沈潜 a deadline
晴天はぐずつき、昼前には淀んだ水滴を降らすまでとなった。藍の目の前で、仰向けに横たわる少女の服に雨粒が染みていく。白い肌の上の、まだ赤い乾いた血痕が水分を得て浮き出る。藍は激しい出血をなんとか止めることに成功したが、それ以上のことはできず、ただただ芝生の上の少女の傍らで、その腕から体温が奪われて行くのを感じることしか出来なかった。
「もう、おしまいにして下さい・・・・・・」
力を失ったように両目を伏せたまま、聖は言った。骨が浮き出そうな程細い手足は、既に地面に投げ出され、動こうとしない。神経も消えかけているのか、傷みを訴えることもしない。
「・・・・・・」
「もう十分です」
「・・・・・・」
「・・・・藍さん?」
藍は何も言えなかった。目の前の現実に何かを消失され、息を吐いてしまえば二度と吸い込むことが出来ないのではないか。そう感じた。
「お願いです。私が生きている間に、藍さんの手で殺して下さい」
十分な声量を持たないその声は、しかし、しっかりと藍の鼓膜に届いた。その言葉の一文字一文字が藍の意識の根本にある何かを切りつけて、赤い液体を撒き散らせる。
重く、苦しい。
「藍さんなら、私をちゃんと天国に導いてくれる。そんな気がするから・・・・・・」
静かに、聖は笑う。人形のようなその笑みが、余りにも安らかであったので、藍は涙をこぼしてしまいそうになった。その溢れ出しそうな感情をなんとか押さえつけ、藍は今まで何度もやってきたように、瞳を閉じ、息を大きく吸い、覚悟を決めて吐き出した。
開かれた黒い瞳は、光を飲み込む。雨粒が頬を伝い、地面へ落ちた。
横たわる少女の首筋に手を添える。動脈が微かに波打つのを感じた。本当の自分で彼女を送ってあげる事の出来ない自分の弱さが忌々しく、消えてしまいたくなる。だが、そうしてしまった時、自分は確実に壊れてしまう事を、藍は知っていた。
強い自分自身を演じてこれから彼女を殺す。それが藍の選んだ最後の手向けだった。
「藍さん・・・・・・」
聖が告げる。
「会えて、良かった・・・・・・」
ゆっくりと手の平に力を加える。柔らかい皮膚の中に自分の指が沈んでいく。食い込んだ指の腹に、少女の最後の呻きが響く。それは徐々に弱くなっていき、そして、消えた。
衰弱しきった少女は、藍の両手によって、もがくことも出来ないまま、静かに死んだ。
手の中の少女が冷たくなったのを感じ、藍は握っていた手を離した。そして頭が真っ白なまま、鈍い藍色に戻った瞳で空を仰ぐ。水滴は降り続く。聖が死んでしまっても。何も変わらない。聖は死んだのに、世界は何一つ変わらない。
そう思うと、涙が溢れた。今まで我慢してきたものが流れだし、止まらない。
弥撒も死んだ。刃汚も死んだ。零乃さんも冷さんももういない。『Dogmacula』も無くなった。自分が今まで死ぬ気で掴みとった物は、最初から無かったかのように空に消えた。
ああ、なんだ。簡単な事じゃないか。
藍は泣いた。時間も声も冷たさもそこには無かった。あるのは抱えきれない悲壮な孤独感だけだった。
自分に掴める物なんて、初めから一つも無かったのだ。
生まれた時からわかっていた事じゃないか。私は誰にも望まれていない。誰とも繋がっていない。一人の人間として、生きてはいない。何かが欠落した欠陥品だと。
ならば。
藍は灰色の空に向かって、衝動のままに叫んだ。烏も鳴かない森は、静かに揺れた。
神よ。クソみたいな世界よ。
私なんて生まなければ良かったのに。
いつまでも淀んだ雨は降り続いている。いっそのこと雷でもなって滅茶苦茶にしてくれれば少しは気も晴れるだろうに、しとしとしとしと、ウザったく何時までも降り続く。
山の裾にある街に、耳障りなノイズ混じりの童謡が響く。藍は二日過ごして、これが午後二時を知らせる物である事を知っていた。雨から逃げ込んだとある空き部屋の中、藍はベッドの上で照明も付いていない天井をじっと見つめた。
(何が、したいんだろう)
『Dogmacula』壊滅から十日以上経って、藍の全身を包む身体の中を疾る危機感は消えつつある。ただ、それは、これからの生活の見通しが付いたと言う訳ではない。
(私は、何がしたいんだろう)
藍をこれまで動かしてきた生きることへの執着が、抜けてしまっていた。この二日間でやったことと言えば、惰眠を貪り鎮痛剤を消費する事だけだった。採れる食料も無く、喉を潤すこともしない。この部屋も、景気の悪い街で売れ残った物件の部屋を勝手に拝借しているに過ぎない。外の看板は打ち果ててそのままになっていたので、当分の間管理人はやってこないだろう。家具は一式揃っているものの、電気もガスも通っていない。もっとも、備え付けのベッドの上で時が過ぎていくのを眺めるだけの藍には必要ないが。
生命の警鐘が鳴り響くのを止めてしまったように、感覚はどうしようも無いほどに鈍く、意識もはっきりしない。
ふと、脇腹に微かに痛みが蠢くのを感じた。激痛のきざしである。仕方なく、寝ころんだまま頭の上の方に手を伸ばし、注射機に入った痛み止めを掴んだ。腰を起こし、聖がやってくれたように、自分の腹部の肌に針を突き刺して液体を注入しようとしたその時。
脳裏にかつての日常が高速で映し出された。反射的に目蓋を閉じても、焼き付くその光景はより濃くなるだけだ。
拳を振り上げる男達。肉片で彩られた店内。視界を埋め尽くす、幼い少年の奇怪な微笑み。
「お・・・・・・ぐぇぅ・・・・」
無意識に壁に投げつけた注射気が、音を立てて粉々になる。藍は食道にこみ上げてくる物を、堪えられず吐き出した。曇天で薄暗い部屋の中、くすんだ白のシーツの上に吐寫された胃液の臭いが渦巻いた。吐き気は収まらず、何度もえずきながら空っぽの胃の中身を必死に嘔吐する。内臓の筋肉が細かく痙攣を起こし、脇腹の引き裂かれるような痛みに、内臓を絞られるような嫌な痛みが混ざった。
吐寫物まみれのベッドの上、大きく荒く息をつき、やっとのことで正気を取り戻す。口の端ではまだ、こびりついた胃液の酸っぱい味がする。涙の溜まった瞳でベッドの奥を見つめるが、どこにも痛み止めのパックは見つからない。どうやら、あれが最後だったらしい。完全に追い込まれたことを知り、藍はもう一度天井を見つめ、ようやくベッドから立ち上がった。脇腹の痛みは、取りあえず少しの間なら我慢出来ないことも無さそうだ。
(どこかに行こう。とりあえず、ここではないどこかへ。この部屋はもうなんか、居心地悪いし)
少しは覚めた頭で部屋の中を横切り、乾かしていた上着を羽織った。寝癖が立っている自覚はあるが、それは気にしない事にする。びしょびしょに濡れてしまった白い靴はまだ生乾きで気色悪いので、裸足で外に出ることにした。
鍵を打ち壊した灰色の扉を無造作に蹴り開け、湿った裏路地に飛び出る。ボサボサの藍の髪を、冷たい風が乱暴に撫でていった。




