プロローグ『森の番人』
「キスティン! キスティンマックール!」
明朝、いまだ森に漂う霧も晴れない夜明け前。
人気などてんで無い森の中にぽつんと建てられた山小屋のドアを、ひっきりなしに拳でたたき付ける男が居た。そのドアの蝶番を壊さんばかりの殴打と、怒号めいた口調は、森の静謐さを真っ向から否定するかのように響き渡る。
やや横暴さが目立つ男の所行理由は、目的の人物――口にした人間がこの山小屋から出てこないから、ではなく。居留守をを決め込んでいる相手の調子の良さが勘に障るわけではない。
ただただ、怖いのだ。
怖くて恐くて、この森で微かな可能性のみで訪れたことをひたすら後悔している。焦燥感に駆られたままノックを続ける腕は、次第に強さを増してしまっただけのこと。
この森には人など居ないはず。
なのにそうであっても彼を見つめる何かがいる。 人だと断言できるのは彼と、もしくは山小屋に隠れてる捜索中の人物のみ。
この森には『人ならぬモノ』が居る。
しかし、それは数日前までのことだ。だから彼も怯えつつもこの森へと訪れた。精神に刻まれた記憶は簡単にはとれやしないが、腰につるしたホルスターには銃だってある。
もしかりに襲われても、あんな小さな生き物なんぞ一発で撃退できる。
「――やあ。隊長、昇進おめでとう。さて、こんな朝早くにどうしたのかな」
するとやっとこさドア越しにて声がかかった。隊長と呼ばれた男は、一瞬「まさか本当に居たとは」と心底驚いた表情を浮かべて、すぐさまとりなおし怒鳴り返す。
「居るなら早く出てこい! まったく、どれだけドアを叩き続けていたと思ってるんだ!」
「知っているともさ。かれこれ数分間、君の奏でるドラムを耳に紅茶を嗜んでいた
からね」
男の顔が羞恥に染まる。
人をおちょくる態度もそうだが、彼はきっと、男の森に対する脅えをわかっているのだ。意味不明な存在を忘れることが出来ない、そんな哀れな一般人である彼の所行を嘲笑っていたに違いない。
「キスティンマックール!」
「怒鳴らなくて良い。黙っててすまないねジョフ、しかし勘違いはよくないな。森の番人たちは君を狩ったりしない。彼らはきちんとした秩序と階位を持ってして統率を取り、住処であり誇りでもある森を守っているだけ」
「ど、どういうことだ?」
「後ろをみてごらん」
──ジョフ・タルキンは、言われるがまま振り返る。とたんに一歩、勝手に身体が仰け反った。今の今までたたき付けていたドアに頭がぶち当たり、町での功績によって昇進が決定し、愛する妻から送られた艶のあるカーボーイハットがひらりと地に落ちた。
「な、なっ、なっ…!」
「何が見える? その詳細を十秒以内に語ってくれ。相手の人数と武装種類、あと豚に乗った偉そうな奴はいるかい?」
「キ、キスティン…!」
町一番の度胸と腕っ節を自慢するジョフは、あまりにあまりな光景に叫び声さえでない。言われるがままに振り返った景色は、己が通ってきた獣道めいたものでなく、さながら戦場だと言って良い。
ぎらつく刃。
獣じみた荒い息遣い。
闘争心に濡れた真っ赤な瞳。
それが、それが幾つも幾つも――ジョフの視界を埋め尽くさんばかりに蠢いている。風さえ届かない森の奥地に約数百個ものの瞳が波のように揺れていた。
それもたった一、二歩ほどの先の話である。
「これはなんだァ!? どうして此奴らここに、なぜだ、もうとっくにこの森からはいなくなったと聞いたのに……!?」
「ほう。それは一体だれの情報かい? しかし君の怯えようから考察するに、どうやら総戦力で出向いてきたか。よほど追い詰められた状況らしいからあまり刺激するようなことしないように、良いね? ジョフ」
