平穏 Daily of dark gray
深夜一時半頃、誰もが寝静まったであろう街に、際限なく不潔な声が飛んだ。
「や、やめてください!」
「良いじゃねぇか、別に減るもんでもないんだからよ!」
「ちょっと、きゃっ!」
「おら、脱げよ。裸になれつってんだよ!ぶち殺すぞ!」
「近づかないで!」
残念ながら、この世界で正義が機能するのは、光の当たっている中だけだ。どれだけ助けを求めても、その声は夜の乾いた空気に溶け込むだけだった。
「誰も助けになんか来ねえよ!諦めて俺の便所になれ!」
所詮、素晴らしい社会と謳われていても一皮?いてしまえば人間の集まり。汚く不平等であるのは、もはや宿命であるとも言える。
「お?携帯か?そんなもんこの路地じゃ使い物にならねえんだよ!さあ、どこから攻めてほしい?脚か?尻?それとも……」
「黙れ」
だが、それは響く。
藍は壁に埋まっていた小さな弾丸を引き抜き、そっと薄緑のロングスカートのポケットにしまった。特に意味のある行動では無いのだが、壁に突き刺さった銀色の粒が少し間抜けに見えたので、回収しておく。
「おい……嘘だろ?どうなってんだよ!」
足を撃ち抜いたばかりの男がわめく。その丈夫さに、藍は少し呆れた。
「いい、いつからお前、け、拳銃なんて!」
藍は男を無視し、辺りを見渡す。唾を撒き散らす汚い男以外に、人影は見当たらない。どうやら作戦は大成功だったらしい。
まあ、頭の悪そうな男が丁度良く辺りをうろついていた時点で、失敗する事は無いと確信していたが。
「何が起こったんだ?ふざけんな!」
男は黙ることを知らない。
「俺が犯したかったのは、お前みたいな餓鬼じゃねえ!何時だ、いつ入れ替わった?」
藍は少し良い気分であるのを顔に出さず、まるで人形のような顔で男に近づく。
「それにっ、お前、その眼!青い瞳なんて、ばけ……」
頭に銃口を押し付け、無理矢理黙らせる。そのまま、藍は男の脂汗で湿った、暗
迷彩のズボンのポケットに手を入れる。あまり気持ちの良い作業ではないが、仕方がない。
その姿に、さっきまでの弱弱しい女性の面影は、欠片も残っていない。服装も、背丈も、顔立ちも変化していないが、雰囲気が決定的に違っていた。
手を引き抜くと、黒い財布と、携帯電話が転がり出た。
「クソガキがっ!」
不意に拳銃を男の右手が掴んだ。どうやら、それさえ奪えば勝てるとでも思った
らしい。藍は拳銃を放棄して立ち上がった。
「これでも喰らえ!」
笑みを浮かべるそのお粗末な頭に、
藍は容赦することなく右足の爪先をめり込ませた。
ぐぽっ、と気味の悪い音と共に、男の体が軽く飛び上がるが、その手にはまだ拳銃が握られている。
わかっている。小柄な藍では、蹴りひとつで男を失神させることはできない。
だから、藍は何度も何度も、男の呻き声が途絶えるまで男を蹴り続けた。
深夜二時前、秋の冷たい空気の中を歩いていた藍は、前方に人影を見つけた。相手も藍の姿を視界に捉えたらしく、藍の方にどんどんと近づいてくる。
「藍!そっちも終わったんだな!」
藍が相手の顔を認識するより早く、相手からこえをかけられた。恐らく、藍が街灯の下に立っていたからだろう。
藍はぼそっと少年の名を呟く。
「刃汚……」
その少年は返り血で真っ赤に染まったTシャツを着て、人懐っこい笑みを浮かべるという暴挙をしでかしながら駆け寄って来た。一般人が見たらきっと失神するだろう。
「今から帰るんだろ? 隣、歩いてもいいか?」
藍は無言で頷き、まるで少年がいないかのようにさっきまでと変わらないスピードで歩みを再開させた。
今夜は満月のはずだったが、雲が厚いせいか、いつもよりどこか薄暗い。山の方へ行くに連れて街灯の本数も減り、闇が濃くなっていく道を、二人はただただ歩き続けた。
「どうせ今日も成功したんだろ、その様子じゃ。どんくらいの収入だった?」
