青の憧れ
ネタバレあらすじ注意
他者の夢の中に入り、自由に行動することができる"潜入システム" その技術を利用して、依頼人の失われた記憶を復旧するサービスを行っている会社で、主人公サキチがアルバイトとして働き始めて半年が経った。ただの高校生であったサキチの生活は潜入一色に染まっていた。そんな彼が担当したある依頼、それはいつもと変わらないはずだった。しかし、依頼者の記憶が深くなるほどに、失われた記憶の捜索は困難を極めてい。依頼者の職業は元作家。サキチはそれを手がかりに、彼の書いたたった二冊の本を求めて自分の通う学校の図書館へ向かう。そこにいたのは、今まで一度も話したことのない、地味で暗いクラスメイトの女子。だが、実際に彼女と話をしてみると、ただ内気で、気弱なだけであった。彼は彼女に依頼者であるウツギの本を探してもらうことに。すると、その本はある先生が借りたまま返していないのだとか。その先生はウツギを心の師とし、憧れを抱いているらしい。図書館の少女と、熱心なウツギ信者である先生のおかげで、一時困難な状況に陥っていた潜入も息を吹き返していった。しかし、そこで飛び込んできたのは作家ウツギセイジ死去の一報であった。死んだ人間の夢へは潜入できないはずの潜入システムであったが、サキチはその日も、ウツギの夢に潜入していたのだ。死んだウツギと、自身の依頼者であるウツギが同一人物ではないと知ったサキチは、驚愕する。依頼者のウツギとは一体何者なのか。失われた記憶の謎は?
”アトラクタの箱”がカチリと音を立てて開いた。
はやる気持ちを押さえてゆっくりと箱の中を覗くと、ついに十個目のピースが見つかった。
---ミッション終了
機械的な女性の声が聞こえる。意識が夢の中から現実へと、浮上した。首もとにジワリと汗をかいているのが自分でもわかる。もう、このバイトを始めてだいぶ経ったけど、未だにミッション後の倦怠感には勝てない。
「おつかれ、サキチ君」
いつまでもベッドから起きあがれない俺に話しかけてきたのは上司のタケノウチ、通称タケさんだ。
「お疲れさまでした。……すいません、ちょっと起きあがるの手伝ってもらってもいいですか」
情けないことに、起きあがる気力もない俺はタケノウチさんに手を伸ばす。タケさんは嫌な顔一つせず、俺を起こしてくれる。
「今日は随分疲れているみたいだね。でも無理もないよ、ほら見てごらん」
そういわれて手渡されたのは、今日のミッションの結果だ。ミッション開始から終了までの脳波や、俺の行動が事細かに記載されている。
「だいぶタイムが短くなりましたね」
「ああ、サキチ君が努力してる証拠さ。君はうちの社のエースだからね」
「ありがとうございます」
なんだか気恥ずかしい。このバイトを始めてから半年、自分なりに試行錯誤した結果、俺はこの会社の”潜入者”のエースになったらしい。エースと言っても、潜入者は実質両手で数えるほどしかいないけど。
「タケさん、このヘッドフォン少し改良してもらえませんか。長い時間つけていると耳が痛くなるんです」
この会社はまだ出来たばかりで、圧倒的にデータと経験が無い。この”潜入”というシステムもまだまだ研究段階らしい。だから、何か気づく度に誰かに伝える義務がある。たとえどんなに些細なことでも。
「ああわかったよ、上に伝えておくよ」
タケさんは、今日はもう帰っていいと残し部屋を出ていった。なんだかよくわからない機械に囲まれ、俺はひとりぼっちだ。半年前の俺は、将来こんなことになっているなんて想像できたかな。
****
たった半年前の俺はただの高校生だった。本当にただの高校生。両親がいて、兄と妹がいて、学校には友達がいて、朝起きて、ご飯食べて、着替えて、学校行って、勉強して、帰って、ご飯食べて寝る。学校が休みの日には友達と街に出て遊ぶ、それだけ。このバイトを始めたのも単純な理由だ。自由に使えるお金が欲しかっただけ。まわりがみんなバイトをして好きなもの買っているのを見て、羨ましかったのだ。それで、バイト情報誌を見ていたときに、この会社の広告を見つけた。たしかキャッチコピーは―あなたにしかやれないことを、仕事にしませんか― 今思えば、この言葉から一体何を想像しろと言うんだろう。まったく情報が無いじゃないか。でも、俺は高校生優遇、短時間高時給に惹かれてこのバイトに決めた。面接にいってはじめに思ったのは「胡散臭そう」ってこと。この仕事の適性を計るとかなんとかいって、ベッドに寝かせられて、体中にたくさんコードをつけられて、そして”ヘッドフォン”をつけられた。そこから流れ出す音を聞いた途端、急に眠気に襲われ、そしていつの間にか、真っ白な部屋に俺は立っていた。
真っ白な四角い部屋の真ん中に、真っ黒な箱がおかれて。さっきは確かに眠ったはずだ。ヘッドフォンをつけられ、音楽を聴いて眠りに落ちた。たしかにそうなったはずなのに、俺はこの状況をただの夢だとは思えない。ほっぺをつねったりしなくても、いつも見る夢でないことが判っていた。その非現実的な状況に、俺が動揺していると、ふと男の声がした。
「気分はどうですか」
機械的な硬い話し方だ。無機質なその声と飲み込めない状況に身を固くする。
「大丈夫ですけど、……これは?」
「ずいぶん早い適応でしたね。それでは君の置かれた状況について説明します」
そういうと、男はこの”潜入システム”について話始めた。
潜入システムとは、ヘッドフォンから聞こえる音で脳波を変更し、他者の夢へと”潜入”することである。この会社ではそれを利用して、依頼者の夢に潜入しその人の忘れた記憶を呼び戻すことを研究し、商業化している。今、俺がいるのはこのシステムに適応できる人材を捜すために作られたダミーの夢。真っ白でまるで人間のいた気配がないのはそのためらしい。まるで意味のわからないことを話されて、頭がおかしくなりそうだ。
「そ、そんな。さっぱり意味が分からないんですけど」
「これから君に、あるミッションを遂行してもらいます」
「ミッション?」
満足な説明もなしに、男は話を進める。
「そうです。君の目の前にあるその箱を、開けてもらいます」
目の前にある真っ黒な箱。小さな鍵穴が一つあるだけで、ほかに開ける術はないみたいだ。
「この部屋に、鍵はありませんけど……」
そういった途端、目の前にガラス瓶が現れた。コルクで栓をされたその瓶の中には、箱と同じ真っ黒な色をした鍵が入っていた。
「あの、ほんとに、どういうことなんですか」
「瓶の中から鍵を取り出してください」
俺の言うことをまるで無視して、男は指示をだしてくる。それ以降男は声を発しないので俺は渋々、瓶を手に取った。
