帰路 Mischievous cloudy sky
「それにしてもすげえよな、藍は」
刃汚が振り向く。なんとなく刃汚の顔を見つめながら考え込んでいた藍と目が合う。
「胸もロクに無いくせに、男を釣るなんてさ。処女とは思えねえよ」
「…………」
無邪気な笑みを浮かべる少年と、何の感情もこもってない顔の少女が誰もいない道の真ん中で見つめ合う。三流の恋愛小説のように。
但し、その間に流れるのは重苦しい沈黙。
「……なんかすいません、もう言いませんから」
藍は硬直する刃汚を置いてけぼりにして、さっきよりペースを上げて歩き出した。
満月が顔を出して、道を明るく照らした。思わず藍は俯く。
(男を釣る……か。欲望で体を滅茶苦茶にされた私が、その欲望に頼って生きてる。滑稽だ。この上ないほど滑稽で、泣きたくなる)
藍は青のかかった瞳で、自分の影を見つめた。体が冷えているのを感じる。早く帰って、食堂で何か温かいものでも飲もう。そう思ったところで、
「よし、決めた! 俺演技を身に着ける!」
「……は?」
「だから教えて? お願い!」
わけがわからないが、とりあえず溜息をついておく。多分、間違ってはいないだろう。
「だってさ、羨ましいじゃん、そんな、無傷で何度も作戦成功してさ!ねえ、お願い!出来るだけわかりやすく!」
(また馬鹿なことを……)
思わず目を閉じる。
(こっちは失敗したら抵抗することも出来ないまま……死んだ方がましな拷問が待ってるんだぞ)
少し腹が立ったので、少しだけ悪戯することにした。
藍は目を開いた。その瞳は黒く光る。
「……」
「お願い! 報酬も分けるから! ちょ…」
「ねえ、刃汚? 一つ良い?」
それだけで少年が硬直するほど甘い声で言った。
「……はい? え、ちょっ、藍さん?」
「私ね、あなたの事好きみたいなの……」
真っ赤まではいかないが、朱色くらいの嘘である。
「ねえ、一回だけ……キスさせて?」
恥ずかしさで顔を真っ赤にして、不安そうに少年の顔をすがりつくように見つめる。
という演技をした。
「え、ああ、藍さん?藍さあぁぁん!」
面白いので、涙でも流してみる。
「正気か?おい、藍?」
答える代わりに抱きついてみると、刃汚から変な声が漏れた。
(気付けよ……さっきまで演技の話してたんだから、勘付いても良いだろうに。まぁ、刃汚はどストライクだろうけどね、こういう純情な感じ)
「わ、わかった、キスするから泣き止んで!」
「……ほんと?」
少年の鼓動の速さに笑いが零れるのを堪えて、勝利を確信した藍は続ける。
「でも……いいの?」
「い、一回だけな」
「ありがと……じゃあ」
呼吸困難になりかけの少年が息をのむ。
「恥ずかしいから、目、閉じてよ……」
「お、おう……」
幼稚園児みたいに一生懸命目を瞑っていた少年の喉元にチョップが繰り出されたのは言うまでもない。
ある未舗装の、粗暴な山道を抜けた所に藍達の家は建っている。
病院の廃墟を改造して作られた真四角なビルは、塗装が剥がれ見た目が良いとはお世辞にも言えない。そんな事を気にする者など藍達ストリートチルドレンの中にはいないので、特に修復されないまま廃墟は不気味に佇んでいる。
そんな、婦女子はもちろん、大の男でも入るのを躊躇うような不道徳な廃墟の一室に、藍は静かに立っている。
「報告しろ」
冷たさを感じさせる声で言ったのは、藍と向かい合った、赤い椅子に腰掛けた青年だ。
声同様その表情には、温かさの欠片も浮かんではいない。
「特に大きな問題はなく、財布と携帯電話を強奪しました」
その時、藍から少し離れたところで口笛が鳴った。
振り向いた藍の視界に、金髪の青年が現れる。藍から見て左側の壁に寄りかかって、奴隷を見るような笑みで藍の青い瞳を見ていた。
「流石は藍ちゃん、今日も立派に売女勤めを果たしてくれました!」
けらけらと笑う少年の顔を見つめる藍の表情には、少しの影も差さない。ただ、虚空のような青い瞳が鈍く輝くだけだ。
「はいはい、藍が気に入らないのはわかったから、その下品な口を噤みなさい」
今度は、金髪の少年とは反対側の壁に寄りかかって、長い髪を左手で弄んでいた女性が言った。
「別に良いじゃない。人を殺そうが殺さなかろうが、金を持ってきてくればここでは一人前なんだから」
「ええー、でも折角の拳銃が勿体無いよー。弾丸だってタダじゃないんだから。俺だったらすぐに風穴開けてやるのになー」
「あんたみたいに既に死んだ死体に何十発も撃ち込むよりは、よっぽど安上がりだわ」
藍はそんなやりとりを横目に、金髪の青年のほうに足を進めた。
軽く礼をして、財布を手渡す。
青年は財布の中を調べ、中身を見ないまま近くにあった金庫に放った。
藍は何も言わないままに、体の向きを変えてさっき入って来た扉から外に出た。青年も何も言わずにそれを見送る。
扉を閉める直前、藍の耳にこんな言葉が飛び込んできた。
「良いのよ、結局は生き残った奴が正解なんだから。」
/
「……おら、これで満足か?」
自分の腕に刺さった注射針が痣の浮いた皮膚から抜かれるのを眺めながら、その娘は頷いた。
これから自分を包むであろう快楽について考えていると、殴られて砕けた身体の痛みもどこか愛おしく思えた。
「ははは、そりゃ良かったな、明日もまた殴ってやるからな」
そう言うと、亭主は上機嫌に店のカウンターへと帰って行った。
その娘が住んでいる部屋はカウンターの内側と、薄い扉一枚で繋がっている。
酒屋の常連客は皆、その娘が禁断症状に苦しみ、喉を裂いて絞り出す金切声を味わいながら酒を煽った。
そして、ほどよく酔ったところでその娘を殴り、その感触に酔いしれて麻薬を残して帰っていく。
その娘は体を侵す快楽に瞳を閉じた。自らの血で紅く彩られた部屋の壁が、心地の良い暗闇に消える。
理性も感情も屈伏していた。
その娘の精神は止めどない快楽に蹂躙され、破壊されていく。
そんな、いつもの昼下がりだった。
突然カウンターの方向で、ミキサーの音を増幅させたような、潤いを含んだ音が鳴り響く。
その音は、快楽で全ての感覚が狂ったその娘の耳に、嫌にはっきりと残った。
音は五秒ほど続き、消えた。扉の向こうで声が聞こえる。亭主ではない、まだ幼い声が。
「やったあ、またこれでひとり、うみがきえたよ!」
無邪気な声だった。そして、禍々しい声だった。
麻薬に侵されたその娘の頭の中で、鋭く警鐘が鳴った。
この茶色の薄い板の向こうで、得体の知れない、その娘の世界を壊しかねない何かが起こっている。
その娘の言語能力は少年の言葉を理解するには不十分だったが、その声に含まれていた歪みは扉の向こうで何か恐ろしい物が佇んでいることを物語っていた。
その娘は扉を開けるために、裸足の足でぬるい床の上で立ち上がった。全身至る所が傷んだが、歯を食いしばって立ち上がる。
頭の中の警鐘が身体中を不愉快に揺らし、意識を朦朧とさせる。
息づかいが荒くなるのを自覚する。
取っ手に指をかける。ひんやりとした金属の取っ手を握る指に力を入れ、ゆっくりと、少しずつ扉を開いた。