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食べられますように

作者:水煙

 ほら、口を開けて。まるでそう言わんばかりに銀色のすぷぅんが口元に差し出された。真っ白なお粥が湯気を上げる。ぼくは今度こそ口を開こうとした。しかし、唇の先がわずかに開いたところで、吐き気がのど奥からこみ上げてきたので、息を詰まらせて身を引いた。

「これも食べられないの?」

 すぷぅんを持った少年がぼくの顔を覗き込んだ。少年は困ったと言わんばかりに眉をしかめる。きっと、ぼくがそんな表情をしていたのだろう。ぼくは申し訳なくなった。やはり口を開こうと思った。しかし、思った途端に先の吐き気が今度は腹の内に渦巻き、少年の表情は悲しげなものへと変わった。すぷぅんは口元のあたりを彷徨い、やがて離れた。

 すぷぅんはへなへなと力なく器へと帰った。白い陶器の器の中にたっぷりのお粥が作られている。ぼくは一口も食べられなかった。

 お粥だけではない。料理は次から次へと運ばれてきていたし、ぼくが手を伸ばそうとしなければ少年が今と同じように口元まで運んでくれた。和洋中問わず、焼物、煮物、汁物、飯物、などなど。見たこともないほど鮮やかな色どりがあった。今までにない芳醇な香りを放つものもあった。芸術品のように美しく盛り付けられたものもあった。しかし、万人が垂涎して手を伸ばすに違いない料理の数々を前にして、ぼくはちっとも食べたいとは思わないのだった。

 最後に持ってこられたのが、真っ白で、何も乗せられていないお粥だった。塩も何も入っていないと少年は言った。それは今、ぼくの前に置かれている。

 少年はぼくの向かいの席に座った。

「お腹、空いてないの?」

 そんなことはない。ぼくは先ほどから確かな空腹を感じていた。折よく腹も小さな音をあげる。ぼくはそうではないと答えた。

「なんで食べないの?」

 ぐっと言葉に詰まる。

 ぼくは右手ですぷぅんを手に取り、お粥という白いものを一杯すくいあげる。口元まで運ぶ。口はすんなりと開いた。

 しかし、やはり手は止まる。のどの暗がりから吐き気が顔を出している。ぼくはしばしそのままで固まっていた。

「食べられないの?」

 少年が言った。すぷぅんを持つ手に力がこもる。わずかに震える白いものを、ぼくは口の中に押し込んだ。

 すぷぅんを噛みしめる。熱で口の中が焼けるようだった。ぼくは舌で白いものをのどの入口へと誘い込み、吐き気を抑え込んで嚥下した。

 すぷぅんを口から抜き取り、器へゆっくりと落とす。

「まだあるよ」

 すぷぅんは沈むと同時に、お粥を乗せたのだった。すぷぅんをもう一度上げると、先ほどと同じように白いものが一杯分、すくわれた。手の力が抜ける。

 ぽと。

「食べないの? どうして食べないの? お腹は空いてないの? まだたくさんあるよ。君のために用意したんだよ。たくさん食べてよ」

 ぼくはもう一度すぷぅんを手を伸ばす。手はがたがたと震えている。指先が柄に触れると、すぷぅんと器が打ち合って甲高い音を立てた。それが大変かんに障った。腹から濁流のようにあの吐き気が湧きあがり、のどもとで抑えようにも抑えきれず。

 吐く。空気や、たいして入っていない内容物や、胃液。身を丸め、両足の間に体を挟み込み、五度吐いた。のどが焼け付く。酸っぱいにおいが鼻を突きさした。激しく呼吸を繰り返す。涙ににじむ目の前には先ほど飲み込んだはずのお粥が、胃液とも唾液ともわからないものを混じり合って落ちていた。

 吐いた。また吐いてしまった。この事実がじわじわと頭を犯す。

「ああ、吐いちゃった」

 少年の声が言った。

「大丈夫。まだあるよ」

 それを聞いてぼくはさっと顔をあげた。少年は全く困らないといった風に微笑んでいる。その後ろには、また、多くの料理が控えている。

「まだあるよ。たくさんあるよ。食べられるよね。いらないなんて言わないよね。たくさん食べてよ」

 ぼくは体を起こした。そしてすぷぅんを手に取る。

 食べなければいけない。

 食べなければ死んでしまう。

 作ってもらったのに失礼だ。

 食べなければならない。

 震える手で口元へと運ぶ。口を開く。

 すると、横から腕をつかまれて引っ張られた。すぷぅんの先は行き先を変え、別の口へと入った。ぼくの隣にはいつの間にやら、見知らぬ女性が座っていた。

 女性はぼくからすぷぅんをもぎ取ると、器を持ち上げてお粥を一気に流し込んでしまった。少年がぼくの前にサラダを置いた。それも銀のふおぉくでしゃくしゃくと食べきり、すてーき、すーぷ、焼魚、筑前煮、餃子、炒飯、次から次へと食べてゆく。

 なんと気持ちの良い食べっぷり。女性の脇に皿がどんどん重ねられてゆく。それでも限界に近づいているのだろう。女性の勢いはだんだんと落ちていた。

「もういっぱいね」

 ぱすたを食べきったときそう呟いた。ぼくは新しく置かれた何かの揚げ物に目を落とした。次はぼくが食べなれけばならない。そう思っただけで先ほどまでの快さが消え去り、代わりに手の震えが戻ってきた。それでも、とぼくは腕をあげた。