ひんやりとしているそのなんの変哲もないただの瓶を眺める。コルク栓は固く閉まり、手では開けられそうもない。開けられたとしても、瓶の口は小さくて、そこから鍵を取り出すことは不可能だろう。となると、割って取り出すのが一番良い。
ためしに、瓶を床にたたきつけてみたが、何に変化もない。もう一度、今度はさっきよりも強めにたたきつけてみたが、ゴンと鈍い音を立てるだけで、ビクともしない。瓶ってこんなに丈夫だっただろうか。
「瓶を開けるためにはなにが必要ですか?」
俺が瓶に悪戦苦闘するのを見計らったのだろう、男が声を掛けてきた。
「そうですね、瓶をたたき割れる……ハンマー?」
「では、君にやってもらいましょう。あなたの想像するハンマーはどんなハンマーですか?」
「え?ええと、俺の家の工具箱に入っているような」
俺の父親の日曜大工用工具箱の中に、たしか、大きくて立派なハンマーが入っていたはずだ。
「大きさは?」
「……んー、三十センチくらいで、頭の部分は握り拳くらいあったと思います」
「色は?」
「だいぶ使い込んでいるから、全体的に黒かったですね。でも、持ち手の部分は木でできていました」
「いいでしょう。それじゃあ目をつぶって、それを頭の中で想像してください」
言われるがままに俺は目を閉じた。瞼の裏に思い出されるのは、数年前父親と小さな棚を作ったときに、使ったおおきなハンマー。黒くなってはいたが、汚れているのではなく、使い込んだ証なのだと父は笑っていたっけ。
思い出された懐かしい記憶に、思わず笑みがこぼれそうになった時、
「いいでしょう、目を開けてください」と、男に声を掛けられた。
また、言われるがままに目を開けると、さっきまでなにもなかった部屋の中に、あのハンマーが落ちていた。
「……え?」
「具現化成功です。そのハンマーを使って、鍵を取り出してください」
せかされるように、俺はそのハンマーを手に取り、瓶を叩く。ガシャンと音を立てて、いとも簡単に瓶は割れた。破片に注意し、そっと鍵を手に取る。見た感じはただの鍵だ。
「では、箱についた鍵穴に刺し、箱を開けてください」
箱に近づき、鍵穴に鍵を近づける。なんの説明もなし進められるミッションに、ほんの少しの不安とともに、胸が沸き立つような高揚感が俺を包む。鍵を刺し、右側にひねるとカチリと音を立てて箱は開いた。
ふたをそっと開けると中から現れたのは、
「パズルのピース?」
「ミッション終了です」
さっきまでとは違う女性の声が聞こえるとともに、俺は気を失った。
****
それから、どのくらいの時間がたっただろう。気だるさが全身を襲い、手を動かすことも、口を開くことも億劫だ。かろうじて開けた目で見たのは、さっきまでいた真っ白な部屋に行く前、全身にコードを張り巡らされ、ベッドに寝かしつけられたあの部屋だ。
「起きたかい?」
この声は、真っ白な部屋で俺に指示をしてきたあの男の声だ。俺は、声のする方向に目を向ける。そこにいたのは三十歳くらいの眼鏡をかけた男性だった。
「なんだったんですか、あれ」
「君は合格だ!」
聞きたいことがたくさんあるのに目の前の男は俺に有無を言わさず、うれしそうに話す。
「君は本当に優秀だ!面接にきた中でも、今働いている潜入者の中でも、抜群にいい!」
力の入らない俺の手を取ってぶんぶんと降り続ける。状況が読めない俺は、それを素直に受け止めるしかない。
「あの……」
「僕の名前は、タケノウチだ。この会社の技術業務を行っている」
「はあ」
「うちの会社には君のような人材が必要なんだ!潜入システムには、出来るだけ発想が柔軟で、どんな状況にも適応できる若い子が必要でね、君はそれにぴったり!」
あの部屋にいたときは、随分と無機質な声に聞こえたけど、ここで顔を見ながら聞くと、ぶっちゃけそうでもない。
「あの、そろそろ握手、やめてもらってもいいですか」
「ああ、ごめんね。初めての潜入で大分体力を消耗しただろう」
疲れてることをわかってて、やっていたのか。
「いろいろ訊きたいことがあるんですけど」
「いいよ。何でも訊いてごらん」
「さっきまでの、あの出来事は……」
「現実だよ。君は僕らの作った夢に潜入して、箱を開けてミッションを達成した」
なんだか、信じられないような、信じられるような何ともいえない気分だ。
「そうだ、あの箱の中にあったパズルのピースは?」
「あれは”記憶の断片”だ。あの部屋で説明しただろう?この会社は依頼人の忘れた記憶を取り戻すことを研究をしているって。あの部屋の中では記憶が”パズルのピース”として具現化されるんだ」
「そうですか」
「ちなみに、あの真っ黒な箱は”アトラクタの箱”というんだよ」
「アトラクタ、どういう意味ですか?」
「訊きたいかい?」
この顔はみたことあるぞ。数学のタカムラ先生が、授業中に何の関係もなし、いかに数学が美しいかを延々と語ったあの伝説の授業をしていたときと同じ顔。自分の得意分野になんの興味もない他者を連れ込み、心身を疲労させる、悪意がないだけにだれも怒れないパターンだ。
「いや、大丈夫です」
「そうかい、残念だな」
いい大人だろうに、そんなに目に見えて落ち込むことはないだろう。なんだか悪いことをしてしまったようで、申し訳ない。どう接していいのか判らずに困っていると、部屋の扉が開いた。
「おつかれさま、サキチ君」
きれいな女の人だ。スーツをきっちり着こなして、長い髪を一つに束ねている。手にはたくさんの資料を抱えていているが、少しも重たそうな気配はしない。
「あの、どなたですか?」
「私の名前は、コウヅキ。いちおう人事部なんだけど、この会社まだ出来たばっかりでしょう?だから人手不足でいろんなことをやってるわ」
「そうですか」
「さっそく本題に入りたいんだけど」
そういうと彼女は俺の座るベッドの横にいたタケノウチさんを強引に退かせ、近くにあった椅子を持ってきて座った。
「君には、是非この会社で働いてもらいたいと思っているの」
真剣な眼差しに、俺はおもわず怯んでしまった。
「あの、でも、この会社のことが正直よくわからないし」
「タケノウチ君から説明があったでしょう」
間髪入れずに言われてしまい、たじたじになってしまう。
「サキチ君さ、さっきのミッションどうだった?」
優しい声で訊かれて、俺は考える。この不可思議な状況を飲み込めずに混乱している自分がいる。だけど、あの”アトラクタの箱”を開ける瞬間、本当に胸がドキドキして
「……楽しかったです」
そう応えると、コウヅキさんはにんまりと笑った。
