深緑 Back to
藍は冷えた森の空気の中、寝転がったまま辺りを眺めた。時計など身につけていないので正確な時刻はわからないが、すっかり夜も更けた頃だ。木々は沈黙し、静寂は永遠に続くかのようだった。人影も見つからない。ただ焚き火の燃えカス越しに聖が横たわって、静かに寝息を立てているだけだ。藍は無意識に身体が震えるのを自覚した。
本当は焚き火を焚いたまま眠りたいのだが、『Dogmacula』の拠点だった場所にはまだ神矢一族の奴隷達が殺し損ねた獲物を狩るために残っている可能性が高い。恐らくここまでわざわざ捜索に来ることは無いだろうが、煙を出して自ら現在地を示すなど、自殺に等しい。
それにしても、余りにも肌寒い。藍は下水道に逃げ込もうかと考えた。当たり前だが汚く薄暗いが、発生する気体のお蔭でわずかながら地上よりも暖かいのだ。だが、その代償として、下水から発生する有毒な気体を吸い込んでしまう事になる。どちらを選べば良いのか、藍にはわからない。だが、このまま寒い森の中、毛布も無しに野宿するのは、慣れているとはいえ少し厳しい。特に、草原の上で丸まっている聖には相当堪えているようにだ。寝顔はどこか寝苦しそうに見える。
藍は眼球の一部を失った少女の顔を、静かに見つめて考える。聖は『Dogmacula』に来る前は、どこで何をしていたのだろう。厨房の中で見せる仕事の様や上品な立ち振る舞いを考えると、どこか『Dogmacula』と同じような組織で働いていたのかもしれない。いや、大企業に雇われていたのかもしれない。聖ならば例の神矢一族の宮殿の中にいても・・・実際に中に入ったことはないのだが十分に重宝されるだろうと思う。はっきり言って、『Dogmacula』には釣り合わない。
好奇心と、薄寒くて眠れない事を理由に徒然に考えていると、不意に聖が寝言を漏らした。
「・・・・・・おかーさん・・・助けて・・・・・・苦しい・・・・・・」
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その娘は妖しく光る夜の街を見つめた。大人達が良くない景気を忘れるために作った夜の楽園を、我が物顔で歩く。不埒な雑踏の中、成人どころか十になったばかりの少女の陰がアスファルトの上を滑っていく。裏路地に屯する野良猫と目が合う。
悪い気はしない。
寧ろ楽しい。蛍光だらけの街、混沌とした空気、快楽と堕落の入り交じる闇の匂い。その全てを、ひっくり返す。
仕事前の高揚を落ち着かせるため、煙草用のバケツをひっくり返し、その上に座り流れる人々を眺める。
甘ったるい妄想を抱く人々が横切っていく。獲物、獲物、獲物。夢に溢れる街で、夢を叩き潰す。不毛さに笑みがこぼれる。
さあ、演技を始めようか。そう思ったとき、その娘の鼻を、とある匂いが掠めた。
「・・・・・・!」
理性と感情をグラリと揺らすような衝動が走る。息苦しくなり、その娘は地面に膝を着き、手を着いてしまった。吐寫物の匂いで少し意識が落ち着く。
「・・・・・・ったく、誰だよクスリなんて使ってんの」
健全なお付き合いをしなさーい。と、その日の昼に聞いたばかりの言葉を呟き笑うが、溶剤系の香りによって呼び起こされる禁断症状と過去のトラウマは、未だ止めどなく溢れてくる。身体のある所では冷や汗が噴き出し、また違う所では軽い痙攣が起こっている。灰色の地面が目の前にせり上がってきたかと思えば、今度は気が遠くなるほど離れていく。両手足がしっかりと地に着いているのに、不快な浮遊感。
全身の筋肉を強ばらせ、幻覚に必死に耐えていると、ようやく錯乱が通り過ぎていった。その娘はよっこいしょ、と立ち上がり、吐き捨てるように暗闇に言った。
「あ~あ、折角の気分が台無しじゃん。つまんないな」
強い吐き気と鬱々とした不快感が抜けきらないまま、眠らないと言われる街をフラフラと歩き出す。どこかで叫び声がした。人混みはまるで万華鏡の様に一瞬ごとに姿を変え、麻酔のように人々の感覚を溶かしながら揺れていく。
と、その時、後ろから肩を掴まれた。
(今まで騙した大人達に見つかった?)
一瞬の恐怖は、ゆっくり違和感へと変化する。自分の左肩を掴む手は、大人のそれにしては、小さく、弱々しい。
「君、この辺りの子? お願いだから、この気色悪い街の出口を俺に教えてくれ!」
振り向くと、ネオンの光の中、片手に長財布を抱えた少年が立っていた。
「ねぇ、本当にこっちであってるの?」
少年は声変わりの始めらしい、どこかくすんだような声で、前を歩くその娘に尋ねてきた。少し照明の薄い、裏の通りを二人は歩く。
「あ、はい。そうですよ」
「ここ、さっき通った気がすんだよな~」
どことなく気の抜けた様子の少年を、その娘は心の中で嘲笑った。同じくらいの年齢だろうか、なんとも暢気だ。
(夜中に財布持って、色町うろうろするなんて、襲ってくださいって言ってるようなもんじゃん)
最初、罠であるかもしれないと思い、精神を削って用心していた。その娘も、腐っても女である。売り飛ばせば幾らかの値段は付くだろうし、売春館の輩が誘拐しにきたとも限らないのだ。
しかし、その不安はどうやら杞憂だったようだ。目の前の間抜けな少年に、そんなこと出来そうにない。早いところ強奪を済ませ、おさらばしよう。
「お。やっと大通りか」
割と幅の広い路地への入り口に近づき、再び目の前がネオンが顔を照らし、
そして再び暗く。
「?」
「げっ!」
次の瞬間、怒号が闇を揺らした。
「餓鬼共!許さねえぞ!」
目の前に、巨大な男が現れた。ネオンの光が消えたのは、その肉付きの良い身体が目の前を遮ったからだと気づく。
「おい、てめ・・・・・・」
けして小さくはない、その声を。
完全に消し去る銃声。
その娘には、男の顔面にトマトが投げつけられたように見えた。男の坊主頭から飛び散る赤いゼリー上の物体が乾いた地面に衝突し、水っぽい音を立てて砕け散る前に、少年に手を引っ張られた。そのまま無理矢理来た道を一心不乱に走る。何が起こったのかを必死に考え、少年の手に握られた物が、財布から拳銃に入れ替わっていることに気づく。二度の轟音で目眩のする頭の中、その娘は自分の手を引く少年について考え、こう思った。
(人って、見かけで判断しちゃいけないんだな)
視界に映る少年が、後に自分の名付け親となることを、その娘は知る由もなかった。