「だからこれはなんだと言っているキスティン!!」
ジョフの渾身の叫びが、真っ赤な瞳たちにさらなる一歩へ火を付けた。
それは、ジョフの膝下までしかない小さな人の形をしたモノは、不格好な剣と盾をシンバルのごとく叩いて金切り声で叫ぶ。呼応するように周囲のモノたちも手に持った武器をたたき合い、時に闘志を高め合うためか醜く伸びきった爪で傷つけ合う。あっという間に静かな森を染め上げた彼らの行いは、常に強気に跳ねるジョフの眉をハの字に変えた。
ガチガチと噛み合わない奥歯を必死に堪えるが、彼らの熱を前にしては狩猟対象のウサギと変わらない。これだけの数に襲われれば一秒でぼろ雑巾に成り代わるだろう。
「助け、助けてくれ…っ!」
「だから刺激するなと言ったのに。え? なんか言ったジョフ?」
「いいから助けてくれェ! こんなの耐えられない、どうか…っ」
「うーん、すまない。彼らの音で声が全然……ともかく僕から言えることはね、ジョフ。彼らゴブリンが激怒しているのは――僕が怒らせたからなんだ」
は? と麻痺していた脳が彼の言葉で半ば正気に戻される。
「昨日、彼らが狩猟に出かけた留守中に住処を荒らした。食料庫に火を付け、寝床に糞尿をまき散らし、数体居た門番たちを昏倒させてみたんだ。すると、まあ、こうなったわけだが……」
「い、い、一体なにを、してっ」
「報復だよ。彼らは数日前、とつぜん人の町を襲い、家畜を食い殺し、畑を荒らした。当然の報いだろう? やられればやり返すのが君の心情ではは無かったかいジョフ・タルキン?」
なんてことを、なぜそのような余計な手出しをした。言葉にならぬ文句が喉の奥で渦巻き痛みとなってジョフを苦しめる。
「わ、私を巻き込むなキスティン!! どうにかしろ…!!」
「それは無理だよジョフ……すまない、無実で無垢な君は人間で、住処を荒らした僕も人間。ゴブリンたちにとって同種の存在なんだ。区別なんてできやしない。等しく同等に君も敵に変わりない」
よりいっそう派手な音を奏でる歪な協奏曲。もう臨界点すれすれの雰囲気は、ふとした拍子に吐いたため息でさえ開始の合図となってしまうだろう。すがるようにドアへと寄りかかり、弱々しい助けをドア越しに請う。
「ま、待て…待ってくれ…俺は、俺は……! どうか、助けてくれ…っ! あ、アンタは満月の都での最高位魔法使いなんだろ…ッ!? こんなちっぽけなゴブリンなんて殺しちまえるだろう!?」
「元だよ、元。しかしねジョフ。僕はなにも用意していない。まさか穏便な彼らがこうまでして怒り狂うとは思わなかった。予想だにしてなかった。…だから、どうか逃げおおせて欲しい。そう願っている。あとこの小屋には誰かが加護の魔法を施していたらしくて、僕は無事に襲撃を生き残れるだろう。最後に愛する妻に言葉を残しては?」
無残な捨て去り宣言が、彼に告げられた。絶望に染まるジョフは幾つもの文句を頭に浮かべて、けれど口にするなんて出来ず、青ざめた表情でぽつりと言葉を零す。
「お、俺は……」
「んっ? すまない、もっと大きな声で言ってくれ! いったいなんだって!?」
「助けてくれぇ! わ、悪かった! 俺がやったんだァ! 俺が…! あぁっ!」
頭のすぐ横にタン――と小気味音を立てて矢が突き刺さった。放たれた弓はどこからか、考える必要も無い。思考停止した彼は、ずるりと勢いよく尻から座り込んだ。ジョフの腹が衝撃で跳ねた。