「そうでしょう、私たちもそうなの。他者の夢の中に入ってなにかするなんてSFチックだけど、それが現実で行えるなんてそれこそ夢みたいでしょう。この技術をもっと発展させて、日本だけじゃなくて、世界の人の役にだって立てるようになるかもしれないわ。それくらい、この潜入システムは将来性があるの」
「僕らも、まだ秘められた可能性のあるこの技術をさらに高めていけたらと思っているんだ。その研究には、君のような子が必要なんだ」
横から、タケノウチさんも加わる。こんなに必要とされることが俺の人生一度でもあっただろうか。俺は今、人生の分岐点にきているかもしれない。
「あの……」
まだ正直、理解できないこともある。でも
「俺、やります」
そういうと、二人はうれしそうに笑った。
「そう、よかったわ」
「君を逃がしたら、きっと上司に怒られてたよ」
コウヅキさんは、俺に一枚の紙を差し出した。
「これ、契約書ね。よく読んで、下のところサインして」
俺は、契約書とともにペンも受け取った。内容を確認すると、特に不自然なことはなかったが
「やっぱりこの仕事のことは、口外しちゃいけないんですか」
「そうなるわね。守秘義務があるから」
「もし、俺がこの会社に入るのを断っていたら、どうしたんですか?」
「ああ、それは……」
ねえ、とコウヅキさんはタケノウチさんと目を合わせて怪しく笑う。
「記憶を取り戻すシステムがあるんだから、ねえ」
タケノウチさんは意味ありげに語尾を濁す。取り戻すことができるなら、その逆、消すこともできるってことか。
「マジで怖いですね」
「もっと怖い話をしてあげようか。僕と同じ研究をしていた技術者がね、時々いなくなるんだ。最初はとっても怖くて消えた奴の身辺を調べたら、どうやらほかの企業のスパイだったみたいで。もちろん、彼らもバカじゃないから随分慎重にやっていたみたいだけど、それでもばれちゃったんだろうな、存在もろとも消え去ったよ。僕ら以外は誰も彼らのことを覚えて……」
「やめてください!」
「はは、怖かったかい? 冗談だよ、冗談」
そういってタケノウチさんは俺の背中を叩くが、その横にいるコウヅキさんは笑っていない。見なかったことにしよう。
「そうだ、親の許可って必要ですよね」
「そうね、高校生は親御さんの許可なしにアルバイトはできないことになっているから。でも大丈夫、データ復旧のアルバイトでも始めたってごまかしちゃいなさい」
それで、いいのか。でもまあ、俺ももう高校生だし、一人の男だ。両親への秘密の一つや二つ、持っていたって大丈夫だろう。そう思いながら、俺は契約書にサインをした。
「はい、ありがとう。じゃあ今日はもう帰っていいわ。」
コウヅキさんは契約書とペンを受け取ると、忙しそうにあたりを片づけはじめた。タケノウチさんも、パソコンに向かい、何かをチェックしている。
「あの」俺は立ち上がると、二人の顔を見た。「これから、よろしくお願いします」深々と頭を下げる。
「こちらこそよろしく、サキチ君」
「ああ、これからがんばってね」
そのときの二人のうれしそうな顔は、今でも忘れられない。
これが、俺の半年前。この日から、俺はただの高校生ではなくなったのだ。
****
週明けの月曜日、休日の気ままな生活から向けだせず少しだけ憂鬱な気持ちで学校へ向かう。季節は初夏だが、時折、まだ肌寒い空気が、おろしたての夏服をまとった体に吹き付ける。学校もだいぶ近づいた頃、少し先を歩く同級生を見つけた。
「おはよう、コバヤシ」
まだ夏ではないのに健康的に日に焼けた彼は、俺が肩をたたくと少しびっくりしたように肩を揺らした。
「おお、サキチ!びっくりしたー」
「そんなに驚くことはないだろう」
同級生のコバヤシ、彼は俺が高校に入ってからできた友人だ。俺よりもほんの少し背が高くて、スポーツマンらしくさわやかな短髪頭だ。
「いや、登校中に後ろから声をかけられるなんてあんまりないからさ」
「あれ、そういえば今日、サッカー部の朝練は?」
コバヤシはいつも、部活動の朝練のために、ほかの生徒よりも早く登校するはずなのに。
「今日は朝練無し!日曜日に他校と練習試合があってさ、みんな疲れただろうって、顧問のタグチ先生が朝練は休みにしてくれたんだ」
「へえ、だから今日はこんなに遅いのか」
話もそこそこに、俺たちは一緒に学校へと歩きはじめた。隣を歩くコバヤシをみると通学鞄とは別にもう一つショルダーバッグを肩に掛けていた。有名なスポーツブランドのロゴが入ったそのバッグは、まあるい形をしている。
中に入っているのは
「それ、サッカーボール?」
「え?ああ、これ?そうだよサッカーボール」
コバヤシは肩に掛けたバッグを軽く叩く。すると小さくポンと鳴った。
「サッカー部ってボール持参なのか?」
「まさか。これは部のみんなに自慢しようと思って……」
そういうとコバヤシは、歩みを止めることなく器用にバッグからサッカーボールを取り出した。
「ほら、ここ見てみ」
差し出されたボールの表面をよく見ると、黒いペンで書き殴られたサインがあった。
「サイン?誰の?」
「わかんねえの?元日本代表のサワダだよ。ほら、フォワードの、八年前のワールドカップに出てただろ」そういわれてみると、見た気がするな。まあ、見たといっても、八年も前じゃ俺も九歳だし、サッカー好きの兄貴の後ろでチラッとだけだけど。「おまえ、その顔だとピンときてねえな?」
「バレた?」
「マジでサワダを知らないなんて、男としてヤバいぜ」
「ほっとけよ。で、なんでコバヤシがサワダのサイン入りボール持ってんの」
訊くと、コバヤシは出したボールをいそいそとしまいながら応える。
「それがさ、俺の兄貴が大学でサッカーやってるんだけど、そのサッカー部のコーチがサワダと高校時代の同期なんだって」
「へえ、おまえのお兄さんもサッカーやってるんだ」
「ああ、兄貴はサッカー推薦で大学いってるんだ。それでさ、その高校時代の同期のよしみで、兄貴の大学にサッカーを教えにきてくれたんだって」
「すごいな、元日本代表に教えてもらえるなんて」
「だろ?それにあのサワダだぜ、うらやましいったらないよ」
あのサワダといわれても、たいして知らないからいまいちピンとこない。
「お兄さんの大学に来たんだろ、見に行ったのか?」
「いや、それがさ、サワダが教えにきたのは昨日なんだよ。俺、さっきもいったように昨日は大事な練習試合で絶対はずせなくてさ……」
コバヤシはがっくりと肩を落として落ち込んでいる。
「それは、お気の毒様」
「だからせめてもの記念として、兄貴に頼んで、ボールにサインしてもらったってわけ」
「なるほど」それがあのボールってわけか。「それで、あのボールを部の仲間に見せびらかすと」