刃汚が訊いてきた。藍は言葉で答えずに、ポケットから財布を引っ張り出し、隣を歩く少年に渡す。少年はその中身を、慣れた手つきで確認する。
「えーと……! お前、三万て、大漁じゃねえか!」
少年の口から飛び出した、予想だにしない金額に鳥肌が立つ。慌てて少年が広げる黒い財布の中を覗き込んだ。
中には四千円しか入っていなかった。
「残念でした!嘘です!」
「……」
藍は表情を崩さず、無言で財布をしまった。刃汚もその反応を予測していたらしく、再び歩き出す。
(何やってんだ、こいつは……)
藍は横を歩く少年を、青い瞳で見つめる。鼻歌が憎たらしい。
(人を殺した直後にやるか?そんな子供っぽい悪戯……まぁ、私は殺めたことはないからわかんないけれども)
刃汚にも藍にも保護者はいない。
保護者とは、肉親という意味ではない。
刃汚の母親は彼が捨てられる前に死んだらしいが、おそらく父親はまだ生きていると言っている。そしてきっと、藍の両親もどこかで生きているのだろう。無論、興味は無いが。
保護者とは、無償で保護してくれる人だ。そんな者はいない。とはいえ、誰にも頼らず生きていくことなど、藍には到底できない。
この世は強い人ではなく、豊かな人に優しく作られている。
藍達ストリートチルドレンの間では、『こんにちは』よりも有名で、陳腐で、耳慣れた言葉だ。
どんなに屈強な肉体を持っていようが、圧倒的な才能を持っていようが、綺麗な心を持っていようが、冬の凍える寒さの前では無力なのだ。そして、世界はサクセスストーリーなどを許してくれるほど、純粋ではない。
どんな手を使ってでも金を手に入れる。それが出来ないなら死ぬ。
金があれば毛布も食糧も屋根のある寝床も手に入る。
そう、守ってくれる人ですら買えるのだ。
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その娘は二つの時、両親に売られた。
売られた先は小さな町の古びた酒屋。麻薬や拳銃が闊歩する犯罪の溜り場だった。
その娘は、毎日殴られ続けた。酒屋の亭主に、客の鬱憤晴らしに、サンドバック同然に痣を付けられ続けた。その様子は、まさに、この世の地獄と言えた。
ただ、そんなのは他人の感想だ。当のその娘はそんな生活を辛く思っていなかった。
理由は二つあった。まず第一に、その娘にとってはそれ以上もそれ以下も存在しなかったからだ。
同年代の子供が両親と添い寝して安らかに眠っていることも、世界に温かい愛情が溢れていることも知らない。
その娘の世界には、殴る人達と殴られる自分、殴られるためだけに生まれて来た自分しかいなかった。それが普通なのだと思い込んでいる間は無理などせずとも耐えられた。
しかし、ある日その娘は出会う。自分を殴らず、殴られるわけでもなく、ただ其処にいるだけで皆から愛される子供と。
世界は粉々になった。理解できなかった。
そして、いつの間にかこの殴られ続ける人生以外に道があるなら、外の世界があるなら、そこに行きたい、と思い始めていた。
だが、その時には手遅れだ。二つ目の理由である。
その娘は亭主によって、薬漬けにされていた。
毎日自分が殴り終わると、その度に薬を使わせた。
その娘の感情は欲望に押し倒され、理性は薬で溶かされていた。
もし亭主が居なくなれば、殴られ続けなければ、薬を得ることはできない。その娘にとって亭主は、快楽を与えてくれる唯一の存在だった。
もし、外の世界に出てしまったら。もう薬は貰えない。残るのは禁断症状による激しい痛みと、終わらない幻覚。
その娘の中で、麻薬が貰えない事による、死にたくなるような絶望より恐ろしい物はなかった。
外の世界に出るための対価にするには、その苦痛はあまりにも重すぎる。
ところが、外の世界はある少年の形で、強引にその娘を引っ張り出したのだった。