嘲笑うかのように金切り声が両耳を容赦なく蹂躙する。もう耐えられない。なんだってこうなってしまったのだ。閉じたくても恐怖で固まった瞼は、目の前のありのままの敵視を受け入れる。
「自衛団体隊長ジョフ・タルキン! 君はいったい何を懺悔している!?」
「私がやったんだッ! 家畜の餌に毒を入れ、畑を荒らした! 私がすべてやった! 自分の立場をよくするためにわざと事件を起こした…! それを、それを…っ」
突然の証言に驚くモノはいない。なにせ聞き遂げたモノは人ならぬモノと、まったく声が聞こえていない山小屋に隠れた人物のみ。
「もっと大きな声で言うんだ! 君はその罪を誰になすりつけた!?」
「も、森の番人…ゴブリンどものせいだと、牧場と畑に残った足跡を証拠に…っ…私が立件させこ、こいつらのせいに…うわぁっ…わぁあぁあっ…!!」
「そう! しかしその足跡は君が自作した偽りの証拠だ!」
泣き叫ぶジョフは空に向かって雄叫びを上げる。硬く閉じた瞼からぼろぼろと涙が溢れ、みっともなくひさむ彼の姿は、まるで秘密を親に知られた子供かのよう。
「よく聞くんだ、ジョフ・タルキン。君の罪はさほど、私たち人間にとって重要じゃあ無い。しかし、心して聞いてくれ。君の前にいるゴブリン共は、君の真実を認めない。どれだけ許し請おうとも、彼らは己の領域を侵した人間に制裁を成し遂げる」
「あぁ…っ…! もう目の前に居る、武器を構えて今にも飛びかかってきそうだ…ッ!」
「けれど、一つだけ許される方法が存在する。どうだ、知りたくないか?」
何度も何度も幼い子供のように頷くジョフ。もうどうなったっていい、この状況さえどうにかさえなれば、自分が行った罪なんて幾らだって認める。だから、どうか助けて欲しい、と。
「正直に村で白状する…! だから教えてくれッ! どうか、どうかッ!」
「――その言葉を待っていた」
ガチャリと山小屋のドアが開く。軽い軋んだ開閉音の元、やっと彼は姿を現した。
趣味の良い蒼色のジャケットを片腕に垂らし、タイの無いシャツの首元をだらしなく開け放ち、小気味良い足音をカツカツ鳴らして颯爽と軽快に。今の状況なんてなんのその。賑やかな街中で出店を冷やかす程度の雰囲気で登場した彼――キスティン・マックールは、にこやかに微笑んでみせる。
「やあ、ジョフタルキン。どうだい、今の気分は?」
「キ、キスティン…!? 一体なにをして…!?」
なんら武装もせず暢気に現れた彼を、呆然と見上げるジョフ。何を考えてるのか。目の前には大量の敵視を宿したゴブリン共がいるというのに、なぜそうも無防備な振る舞いを出来るのか。
「だから勘違いをしてるって言っただろ? 彼らは野蛮な種族じゃあ無い。ちゃんとした統率の元、利益の有無を考慮して行動をする知的生命体だ。見た目で判断しちゃ痛い目を見る――それこそ趣味趣向で人をわかったようにあげつらうユニコーンより、実に繊細な生き物なんだよ」
ね? と、友人に同意を求めるかのようにゴブリン共へ問いかけるキスティン。場にそぐわ過ぎる彼の態度はあまりにも異常だった。当人のゴブリン達でさえ、先ほどまでの怒りを潜めて彼を観察している。もしやこれは彼なりの作戦なのかも。とジョフは伝説の魔法使いと呼ばれた彼を見上げるが、
「ふむ。どうやら言葉が通じないらしい、そういやゴブリン言語とかあったなあ。人語は通訳必要なんだっけ?」
即座に淡い期待を砕かれる。もう終わりだ、二人まとめておもちゃのように殺される。数刻先の逃れられない未来を想像し、絶望に身と心を焦がしながら――最後の希望として彼は、祈りを捧げる。
「神様…どうか神様お助けを…」