「まあ、そうなるな。見せびらかした上に、ガラス張りのショーケースに入れてさ、我が部の守り神にする予定」
「それは、やりすぎじゃないか?」
サイン入りのピカピカのボールを崇めるサッカー部の連中を想像すると思わず苦笑してしまう。
「おまえはさ、サワダをなにも知らないよな。マジでひくぜ」
「しょうがないだろ、サッカーに興味ないんだから」
「サワダは、サッカーの神様なんだよサッカーしてるやつはみんなサワダに憧れるんだ」
「憧れ?」
「そう、あの素早いドリブルに、正確で冷静なパスワーク、そしてあの天才的な得点力!」コバヤシは声を荒げて、サワダの魅力を熱弁する。「八年前のワールドカップが伝説になっているのもサワダのおかげのようなもんだよ。決勝三点差で相手に負けてる状態のまま後半残り十分。もうサポーターもあきらめかけてた頃に、サワダがやってくれたんだ。十分での逆転は難しいのに、それでもコートの中を全力で走るサワダにファンだけじゃなくて、試合を見てた人、全員が釘付けになったんだ。その気迫に押されたのか、サワダは残り三分までに二ゴールを決めた。もしかしたらいけるんじゃないかって全員が思っただはずだ。でも、残り一点の差は大きくて、結局日本は準優勝。負けて日本に帰ってきたわけだけど、帰国後に待ってたのはバッシングじゃなくて賞賛の嵐だったんだ。勝てる可能性が少なくても、その可能性を捨てず、必死に食らいつくサワダの姿にみんな心を鷲掴みにされたってわけ」
「なるほど」
「それからはもう、伝説のゴールにサワダありってかんじだよ」
熱の冷めきらないコバヤシは、熱くほっとため息をつく。
「でも、なんで俺は知らないんだ?」
「ああ、それはたぶん、サワダがもう引退したからだよ」
「引退? ずいぶん早くないか? 八年前に日本代表だからまだそんな年じゃないだろ」
「それが、ワールドカップの次の年に試合中に大けがしてそれからはもう、だめだったんだ。サッカーができない人生はつらいって二十六歳で引退」
スター選手の輝きは一瞬だったのか。そのあっけなさに俺は声を出せなかった。
「その早すぎる引退のせいで、伝説化してるってところもあるけどな」コバヤシはそういうと、ボールの入ったバッグをそっと撫でる。「今はもう、過去の映像でしか見られないけど、それでも、サワダのプレーを見ると、ああなりたいって思うよ。気持ちがざわざわしてきて体を動かしたくなる。たくさん練習して、サワダになりたいって思うよ」
友人の熱い思いに、俺は驚いた。普段はふざけあって真面目にこんな話をする事がなかったからだ。あれ、でも待てよ。
「コバヤシ、おまえポジションどこだっけ」
そう訊くと、コバヤシは先ほどの熱弁とは裏腹に、か細い声で
「……ゴールキーパー」
と、応えた。
****
そうして、コバヤシとはなしているうちに学校に着いた。その間に何人もの友人と挨拶をかわし、コバヤシとはクラスが違うので教室の前で別れた。教室に入った頃にはもう、ホームルーム開始の五分前だった。急いで席につこうと歩みを早めると、鞄がクラスメイトの机にぶつかってしまった。
「あ、ごめん」
そういうと、クラスメイトは緩く首を振って応えた。目も合わせず顔を伏せていて声も出さないから、少しだけ不審に思ったけど、まあいいだろう。あいつはクラスでもあまり目立たない女子だし、なんせ、同じクラスになってからあいつがしゃべっているのを聞いたことがない。
そんなことを考えながら席につくと、隣の席のハナムラが話しかけてきた。ハナムラは俺と中学から同じの同級生、今はゴテゴテのギャルだけど、昔はクラスの中でも美少女と称されていた。正直言って、高校デビュー失敗だったんじゃないかな。
「おはよう、サキチ」
「はよ」
「ねえ、今日の数学の宿題やってきた?」
「数学?宿題なんか出てたっけ」
「本気で言ってんの?」
大きな目をさらに黒く縁取り、迫力の増した顔を近づけてくる。むせかえるような香水の香りに頭が痛い。
「本気だよ」
「信じられない、もう。今日出席番号であたしが当たるのすっかり忘れてて……」
「自業自得だろ」
「それは、そうだけど……でもあんたもやってないんでしょ。サキチ数学得意じゃん、手伝ってよ。一緒に解こう?」
シャツをちょんとひっぱられて、懇願される。
「そうだな。わかった」
「やった! ラッキー」
そういって笑った顔は、本当に可愛い。そのどぎついメイクがなければだけど。
俺はいそいそと、数学のプリントを出し問題にとりかかる。ホームルームまでに終わらせたい。そう思いながら、ペンを走らせるその横で、ハナムラはストレッチでもするかのように腕を前に伸ばして、じっと手を見ている。
「なあ、ハナムラあのさ……」
「ねえ、このネイルの色可愛いと思う?」
「まあ、可愛いんじゃないか、ピンクで。……それより、宿題やるんじゃ」
「いや、それはサキチがやるんでしょ。あたしはそれを写させてもらうから大丈夫」
あまりの女王様っぷりに、目眩がした。
「大丈夫じゃないだろう」
「あの先生黒板に答え書いて丸つけて終わりなんだから。答えさえ合ってれば大丈夫。理解してるかなんて気にしないわ」
そういうと、ハナムラは鞄のポケットから携帯をとりだした。
「ねえ見て、このストラップ超可愛くない?彼氏にゲーセンで取ってもらったの!」
あまりにも脈絡のない会話に、俺は思わず手を止めた。
「あのなあ」
「ほら見て、可愛いでしょ」
目の前に差し出されるピンクのウサギのマスコットに、少しだけ腹が立った。
「お前、よく今日まで生きながらえたよな」
「なにそれ、どういうこと?」
「そういう性格だと、誰かから恨み買ったっておかしくないぜ」
「そうかな、私は誰かに嫌われてるって考えたことないけど」
「あっそ。いつか刺されても知らないからな」
自分ではその自己中心的な性格に気づいていないんだろうか。でもまあ、相手を気にせずわがままに行動するその自由奔放さは、和を大切にする典型的日本人の俺には少し羨ましい気もするけど。
時計を見るともう、すぐにホームルームが始まってしまう。止めていた手を再び動かし、残りの数問をときにかかった。結局その間、ハナムラはずっと携帯をいじっていた。