 そのとき、女性がまたぼくの腕をつかんだ。

「食べられません」

 女性は少年の方を向いて言った。

「ごちそうさまでした。お腹がいっぱいです。もういりません」

「どうして? まだたくさんあるよ。もっと食べてよ」

「いらないものはいりません」

「もったいないでしょ。残しちゃいけないでしょ。食べないといけないんだよ」

「いらないと言っているでしょう。押し付けないでください。私はもういりません」

 少年の表情がさっと陰った。少年はそのままぼくを見た。その顔はいつも同じことを訴えかけていた。

「ぼ、僕は……」

 ぎゅうっと、腕をつかむ女性の手に力が込められた。僕は少年から目が離せない。何度か口を開閉した。言葉がのどの奥から顔をのぞかせていた。

「僕も、いらない」

 少年は悲しげに言った。

「どうして? お腹空いているんでしょう? 食べてよ。君のために作ったんだよ? たくさんあるんだよ?」

「それでもいらない。いまは食べられない。食べたくない」

 本当は押し込めようとした言葉だった。でも、まるで胃の奥から突き上げるように食道を通りのどを越え、吐き出されてしまったのだった。

 少年は顔を伏せると席を立った。大量に残っている料理の一つを高々と持ち上げた。


 物の落ちた甲高い音で目が覚める。僕は布団をはねのけて起き上がった。六畳ワンルームの室内を見回すとキッチンの方から(そこはよくある、廊下に据え付けたキッチンだ)海さんが、こちらの様子を窺うように顔をのぞかせた。

「起こしてしまいましたか?」

 カーテンを開くと、日は登り切って下山を始めようとしている時分だった。

「おはようございます」

 海さんが言った。僕も返事をした。海さんはそのまま引っ込むと、キッチンのほうから音が立ち始めた。さっきの音は何でもないと付け足すように言った

 僕は何もする気がわかず、目の前をゆったりと横切る時の流れを、じっと見つめた。僕は子供の頃に連れて行かれた山のことを思い出す。緑の山々と田んぼしかない場所で、今は死んでしまった祖父母がそこに住んでいた。祖父は少しぼけていた。

 毎日の食事は必ず祖父母と一緒に食べた。朝には鶏の卵が出された。卵はほんのり暖かかった。ほかにも採れたての野菜がそのまま出されたり、みそ汁に入ったり、煮物になったり、炒められたり、いろいろと形を変えて出された。ただ、どれも隠しきれない青臭さがあった気がする。それでおかずを残すことも多々あった。そのとき祖父も祖母も決して無理強いをしては来なかった。ただ僕の残したご飯は、祖母が食後ににわとりや番犬のえさにしていて、中身をひっくり返す祖母は少し悲しそうな顔をしていた。

 海さんが茶碗とスプーンをベッド脇の机に置いた。次に鍋敷きと片手鍋を持ってきた。もうもうと湯気を上げるのはお粥だ。真っ白なお粥だ。

「昨日飲み屋で戻したの、覚えてます? それから意識失って。お腹空っぽでしょう? 塩も何も入れてませんよ。ほしければ梅干しくらい買ってきますけど」

 僕はいらないと首を振った。海さんが差し出す茶碗を受け取る。差されたスプーンを持ち上げると一杯分の白いものがすくわれる。

 ふいに、胃の中で渦巻くものがあり、例の吐き気が一気に込み上げた。僕は茶碗とスプーンを置くと両手で口を押え何度も体を震わせた。唾液ばかりが手にこぼれた。

「どうぞ」

 海さんがティッシュをとってくれた。僕は俯いてそれを受け取った。僕が手や口周りを拭いている間、海さんはずっと黙ったままだ。一度立ってキッチンに向かったが、物音から察するに、片付けをしたのだろう。僕は拭き終わってもお粥には手を付けなかった。顔も上げられなかった。海さんは戻ってきてまた近くに座った。

「食べれないんですか?」

 一瞬の間をおいて、首を横に振った。茶碗に手を伸ばす。しかし、短い嘆息が聞こえた。

「食べれないんなら無理をしなくていいのに」

 海さんはひとりごちるように言って、茶碗をかっさらっていった。

「鍋のお粥は冷蔵庫に入れておきます。茶碗のはいただきます」

 そう海さんはずるずるとお粥を食べきってしまった。食べきると帰り支度を始めた。

「見ればわかると思いますけど、お粥は冷蔵庫の二段目に入れておきましたよ」

 海さんはそう教えてくれた。そして、部屋を出ていく間際にはこうも言い残した。

「食べたくなったら食べてください。無理して食べることはないんですよ」

 その言葉を聞いて胃が急に軽くなった。冷蔵庫の中にあるお粥には熱と甘みがあり、弱った胃腸に大変やさしい料理であることが、にわかに真実味を帯びて僕の頭の中に受け入れられたのだ。

 僕は急に空腹を感じた。それは今まで感じていた生理的現象としての飢餓感ではなく、食欲とでも言うべきような積極的な空腹であった。僕は今すぐ冷蔵庫のお粥を食べたいと思った。

 海さんはとっくに帰っていた。僕はベッドから降りると冷蔵庫を開け、庫内の二段目にあるまだ若干熱の残る鍋を取り出し、茶碗に一杯分よそい、水を少し加えて電子レンジにかけた。ラップを取るとふわりと湯気が立ち上る。それをスプーンですくって何の抵抗もなく食べた。厚かった。飲み込んだ。

 熱いものが食道を落ちていく感覚があった。それはお腹のあたりで消えた。僕はもう一すくい食べた。今度は少し甘かった。飲み込んだ。

 そうして僕はご飯茶碗一杯分のおかゆを食べきった。残りは冷蔵庫に戻した。

 僕は茶碗を前にして手を合わせてこうつぶやいた。

「ごちそうさまでした」

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