「おっと、ジョフ。それは一体なんだ?」
お前こそなんだと咄嗟に言い返したくなったが、それすら省くほどに一心に神へと祈る。必死に両手を組んで頭を垂れる。許しを請うように地面へ額をこすりつけて。
もう残された手立ては神に助けを請うことだけ。ジョフ・タルキンは人生で一度も、神を信じたことが無い。彼が数十年と住んだ村には信仰が存在しないのだ。人は人の営みだけで生きている、それが彼の信じる世界の在り方だった。どこぞの首都は『神が人を裁く』と教えがあり、『人が人を裁けない』とされている。仮にもし人が人を殺しても、誰も犯人を責めることも罪を負わせることも出来ない。ジョフが住む首都ではまったく信じられない話だが、実際にそうやって数百年ものの歴史を築いているらしい。
なら神だっているかも知れない。
今まで片時だって信じられなかった神様も、この時ばかりは現れてくれるかも知れない。
「神はいないよ、ジョフ・タルキン」
しかし、そんな都合の良い、すがりつきたい希望すらもへし折ろうとする余計な一言。
「祈っても神には届かない。そもそも神様なんていない、その祈りはまったくの無意味だ。ああ、なんてことだ。君には心底失望したよ、君が行った罪状は醜く私欲に溺れたものだったが、その行為自体は褒めたかったというのに。…ああ、君もまた弱い人間だったんだね」
失望に冷え切ったキスティンの言葉は、祈る彼の耳には届かない。呪詛のように呟き続く忌々しい名に掻き消されてしまっている。興味を無くした彼は嘆息し、かれこれ数分と成り行きを眺めていたゴブリン達へちらりと目配せし、にこやかに表情を切り替える。
まるで心から許した友人に接するように。
「やあゴブリン。住処に残しておいた書き置きを読んでくれたんだね、いやはや指定した時間通りで素晴らしい限りだよ、やはり君たちは優秀な番人だ。さて書き置きに書かれたとおり、つまり、この無様に神へと祈りを捧げる彼こそが君たちの名誉を侮辱した人間だ。…約束の言葉は得られなかったが、どうにかして彼に言わせてるつもりだからもう少し我慢して欲しい」
親交を示すように一歩前へ。握手を求めにキスティンは一番近くに居たゴブリンに近寄ろうとした、瞬間、
「ダダィドべ!」
その先頭にいたゴブリンの盾によって、腹部に強烈な一撃を見舞わされた。
「――うばぁい!?」
思わぬ衝撃にキスティンの身体は後方へと吹っ飛び、開いたままの山小屋へ見事にシュート。直線上にある物を軒並み薙ぎ払いつつ地面を滑りきった彼は、少し冷えた紅茶が置かれた机を一発で粉砕したところで無事に停止。
「……なぜだ……っ」
腹部の痛みに苦悶に歪んだキスティ言葉に、とある影が反応を示す。
「貴方が先ほど言った通りだと思うが。彼らの土地を我が物で顔で歩く人間は罪だと」
冷徹で暖かみが一切無い硬い口調。まるで洞穴の残響のごとき人間味のない声質。しかしソレは確かに山小屋内に存在しており、ゴミくずみたいに吹っ飛んで戻ってきたキスティンを観察する者が居た。
影の名はギルゾディック・テレサ。キスティ・マックールの専属用心棒である。
「ち、違うよテレサ……僕が問いたいのは多額の給料を払って雇っている用心棒がなぜ、なにもせずただ黙って見てたのかという疑問でね…ッ」
痛みを和らげる為か、地面に倒れながら上半身を苦悶な表情で捻る彼に、ドア付近で腕を組んで成り行きを見ていた影がぽつりと答える。
「規約外だから」
「へ、へえ……確かに森に着いてからは山小屋内での護衛を頼んでたね、そういや……」