****
無事難なく、数学を終えた今日。午後の休み時間を終えて、授業は五時限目に入る。学校の授業で一番憂鬱なのが、五時限目だ。昼食をとり終えた後、絶妙な眠気に襲われながら受ける授業ときたら拷問としか思えない。教室中に重く柔らかい倦怠感がたちこめて、飲み込まれるしかなくなる。ちなみに今日の五時限目は英語だ。”五時限目の英語”というのは、地獄の中の地獄として生徒に恐れられている。というのも、この学校の英語の教師、サカモト先生はふくよかな体と平安美人な顔つきとは裏腹に、生徒には本当に厳しい。サボリはもちろん、居眠りや体調不良で授業を聞いていないとなれば容赦なく宿題、減点、通知票の評価はガン下がりだ。そりゃまっとうな理由であればそれはしょうがないけど、サカモト先生は生徒をひいきする。いくら真面目に授業を受けていても、ハナムラみたいに少しでも目立つような人間であればピシャリと一撃。ほんのすこし目をつぶっただけでアウトだ。それでいて、この先生の授業ときたら心底退屈で、死ぬほどの眠気が襲ってくる。先生が読み上げる英文は、念仏のようで妙なリラックス効果があるのだ。平坦で単調で、悪くいえば退屈。それがこの五時限目にくるのだから、拷問としかいいようがない。俺ももう今学期に入ってから、二回はやられているから、もうこれ以上は、たまったもんじゃない。そう、自分を叱咤激励し今日は、授業に取り組むのである。
教室にいる人間の八割はほぼ脱落し、目を開けたまま眠っているというよりは、目を開けたままかろうじて生きている、といった感じだ。俺ももう、限界に到達しそうだが、これ以上評価を下げられてしまうとヤバいという気持ちで必死に食らいつく。一人で黙々と授業を続けるサカモト先生は、並々ならぬ精神力の持ち主なのか、なんのリアクションもしない生徒を相手に平然としている。見たところ先生はもう五十を過ぎていて、教師生活も長いのだろう。そういえば、結婚指輪をしていないな。この学校は、結婚指輪の着用に規則はないはずだ。現に校長も左手の薬指に、指輪をはめているのを見たことがある。独身なのだろうか。まあ、教師という職業柄、一人での生活には、金銭的には苦労はしないだろう。サイズの合っていない体型隠しの服装で、あまり気を使っている様子はないから、結婚は諦めたのかもしれない。少しだけ白髪の目立つ髪は、ファッションとしではなく、あくまで身だしなみとして染めているに違いない。未婚なのか、それとも過去に結婚していて、離婚したのかってところか。でも、それもすべて俺の想像で、ただの妄想だ。よく考えたら、俺は実際の先生をまったくしらない。先生が自ら話すことはないし、生徒である俺らも、訊こうとは思わないからだ。そう思うと、少しだけ興味が湧いてきた。先生は、どんなことが好きで、どんな生活をして、どんな教師を目指しているんだろう。どんな食べ物が好きで、何色が好きで、
もし”潜入システム”をつかうとしたら、いったいどんな記憶を取り戻そうとするのだろう。
過去の栄光……かつての恋人?実際先生ぐらいの年齢の女性だと、過去の色恋についての依頼が多い。昔の恋人と撮った写真とか、初恋の人と初めていったデートでの思い出の品とか、このくらいの年齢になると過去の恋が急に美しく見えると、前に担当した女性はいってたっけ。先生の場合は、そうだな、……ラブレター? 英語で書かれたラブレターなんてどうだろう。その送り主がきっかけで英語に目覚め、英語の教師になったなんてストーリーは、陳腐なラブコメ映画みたいだけどいいじゃないか。『依頼者、サカモト先生、依頼、昔の恋人からもらったラブレター』うん、悪くない。それじゃあ次は具現化するアイテムだ。基本的な、ハンマーやナイフのほかにもたくさんのツールを必要とするときがある。そのツールは、その依頼人の職業や趣味に関することが多い。医者なら、メスや聴診器。料理人ならフライパンや包丁。定年退職をして日がな一日釣りをしている男の人を担当したときは、釣り竿を使ったっけ。釣り糸を窓の外にひょいと投げて鍵が釣れたときは、さすがに感動したね。先生の場合は、英語の教師だから……英和辞典とか? 英語の教科書とか? 学校の先生だから、チョークとか黒板消しでもいいのかな。黒板消しをパンパン叩いて粉をまき散らしたら暗号が出てくるとか、面白そうじゃん。それで、いざ部屋に潜入すると、真面目な先生のことだから、部屋は教材とか、英語の勉強用のCDやDVDだらけに違いない。俺の趣味からすると綺麗すぎる部屋よりは、物がたくさんあってごちゃごちゃしてる部屋の方がやりがいがあって好きだ、でもゴミ屋敷みたいだとちょっと……
コンコン、と急に机を叩かれた。はっとして顔を上げると、黒板の前にいるサカモト先生がじっとこちらを見ている。
「へ? あっ、あの」
しどろもどろになる俺をよそに先生の眼差しは鋭くなるばかりだ。これは、……まずい。
「あなた、これで三回目ね?」
そう問われると、顔面から血の気が引くのがわかる。口の中が乾いて、声が出ない。
「通知票、楽しみにしておきなさい」
それは、俺にとって死刑宣告のようなものだった。
****
「あれはあんたが返事しないのが悪かったって」
ハナムラが、俺の背中を慰めるそうに撫でる。もう授業は終わり、皆思い思いに放課後を過ごしている中で俺は、人のまばらな教室で今日のことをハナムラにグチっていた。
「ホントに直前までは、こう、必死に授業に取り組んでたんだよ。なのに、ああ、あのタイミングで指名されるなんて」
「しかも、先生は何回もあんたのこと呼んでたから。一、二回目まではまだ許そうって顔してたけど、五回を越えた辺りからはもうね」
「だったら、もっと早く俺を起こしてくれたらよかったのに」
俺が、意識を飛ばしている最中、机をコンコンと叩いたのはハナムラだ。
「それは、自業自得じゃない」
「そうだけど」
それは、言い逃れできない事実だ。でも、マジで落ち込む。
「今回はしょうがなかったって。……あたし、そろそろ帰るけど、あんたは?」
「……バイト」
「あらそう。じゃあ、この失敗を引きずらないよう頑張ってきなさい!」
そういって、背中をばしんと一発叩いたハナムラは、颯爽と教室を出ていった。おそらく、今日も今日とて、彼氏とデートなんだろう。
俺も、バイトいこ。重い体を引きずって、足取り重く、俺は学校を出た。
****
電車を三駅乗り継いで着く、俺のバイト先。町中には、仕事を終えたサラリーマンや、OLたちが足早に帰路を行く。駅へと向かう彼らをかき分け、慣れ親しんだビルへと入っていった。
扉を開けると、早々に俺の顔を見つけたタケさんが、話しかけてきた。
「サキチ君、ちょっとこっちへ」
手招きされ、乱雑に書類が山積みにされたパソコンデスクの前に腰掛けたタケさんの元に向かう。
「なんですか」
「いや、学校お疲れ。今日はどうだった」
「どうだったって、まあ、いろいろありましたけど」
「そうかい、どおりで少し浮かない顔をしてるね」
「ホントにわかってるんですか?」
「そこは置いておこうよ」自分から訊いたくせに置いておくのかよ。「サキチ君に、少し頼みたいことがあって」
