初、財閥側は彦兵衛の遺言を理由に彼らの参列を拒否したが、彼らは『せめて線香だけでも上げさせて欲しい』と猛烈にお願いし、彼らの熱意に負けて線香を上げる事を許した。
葬儀の後に、遺産の配分が行われた。後継者については生前に決められており、長男の忠彦を大室本店の総帥に、次男の匡彦を大室物産の社長に、三男の淳彦を大室海運の社長にそれぞれ任命している。
こうして、大正に入るとほぼ同時に、大室財閥は新体制を迎えた。
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大正に入り、彦兵衛の息子達による新体制が発足した後も、大室財閥の動きに真新しいものは無かった。精々が、ヨーロッパでの拠点の増加だった。
大室財閥は彦兵衛商店時代の1892年に、ロンドンとハンブルクに初めての海外拠点を設けた。これは、彦兵衛商店がヨーロッパの商館の日本支店を吸収した事で、ヨーロッパ、特にイギリスとドイツとの取引を持った事から始まる。当初は、商館時代のルートを使ってヨーロッパから車両や機械などを輸入していたが、取引量が増え彦兵衛商店の力が増えるに従い、中間手数料や手間を煩わしく思う様になった。そこで、直接進出すればその煩わしさから解放され、その分のコストを他の方面に投入出来るのでは考えた。そして進出したのが、取引量が多かったイギリスとドイツであり、取引の中心であったロンドンとハンブルクだった。
その後も、ベルリンやパリなどヨーロッパの主要都市にも進出する様になったが、彦兵衛の晩年の1909年から急速に進出が拡大した。アムステルダムやローマ、ウィーンなどこれまで進出していなかったヨーロッパ各国の主要都市に出店し、既存の支店の人員も増加させた。これは、彦兵衛が『ヨーロッパがきな臭い』と睨んだ為、つまり取引では無く情報収集の為の拠点だった。
兄弟も、父から情報の重要性を何度も聞かされており、特に忠彦は過去に株取引で大損した経験から、情報収集に躍起になっていた。
この動きは無駄にならなかった。拠点設立後、バルカン半島と東地中海では何度か戦争が発生し、開戦した事や交戦国内の情勢を大室本店に報告した。
古くからヨーロッパの懸念であったバルカン半島問題が、1908年にオスマン帝国内で起きた青年トルコ人革命によって最高潮になった。革命によって以前から顕著だったオスマン帝国の内政不安が高まり、この隙を突く様に、セルビアやブルガリア、ギリシャのバルカン諸国が動き出し、その支援に列強(特にロシアとオーストリア)も動いた。
1911年9月、リビアを巡ってオスマン帝国とイタリアが戦争を開始(伊土戦争)、これに乗じる形で1912年10月と翌年6月にバルカン半島でも戦争が発生した。12年10月の第一次バルカン戦争ではオスマン帝国対バルカン同盟(セルビア・ブルガリア・ギリシャ・モンテネグロ)、13年6月の第二次バルカン戦争ではブルガリア対セルビア・ギリシャ・モンテネグロ・オスマン帝国・ルーマニアとなった。
戦争の結果は、伊土戦争と第一次バルカン戦争ではオスマン帝国が、第二次バルカン戦争ではブルガリアが敗北した。この結果、オスマン帝国はリビアをイタリアに割譲し、ヨーロッパから殆ど追い出された。ブルガリアは、オスマン帝国から割譲されたマケドニアをセルビアとギリシャに奪われた。
これらの情報を得た事で、大室財閥は取引の増減や先物取引によって利益を上げたが、戦争終了後にはバルカン半島・東地中海方面での取引を減少させ、一方で情報部門を強化させた。二度に亘るバルカン戦争でもバルカン諸国の要求を満たすものでは無く、未だに不満は燻っていた。そして、この戦争でオーストリアとロシアがそれぞれの後ろ盾として動いていた事から、次にこの方面で戦争が起きた場合はもっと大規模になると予想した。
この予想は現実のものとなり、その結果も最悪な事となった。
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1914年6月28日、オーストリア領となったサラエヴォでフランツ・フェルディナント大公夫妻がセルビア人民族主義者によって射殺された。サラエヴォ事件である。(大公が諸事情で王位継承権が無いとはいえ、皇族が殺された事で)オーストリアは、この事件の背景にセルビア軍が関わっていると知りセルビアを非難、反オーストリア活動の全廃やセルビア国内での共同捜査などを要求した。セルビアは、国内にオーストリアの警察や司法が入る共同捜査については呑めず(それ以外については呑んだ)、オーストリアはこれを理由に国交を断絶、7月28日に宣戦布告した。
このまま、オーストリアとセルビアの戦争で済めば良かったのだが、今までギリギリの均衡を保っていたヨーロッパ列強同士の緊張が、これを機に崩れてしまった。セルビアの後ろ盾のロシアが総動員を実施し(当時の考えでは、総動員の実施は宣戦布告一歩手前の行為に当たる)、これに釣られる様にオーストリアとドイツも戦争準備を実施、更に釣られてフランスとイギリスも戦争準備を実施した。こうなってしまえば後は止まらない。8月1日にドイツがロシアに宣戦布告すると、各国も対立国に宣戦布告し戦争状態に突入、後に言う『第一次世界大戦』の始まりだった。
3月25日に一部大幅変更しました。
変更前
「イギリスのリバプールにエディンバラ、ドイツのケルンにダンチヒ、オーストリアのプラハにトリエステ、フランスのマルセイユ、イタリアのミラノなど、ヨーロッパ各国の中小都市に多数進出する様になった。」
変更後
「アムステルダムやローマ、ウィーンなどこれまで進出していなかったヨーロッパ各国の首都に出店し、既存の支店の人員も増加させた。」
よくよく考えたら、こんな短期間に多数出店、しかも中堅都市への進出なんて不可能でした。それよりも、他のヨーロッパの首都への出店と人員増加の方が現実的です。




