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Dogmacula  作者: 芦静一
Part 3
23/26

境界 Silent Stage

 線香花火のように瞬く街頭の灯が、遂に沈黙した。後に残ったのは腐敗臭とも人間臭とも取れないような歪んだ匂いと、溜息を含んだ堕ち切った奴隷たちが発する唾交じりの雑言だけだ。ロクな規律も立てられていない、それでも野放図にはならない暗黒街。一つの苗字によって隅々まで支配されつくした、人間の搾りかすが棄てられた死を待つ牢獄の街。

 一人の男がその汚い脚で道を駆けはじめた。完全に生気を失い、白濁した瞳は空の一点をじっと見据えていた。

 この牢獄街と外を隔てる高い塀。その上に浮かぶ巨大な城。

 神矢一族の宮殿が、その男の無様な姿を暗闇から見下していた。

 「か・み・さ・まぁぁぁぁぁ!」

 もはや狼以下の知性しか携えていないらしい男は、同じように全てを使い果たした人間たちの小さな嘲笑を集めていることも気にせず、神矢財閥に叫び続ける。

 「なんで! おでにもっと! もっとくれよぅ! なあ、かみさま~!」

 どこからか漏れる。冬の風に消える。

 好い加減気付けよ。お前の信じてる神様は、紙屑に頭をヤラレてるって。

 男は走る。石に似た何かの残骸に(つまず)き、砂色の肌を泥に叩きつけても。止まらないその姿はもはや獣を通り越して、更に野蛮なものへと変わっている。

 ギラギラと笑う月の下で、淀み切った男の目の端に何かが映り込んだ。

 「なんで・・・だよう・・・かみさま。おれ、信じてたのに、なぁ・・・」

 男の動きが、遂にゆっくりと鈍くなる。その原因は疲れでも、虚しさでもなく、

 「し・・・処理班が来たぞー! 逃げろ、にげ・・・」

 禿げ上がった頭を貫いた沼色の弾丸だった。


 夜から朝に移行する、その直前。六時前の切るような風からやっと逃れた部屋のベッドで、藍は安堵の息を漏らした。何歳になっても、やはり冬は寒いのだ。と、誰もいないハズの部屋を見渡す。

 その視界に予想通り人影を見つけた藍は、密かに眉にしわを寄せる。

 「おじゃましてまーす、と。蒼麻(ソウマ)さん、明後日に入った仕事の資料、ここに置いときますよ。って、また着替えもせずに寝ようとしてるんですか」

 部下に当たる少女の言葉を無視して、寝て過ごそうとしていると、掛布団ごと床に転がり落とされた。

 少女に眼で不満を訴えると、厳しめな声が返って来た。

 「駄目ですって、着替えなきゃ。風邪引きますよ」

 五月蝿いな。と、耳を指で塞ぐ仕草をすると、隙間から小さな声が侵入してきた。

 「もう・・・可愛いんだから」

 聞こえなかったことにしておく。

 「とにかく! 処理班の長なんですから、少しはシャンとしてくださいよ!」

 少女は騒がしく出て行った。勝手に部屋に入ったことに対する謝罪は、いつも通り微塵もない。

 今度こそ誰もいなくなったことを確認して、藍は再びベッドに寝転がり布団をかけなおした。温かさはすぐにはやってきてくれない。表面は空気に冷やされたそのままだ。

 (本当に可哀想な子だなぁ。私が同い年の女だって知ったら、どう思うんだろう)

 久野蒼麻。神矢財閥付属機関処理班班長。

 それが、今の藍の肩書きだ。


 目を覚ますと、日が暮れようとしていた。凄く長い間眠ったもんだ。と、我ながら恐ろしくなった。ぽすっと音を立て布団を身体から跳ね除ける。神矢家の宮殿の端に位置するこの部屋は、日中を経過してすっかり温まっていた。布団が無くなって寒い、なんてことにならず、少し寂しい。

 はっと、辺りを見渡す。就寝前のように、誰か・・・と言うより、秘書の少女が忍び込んでないか心配だ。

 藍は、この敷地内、この世界では男として生きていかなくてはならない。自分の正体がばれない様に、常に男のフリをし続け、一人での食事などを除くほとんどの時間、荒い布で髪と口鼻を隠して生活している。入社した時は良い手だと思っていたが、二年もすると、これが凄い悪手だと言うことに気付く。完全に自分を封じて生きることがこんなにも身を苛むものだとは想像していなかった。

 身体の変化でバレやしないかと思っていたが、生憎その兆候は全く訪れていない。むなしい。

 誰もいないことをしっかりと認め、やっと立ち上がる。寝起きは少しだけ、演技に自信がない。

 ゆっくりと鏡の前に立つ。無造作に顔に巻かれた灰色の布。はみ出る微妙な艶を発する黒い髪。死んだような黒い瞳。不愛想な汚れたジーパンとジャケット。

 本当の姿って、どんな風だっけ? と、少し疑問が浮かんだが、気にしない。とりあえず原型を留めない程度には変装できているらしい。

 歩き、書類の束を手に掴んだ。一ページ目にざっと目を通し、捲る。二ページ目は何だろう? タイムテーブルらしいが・・・

 それの一部に藍の目が引き寄せられる。無意識に笑みが零れた。

 これは・・・来た。

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