「何ですか?仕事じゃなくて?」
「仕事っちゃあ仕事なんだけど」
そういうと、山積みの書類の中から一枚の紙を取りだした。
「この依頼人がね、なんでも家から出られないくらい身体が悪いそうなんだ」
差し出された書類を受け取ると、そこには依頼人の簡単なプロフィールが載っていた。
「ウツギセイジ、七十六歳、結構高齢ですね」
「そうなんだ。いつもなら、依頼人にここに来てもらってカウンセリングをするだろう。どんな記憶を取り戻すのかとか、どんな人なのかとか。でも、この依頼人はそれができなんだ」
「なるほど。でも、ご家族の方はいないんですか?」
いままでも、ここに来られない高齢の依頼人はいたけど、同居している家族が代理として来ているのを見たことがある。
「それが、いないみたいでね。どこかでこの会社の噂を聞きつけて、ハウスキーパーさんに連絡を取ってもらっているみたいなんだ」
七十六歳で同居の家族無しに、ハウスキーパーに面倒をみてもらっているのか。
「それで?」
「ハウスキーパーじゃ心許ないし、ご本人もここに来ることが難しいとなると、僕らが家に直接伺うしかないと思って」
そうなるだろうな。こられないんじゃ仕方がないし。
「それを、俺に?」
「そう、君に行ってもらおうと思っているんだ。ほら、見てごらん。その住所、君の学校の近くだろ」
そういわれて、住所の欄を見ると確かに俺の学校の近くの住所だ。記載されているのは学校の窓から見える高層マンションだ。
「本当にすぐ近くですね」
「そうだろう。だから君に行ってもらおうと思って」
「でも、俺がやってもいいんですか?」
「なんだい、急に消極的になっちゃって」
いくら、実力を付けてきたとはいえ、この業務は本来俺のよう”潜入者”がやることじゃない。
「潜入前のカウンセリングはやったことがないし」
「やったことがなければ、やってみればいい。この会社は、実践で勉強させる教育方針でね」
たしかに、面接に来た人間をいきなり催眠状態にさせて実力をはかる会社だからな。
「一人でですか?」
「もちろん、一人じゃ行けないか?十七歳だろう」
少しだけ、小馬鹿にされたようでムッとする。でも、ここでわざとムカつかせるようなことを言って、相手をやる気にさせるのがタケさんの常用手段だ。
「わかりました」
結局、根負けしてしまった。
「よかった。じゃあ明日早速行ってきてよ。学校は何時に終わる?」
まるで、断られるという想定をしていないタケさんには感服せざるをえない。
「夕方の四時ごろですかね」
「それなら、四時半には依頼人の家に行けるね」
「はい、大丈夫です」
タケさんは、メモ帳にメモを取る。
「じゃあ、四時半にお家に伺うと連絡しておくから、遅れないように。それから」
メモを取り終えると、また書類の山から一枚の紙を取りだし、俺に差し出した。
「ここに依頼人に訊くべきことが全部書いてあるからこの質問の下の欄にちゃんと、メモしてくること。いいね」
そこには、依頼人に関して訊くことがすべてリスト化されて、ずいぶんと分かりやすくなっている。
「これ、いつも使ってるんですか?」
「いいや、この依頼が来たときにね、君にもこの業務を手伝ってもらうことができるんじゃないかと思って、僕が作ったんだ。君がうまく使えたら普段の業務にも採用するよ」
「そうですか」
タケさんが俺を見込んで作ってくれたこの書類に、思わず口角があがる。
「タケさん、ありがとうございます」
「こちらこそ、君にはいつも感謝してるよ。頑張ってね」
そういうと、今日は特別にもう帰っていいといわれた。今日もらった書類を胸に、俺はビルを出た。先ほどよりも少し薄暗くなった町に明かりが灯り始めている。明日、初めての業務に俺はほんの少しだけ緊張していた。
****
翌日、先生の号令ですべての授業が終わるとともに俺は教室を出た。足早に向かうのは昨日渡された資料に書いてある住所、ここの近くでも有数の高層マンションだ。学校を出て徒歩十分。思ったよりも早く着いてしまった。見上げると本当に大きなマンションだ。二十階はあるだろうか。この辺りは決して栄えてるとはいいがたいけど、このマンションのおかげで田舎とは無縁といえそうだ。見るからに普通の人よりもリッチな人間が住むようなマンションで、玄関はオートロック。セキュリティにも抜かりがないらしい。昨日のタケさんの話だと、四時半に訪問の予定だから、五分前に伺うとして、あと十数分。どこかで時間をつぶせるといいんだけど。そう思って辺りを見回してみても、ここらは住宅街だから暇をつぶせるような場所はない。目の前のマンションには中庭がついているみたいだけど、残念ながらマンション入居者専用のものらしい。
しょうがない、ここでじっと待つか。俺はマンションの玄関から少し離れた場所にある、花壇に座った。そこに植えてある草花は、初夏の涼やかな風に心地よさそうに揺れている。夏に向けて日は長くなる一方だが、辺りはもう日暮れの青に染まりかけていた。俺は鞄から音楽プレイヤーを取り出すと、ヘッドフォンを装着する。バイトの初任給で買ったこのゴツいヘッドフォンは大のお気に入りだ。高いだけに、音質が違う。脳味噌まで響きわたる重低音がたまらない。そう思いながら、今個人的にブームの60'sを聴く。ギターの荒削りで鋭い音が、耳に心地いい。その音楽を聴きながらふとすぐそばの玄関に目をやると、ちょうど親子連れが、マンションの中に入るところだった。子供の方は、小学生だろうけどランドセルは背負っておらず、代わりに手持ちの手提げ鞄を重たそうに持っている、習い事の帰りみたいだ。母親の方は小綺麗な服装をしていて、いかにもお金持ちの奥さんといった感じだ。やっぱりこんなに大きなマンションに住むくらいだからそうだよな。お金持ちに決まってる。今日これから会う、依頼人もそうなのだろう。七十六歳でこのマンションに一人暮らし。ハウスキーパーなんて、ドラマでしか見たことない。いったいどんな人物なんだろう。家から出られないってことは、もうだいぶ身体も弱っているに違いない。
しっかり、話を訊けるだろうか。この機におよんで、急に気持ちが萎いできた。大丈夫、俺ならできる。そう自分に言い聞かせながら、俺は目を閉じ、胸をさする。大丈夫、大丈夫。そうしているうちに、音楽は三曲目に入り、いよいよ約束の時間がやってきた。
****
マンションのエントランスに入ると、すぐ右手に、オートロックの玄関がある。ここで部屋番号を押して、用件を伝えれば、中に入れる、と。俺はそっとオートロックに近づき、昨日タケさんに渡された資料を見ながら、間違えないように三桁の部屋番号を押していく。打ち間違えがないか何度も確認して、呼び出しボタンを押す。相手が出たら、会社の名前と、俺の名前と、用件……と、落ち着きなく考えていたら、急に目の前のドアが開いた。
