冷像 Chilly mirage
シャワーを終えた藍は多くの子供達の声で賑わう、無駄に広い部屋の端の方で窓から外を眺めていた。
この部屋は元々病院のロビーであったが、今では強奪から帰ってきたストリートチルドレン達の溜まり場になっている。
頭の中の不穏な雲は少しだけ軽くなったように感じられる。
が、意識と身体が上手く繋がらないような、どこか夢の中のような不快な感覚はシャワーを被っただけでは拭いきれないらしい。
「よう、また会ったな」
藍の背後から、聞き慣れた声が聞こえた。どうしようもないお調子者の少年の声が。
藍は首を捻って、青い瞳で少年を見る。刃汚は血塗れのTシャツから、緩めの黒いジャージに着替えていた。もしくは、上から羽織っているのかもしれない。
かく言う藍も仕事着のキャミソールとロングスカートから、大きめなTシャツに着替えている。見るからに安物の大量生産品だったが、それが藍には心地よく感じられた。
「藍、何やってんだ、ボーッと夜空なんか見上げて?思春期か?」
「・・・・・・」
藍が無視して再び窓の外に目を向けようと思ったとき、さらに別の人物の声が聞こえた。
「シカトは良くないな~、藍。刃汚にデリカシーが無かったからって、せめてぶん殴るぐらいしてあげないと」
「・・・レノさん」
さっきまで、金髪の青年と口論を、と言うか悪口の言い合いをしていた女性が、刃汚の左に立っていた。零乃はいつものように、腰まで伸びた艶のある髪を左手で弄びながら藍に言った。
「あの馬鹿な金髪野郎の事は気にしなくて良いのよ。あいつ、あんた位の時、小便垂れ流して泣きながら帰ってきたことあるから。それに比べたらあんたも刃汚もしっかりやってるわ」
「いや、あの人についてはいつものことだから、もう気にしてません」
藍が言うと、零乃は明朗に笑った。
零乃はなかなか整った顔立ちをしており、人間として異常なほどに、人殺しで生きていくのに長けた精神をしている。
彼女はセンスが良く、いろいろな服を自分の部屋に隠し持っている。本来は禁止であるのだが、服代を差し引いてもお釣りがくるほど組織に貢献しているので皆彼女の違反を黙認しているのだった。
「まぁ、あいつも悪い奴ではないのよ。あんたが一人前になった証って事にしときな」
「?」
刃汚は全く意味が理解できていない藍を見て、零乃に代わって言葉を続けた。
「お前、傷さんに名前覚えられるなんて俺たちにしてみればとんでもない名誉だぞ!あの人は本当に興味のある人間の名前しか覚えないんだから!」
「ま、そういうこと。あのひねくれ者は『すぐ死ぬような奴の名前なんて覚えてどうする』って真顔で言うような奴だから」
そもそも、あの金髪の青年に傷という名前があることを知らなかった藍は、内心なんだか青年に申し訳ないと思った。
窓の外で月が姿を現したらしく、刃汚と零乃の立っている辺りまで藍の影が伸びる。
藍はその影を見つめる。その顔は黒く塗り潰されており、鈍い藍色の瞳など付いていない。
「・・・・・・私が一人前?人を殺す勇気も無い腰抜けが?私は異質なだけ。皆みたいな人間じゃない。ただ人を騙して密を吸い尽くす、寄生虫だ」
「あら、それ言ったら私たちなんてみんな人間失格じゃない。社会から振り落とされまいって、汚くしがみつくだけの虫ケラ。這い上がることなんてできないと知ってるのに、何度も何度も這いずり回って、次第に社会を腐らせていく」
「・・・・・・レノさんは・・・私とは、違う」
「違わない」
零乃は少し鋭さを帯びた眼で、藍を叱るように言った。
「違わない。『Dogmacula』のみんながあんたを特別視してるのは知ってるし、あんたがそれを心のどこかで重荷に感じてるのも見えてる。でもね、あんたの瞳が青だろうが何色だろうが、そんなことに意味はない。ここで生きてること。あるのはそれだけよ」
それでも、と藍は口を開いた。
「・・・・・・私はレノさんみたいに強くないし、意気地もない。何時まで経っても陰で震える子供のまま」
温まっていたはずの体に、寒気が走る。湯冷めしてしまっただろうか。藍は細かく震える左手を、そっと握った。
藍は、何か言いたげな顔の二人を置いて、ロビーだった部屋から出ていった。
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無数のシミが浮いた、古臭い木の扉の奥は、赤紫に染まっていた。
茶色いはずの酒屋のカウンターは細かく引き千切られた肉片で装飾され、泡を含んだ鮮血がフローリングの床の上で音を立てた。割れたワインの香りがなければ、むせ返るような内臓の匂いに胃液を吐き出していただろう。
その娘を支配していた店主は、一瞬にして惨殺されていた。
そんな、とても正気ではない部屋の中心に、酷く場違いな幼い少年がぽつんと立っていた。
その娘がじっと見つめていると、相手にそれが伝わったのか、部屋の隅を見つめていた顔がその娘の方を振り向いた。
「あれ、人がいる」
幼い少年がその娘を見て言った。
その声音は、聞くものの精神を砕きかねないほど純粋だ。
「可愛い女の子じゃないか。どうしてこんな汚い場所に?」
その娘を包んでいた不純な快楽は、得体の知れない物への純粋な恐怖へ変わっていく。
いや、自分を殺すだろう人間に対する、深い畏怖へと。
「ねえ、君も汚い人間かい?」
全身が、極度の緊張で縛りつけられる。喉の奥が干上がる。その言葉はその娘には聞き取れないが、その声の意味だけは、理解できた。
少年の右手に握られたとても細長い金属の筒を見つめる。先端から流れ出る白煙は、頭の中を激しく揺さぶる。
殺される。
「う~ん、どうやら違うみたいだね。じゃあなんでここに?」
少年はそこで、その娘の細い四肢に痛々しい傷を見つけた。少年は思わず声を漏らす。
そして、眉を顰めたままその娘の部屋に入って来た。壁に染みついたその娘の血を眺めて、再び口を開く。
「そうか、君はここに閉じ込められてたんだね。寂しかっただろう、可哀想に」
それでもなお緊張を解かないその娘に、少年は一層口調を弱めて言う。
「もう大丈夫だよ。あの悪い男たちは、ぼくが粉々にしたからさ。心配しないで自分らしく生きていくんだよ」
「?」
何一つ理解できなかったその娘だが、少年が放ったこの言葉だけは、未だに覚えている。
「青い瞳の君、もし君が汚い膿になったら、ぼくが取り除かなくちゃならないんだ。だから、悪い人になっちゃダメだよ。」