それじゃあ納得だ。キスティンは勢いよく上半身を跳ね上げて、特徴的に波打った髪にかぶった埃をふって落とす。そこに苦痛は窺えない。どうやら痛みは収まったらしい。やせ我慢だな、と影は黙って察する。
「じゃあ追加料金に加えて新たな命令だ、テレサ」
「金額は?」
「今回の護衛の三倍」
唐突な大盤振る舞いに、影は嬉しがるより疑問を抱いた。その意図を見透かそうと雇い主の彼を射貫かんばかりに冷たい瞳を向けるが、凍死しかねない視線もなんのその、あどけない笑みを浮かべたままキスティンは条件を告げる。
「正当な金額だから疑ってもしょうがない。今から君は、この山小屋から出て怒り心頭のゴブリン達を説き伏せて、ジョフ・タルキンの身柄をこちらに引き渡して欲しい」
ふん。と、彼の意図を察した影は不満に息を吐く。
「なら五倍ほど貰おうか」
「それはダメだよ? 君の実力が、ただのゴブリン相手に後れをとるとは思えないし」
「数が数だ。実力の問題じゃあない」
「残念ながら実力の問題なんだ。この場合は嬉しいことに君に実力だから期待してるんだけど」
軽快に立ち上がり埃まみれになったスーツを叩きつつ、…その彼を、影に潜み気配を消したギルゾディック・テレサを【見下ろした】。
「そこにいたんだね」
「…………」
嫌な予感。そう影はなにかを察した。
食後の紅茶ぐらいに余計な一言が大好きな彼が、端的に言葉を漏らすときに限ってはよからぬ腹づもりがあってこそ。この状況こそがキスティンの端から狙いだったとしたら、もしや自分は担ぎ上げられた可能性があるのでは、と。
問いかけようとして口を開いた影に合わせて、つきだした指を犬のしっぽのように振るキスティン。
「んーん、しかしだ。常に人の死角で気障ったらしく壁により掛かり、腕を組んで人を変態的に観察する君には珍しく――どうして膝をついて、しゃがんでいる体勢なんだい?」
新しい悪戯を思いついたガキとは、こんな表情をしやがるんだと影は思った。
「つまり、君はゴブリンの習性を知っている。僕が知っている情報だと、彼らは上方から見下ろされることに慣れていないらしいね? 敵意を煽らないよう予め備えているのは、対人間専門の君らしくない知識だ」
「………」
「あと、体勢が低すぎても下等に扱われるらしいね。だから彼らゴブリンは、馬や山羊、または犬などを使役せずに豚などといった緩く遅く高くもないギリギリのライン――そんな扱いにくい動物を乗り物にしようするわけだ。君はその事実を僕とジョフの会話から知り、体勢を低くし、そう、そうだね。まるで豚の位置ぐらいまで頭を下げていた」
一通り埃を叩き終わったキスティンは、一息は居て間を置く。中途半端な中腰状態のテレサに向かって、一目で印象に残りやすいたれ気味の目尻を更に深めて笑う。
「何が言いたい」
「――ゴブリン語、取得してるだろう?」
そう。キスティは端からソレを知っていた。
事実、影はゴブリン語を習得している。
もしやすると前もって調べ上げていた可能性もあるが、影はそれを否定する。己が描いてきた人生は彼にたどり着くまで、全て闇に葬っている。知れるわけがない。だが彼はこの山小屋での影の行動を観察し、推理し、そして答えを導き出した。
「ほら。そんな敵意むんむんじゃ相手さんに怖がられるよ、元より【争う意思なんてない会話目的の中腰】なんだから、そんな恐い顔しないでさ。ほら、はやく」
野犬をあしらうかのように手のひらを仰ぐ主人に、無言で影は外へと歩き出す。