「あれ?」
辺りを見回しても、俺以外の人間はいない。これは、入っていいってことだよな。なんか、シミュレーションしていたことと違うんですけど。いきなりの予定不和に動揺してしまった。急いで、開いた自動ドアは俺が通り抜けると自動的に閉まった。とりあえず、大丈夫だったのだろう。俺はそのまままっすぐ依頼人の待つ部屋へと向かった。
エレベーターに乗り、たどり着いた二十階建てマンションの最上階にその部屋はあった。部屋番号の書かれた扉の横に、インターホンがある。表札はないがおそらくここでいいのだろう。俺は意を決して、インターホンを鳴らした。するとすぐに扉が開いて、中から中年の女性が現れた。
「お待ちしていましたよ」
「はい、あの、俺」
「用件は伺っていますから。さあ、中へどうぞ」
言われるがままに、家に招き入れられた。そのまま挨拶もしないまま、さあ、さあ、とリビングに通されてしまった。
「あの」
「あなたがあの会社の人ね。ずいぶん若いわ」
そうにっこり笑う顔は、人なつっこくて、愛嬌がある。そういえば、俺は高校の制服のままだ。
「すいません。今日は学校の帰りで、制服のまま来てしまいました」
「あら、大丈夫よ。昨日電話があったから」
きっと、タケさんが連絡していてくれたのだろう。
「そうですか。あの、俺、サキチっていいます」
「それも、きいているわ。私はこの家でハウスキーパーをしているカトウといいます」
そう名乗ったこの女性は、ふくよかな身体に優しい笑みを浮かべている。優しい家庭を体現してるかのような素敵な女性だ。
「カトウさんですか。今日はよろしくお願いします」ようやく挨拶をすることができた。「あの、依頼人は……」
「ああ、セイジさんね。あなた、タイミングがいいわ。今日はセイジさんとっても機嫌がいいから」
そういいながら、リビングのすぐ奥にある扉を開ける。
「セイジさん、お客さんが来ましたよ」
部屋へ入るカトウさんの後に付いていく。綺麗な彫刻を施した扉の向こうは、壁一面にすらりと並ぶ巨大な本棚と、老人の眠る真っ白なベッドしかなかった。
「おお、きたか、きたか」
真っ白なベッドに浮かび上がる小さな老人。彼が依頼人のウツギセイジさん、らしい。ずいぶんと具合の悪そうな顔色とは裏腹に、少し高く、張りのある声でしゃべる人だ。
「サキチといいます。今日はよろしくお願いします」
「ああ、待っていたよ。ほう、ずいぶんと若い子がきたもんだ」
さっきも、ハウスキーパーのサトウさんにいわれたばかりだ。あまりに驚かれるものだからなんだか気恥ずかしい。
「あの、早速カウンセリングを行いたいんですけど」
そういいながら、ウツギさんとサトウさんの顔を交互に見る。本当に来て早々だけど、いいんだよな。
「ああ、そうだったな。サトウさん、席を外してくれるかな」
「はい、わかりました。何かあったら呼んでください、リビングにいるので」
そういうと、慣れたようにサトウさんは部屋を出ていった。
「早速、よろしいですか?」
鞄から、タケさんの作ってくれたカウンセリング用紙を取り出す。
「かまわないよ。そこじゃあなんだから、ここに座りなさい」
ウツギさんは、ベッドのそばにあるイスを指す。
「あ、はい、失礼します」
俺はいそいそとベッドに近寄るとそっとイスに腰掛けた。ベッドに横たわるウツギさんのちょうど右隣に座っている。先ほどよりも近くなった距離に、緊張する。
「そんなにかしこまらくても大丈夫さ。取って食ったりしないんだから」
そういって、恰幅よく笑うウツギさんは思っていたよりもずいぶんと若々しく感じる。
「さっそく始めさせていただきます」
「どうぞ」
俺は手に持ったカウンセリング用紙に目を落とす。
「まず、簡単なプロフィールからお伺いします」
「プロフィール?」
聴き慣れない言葉なのか、首を傾げてしまったウツギさん。まさか、これがジェネレーションギャップという奴か?
「そうですね、……経歴みたいなものです」
「ほう、そうか」
わかっているのかわかっていないのかよくわからないけど先に進めよう。
「お名前は?」
「ウツギセイジだ」
一文字一文字を区切るように声に出すウツギさん。それに答えるように一字づつ用紙に記入していく。
「年齢は?」
「七十六歳」
七十六歳……と。
「次にですね、取り戻したい記憶のことなんですけど」
いよいよ本題だ。いったいウツギさんはなんの記憶を取り戻したいのだろう。
「原稿、私の書いた小説の原稿だ」
その言葉が発せられたとき、先ほどまでのにこやかな雰囲気から一転し、急に目つきが鋭くなったような気がする。
「小説、ですか?」
「そうだ、ウツギセイジ、きいたことないかね」
そういわれて、ふと考え込む。ウツギセイジという名前に聞き覚えは……ない。この名前を知ったのはつい昨日のことだ。
「……すいません」
「なに、かまわないよ。こう見えても私はね、大昔に小説家をやっていたんだ」
「そうだったんですか」
目の前の人物が小説家だったと知ると、この本だらけの部屋にも納得がいく。
「作家としてデビューしたての頃に一回だけ、大きな賞を取ったことがあるんだ。私はデビューまでにずいぶん時間がかかってね、そりゃもういろんな苦労をしたさ。自分のすばらしい作品がなぜ世に評価されないのかって、ずっと苦しんでいたんだ。だから受賞が決まったときは、それはもう、本当にうれしかったよ、自分の作品が世間に認められたんだから」
そう、目を細めて昔を懐かしむウツギさん。その目尻に走る深い皺に彼の過ごした長い年月がみてとれる。
「それはすごいですね」
「本当に凄かったよ。本は飛ぶように売れたし、執筆の依頼も山のようにきて、それは夢のようだった。でもまあ、栄光は長く続かないものさ。受賞後に出した作品で期待してくれていた読者を裏切り、大勢の人を落胆させてしまった。そこから、地の底に落ちるまでは本当に早かったよ」
「……」
「あっという間に僕は筆を折ったんだ。情けないことにね」
その口調には、ほんの少しだけ濁りがあった。悔しさからなのか、自分に対する怒りからなのかは、わからない。
「それで、依頼の原稿というのは」