薄暗い森に現れた姿は、真っ黒な服。真っ黒な髪。真っ黒な瞳――この世の影が全て収束されたかのような出で立ちは、彼の、月のように白い肌をさらに際立たせる。普段から太陽を避けて行動する彼だからこそ。キスティンは何度か、その真っ白なデコに肉と描いてやりたいと狙ってたりする。
その度に半殺しの目にあっているのだが。
「ダンガゴゲバ?」
突然現れた人間に、ゴブリン達は一気に敵視を丸出しに騒ぎ出す。どうやら三人目の存在をまったく気配察知できていなかったらしい。
森の番人である彼らにとってこれほどの侮辱はないに違いない。いきなりトップクラスの対象者となった影は、何百の真っ赤な瞳になんら臆すること無く、犬のように這いつくばって、ただただ一言。
「…………。ゾドドボゲギギヲ」
そして頭を垂れる。元より地面すれすれの体勢なので、ほんのちょっと首を下げるだけで地面に額があってしまうのだが。そんなテレサの姿を、山小屋のドアの影から愉しそうに見つめる、彼の雇い主がいた。すなわち彼が一番見たかった光景とは言わずもがなこれだったのかもしれない。
「ガギデ!?」
「ゾドド『ブューバ』ゴベバギギジゲンボ!?」
「バ、バドギャズジャバイガド……?」
すると途端にゴブリン達がざわめきたつ。敵意なんて一瞬で消し飛んで、動揺を隠せないでいる集団を割って豚に乗ったゴブリンが現れた。一目でボスだとわかる見た目。一般のゴブリンとは違い、なにやら立派な兜と鉄製の杖を所持した頭ゴブリンは、頭をたれたテレサと、祈りを捧げたままのジョフ、影に潜んで笑いを堪えているキスティンを順番に見つめる。
そして納得したかのように頷き、鉄製の杖を掲げる。
「ギドボグ!」
ウキャーーーーー! と雄叫びを上げるゴブリン集団。
突然の爆音と歓声に祈りから冷めたジョフは、何が起こったのか理解できずに虚ろな瞳をさまよわせる。視界の中には今にもお祭りを開始しそうなテンションのゴブリン達に、光に当てられた影のように溶けてきえた記憶にない人間。そして、
「ジョフ・タルキン」
すぐそばにキスティンが立っていた。地に蹲るジョフを見下ろすように。
「…わ、私は助かった、のか…?」
ああ、君は助かった。キスティンは無言で肯定する。常に柔和な雰囲気のキスティンの表情は、時に、その端正な顔立ち故に感情に合わせて冷酷さを増す。言葉が通じないゴブリンでさえ今の彼を見ると好戦的にはなれやしない。それほどまで底の窺えない、冷え切った侮蔑の瞳がそこにはあった。
「わ、私は…」
圧死されんばかりの視線に耐えきれず、ジョフは顔を背けようとするが首根っこを掴まれ、強引に再度視線を合わせられる。殺される、そうジョフは感じた。
「残念だったね。けれど愉しかったよ、ジョフタルキン」
「…え?」
思わぬ感謝に拍子抜けしたジョフに向かって、日向にまどろむ猫のように穏やかな表情で彼は言う。
「やられればやりかえす。その言葉、奥さんによくよく聞かせておくよ」
最後の最後。もしや彼の支えでもあり、彼が今の今まで忘れようとしていたかもしれない。愛する妻の存在を告げて、ジョフの絶望を上乗せさせた。
力なく地面に伏せたジョフに、途中で拾ったカーボーイハットを被せて踵を返す。
「これにて『計画的魔術犯罪』――証明終了、っと」
まだ暖めていたポットで紅茶は作れたっけかな。と暢気に思い返しながら、太陽が昇り始めて霧が晴れはじめた森の中。訪れた平和を祝福するかのように、森の住人達のさえずりが小気味よく鼓膜を揺らす。
身体いっぱいにマイナスイオンを浴びて大きくあくびをしたキスティンは、なにやらここ数分でぼろぼろになった山小屋のドアをゆっくりと閉じたのだった。