「実は、その賞を受賞した後に出した小説のほかにもう一作、あるんだ。私の書き上げた傑作だったんだけど、周りから猛反発されてね。結局それはお蔵入り、その後だした作品がああだから、そのまま僕は小説家をやめざる終えなかった。だが、最近になってそのことを思い出してね。”もしあの作品の方を出していたら、私の人生はどうなっていただろう”ってふと思ったんだ。たしか、捨ててはいないはずだから、どこかにはあるんだろうとは思うんだけど、探そうと思ってもなかなかそうはいかなくてね」
そういうと、ウツギさんは掛け布団に覆われた足をもぞもぞと動かす。
「この通り、もうだいぶガタがきていて、思うように動かないんだ」
その間も、ずっと足を動かしていたが、俺にはかすかな絹擦れしか聞こえなかった。
「そうですか、わかりました。取り戻したい記憶は”小説の原稿”でいいですか」
「ああ、頼むよ」
俺は、また用紙に書き込んでいく。
「ちなみに、何年くらい前に書かれたものかわかりますか?」
「そうだなあ、……ちょっとそこの本棚にある本を取ってくれるかな」
そういわれて、指をさされた方を見るとそこには本がめいっぱいに詰められた大きな本棚がある。
「ちょっと待ってください。どのあたりですか」
俺はイスから立ち上がり、ベッドから少し離れたところにある本棚へ向かう。
「そこの一等大きな本棚の一番上の段に、ウツギセイジの本があるだろう」
いわれてみると、たしかにウツギセイジ名義の本が並んでいる。一方は青い背表紙でタイトルは”青の憧れ”、もう一方は黄色の背表紙で”黄の香り”
「二冊ありますけどどっちですか」
「ええと、青い表紙のやつだ」
指定された通り、青い表紙の本を持ち出す。かなり日に焼けていて、紙は茶色く変色している。
「これですか?」
「おお、そうだ。その本が出版された半年後に書き上げたと記憶しているんだが……」
本を開き、後ろのページにある出版日を調べる。
「今から三十三年前ですね」
「そうか、もうそんなに経ったか」
寂しげな声が耳に入ってきた。俺は本をそっと本棚に戻し、またイスに腰掛ける。
「三十三年前に書かれた小説の原稿でいいですか?」
「それでいい」
確認を終えたところで先ほど書いたところに三十三年前と書き足す。
「では、次の質問に入ります。前職はなんでしたか?」
「……それは、記憶を取り戻すことと何か関係があるのかい?」
キツい口調で云われてしまい怯んでしまう。
「あ、あのですね、記憶を探す過程で必要なんです。その当時、ウツギさんが目にしていたもの、好きだったもの、普段から使っていたものなどを手がかりに探していくんです」
「そうか、手がかりがないとそりゃ捜索は大変だろうね。私は四十四歳で作家をやめた後は、いわゆる高等遊民といやつでね、とくに働いたりはしていないんだ」
高等遊民、いつか国語の授業できいた言葉だ。日本の有名な文学小説の主人公が高等遊民だと教わった気がする。
「僕には一応印税というものがあったしね、実家も裕福だったから日がな一日読書をして暮らしていたよ」
そう語るウツギさんはやはり、一般人とはかけ離れた生活を送っているようだ。
「読書が趣味なんですか?」
「趣味というか、それぐらいにか興味がなくなっていてね。ほとんど病気さ」
笑ったその顔は、ひどく弱々しく見える。
「……それでは、質問は以上です」
「そうか、ずいぶん無駄な話もしてしまってすまなかったね」
「いえ、とんでもないです。あの、帰る前に少しだけこのお部屋見ていってもいいですか?」
「ああ、かまわないよ」
そう許可を取った後で、俺は荷物をまとめ席を立つ。ウツギさんの夢に潜入したときに始めにくるのはきっとこの部屋だ。だから、ここの様子を少しでも覚えて実践に生かせたらと思う。
ここの部屋はずいぶんと広いけど置いてあるのは、本棚とベッドだけだ。そのほかにはなにもない、とてもシンプル部屋だ。せっかくの高層マンションなのに、窓はカーテンで覆われている。とりあえず俺は手近な本棚から観察する。ぎっしり詰まった本の背表紙を見ると、古今東西、あらゆる本が置かれているのがわかる。~殺人事件と銘打たれた探偵小説から、ぱっとみただけでわかるピンクの背表紙の恋愛小説。どこの言葉かわからない外国のほんまでもがその本棚に詰められている。
「きみ、本が好きなのかい?」
ずっと俺の様子をベッドから眺めていたウツギさんが声をかけてきた。
「え、そうですねえ、好きと云えば好きですし、嫌いと云えば……なんともいえません」
「そうかい、ずいぶん熱心に眺めているようだから、私の本に興味があるのかと思ったよ」
「まあ、興味があると云えばあるんですけど、これも調査の一環で」
「ほお、なるほど。そういうことか」
感心したようにうなずくウツギさん。
「ずいぶんいろんな本があるんですね」
「そうだろう、なんせ本を読むために生きてきたようなものだからね」
その言葉にはなんの偽りもない。本当に本だけを読んで生きてきたのだろう。
「外国語の本もたくさんありますけど」
「昔は本を読むために、外国語を覚えることもあったからね」
「本当ですか!それはすごい」
読書好き、ここに極まれりといったところか。
「でも、今はもうさっぱり。目を悪くしてからは文字を読むことが苦痛でね、本も新聞も読めたもんじゃない」
捨て吐くような言い方に、ウツギさんのつらさを感じる。
「じゃあ今は」
「毎日ベッドに横たわって、大昔の栄光を思い出すだけだ」
それっきり、ウツギさんは黙り込んでしまった。その間に俺は部屋全体を把握し終えた。
「ウツギさん、そろそろ失礼します」
そう声をかけたが返事がない。不信におもってベッドに横たわるウツギさんの顔をのぞき込むと、ウツギさんは目を閉じ、小さな寝息をたてていた。起こすのはまずいだろう、そう思って俺はそっと部屋を出た。
****
「カトウさん」
扉を開けたその向こうでハウスキーパーのカトウさんは、リビングにあるソファの上で雑誌を読んでいた。
「あら、終わったの?」
「ええ、終わりましたよ」
「そう、よかったわ、セイジさん機嫌よかったでしょ」
「いえ、普段をよく知らないのでわからないんですけど。でも、終わった後少し疲れたみたいで、寝てしまいました」
「この家には、あまりお客さんこないからね。私以外の人と話すのも久しぶりだから疲れたのね」
「そうなのかも知れません。それで、あまりにぐっすり寝ているから、起こすのは忍びなかったので、申し訳ないんですけどカトウさんから一言お伝えねがえますか」
「ええ、かまわないわ。」
「ありがとうございます。それじゃあ、失礼します」
カトウさんにお礼を言うと、俺はウツギ邸を出た。
またエレベーターに乗り、エントランスを抜け、ようやく外に出たところで、どっと疲れが全身をおそった。とりあえず、問題を起こすことなく初の業務を終えることができた。俺を見込んで教育をしてくれるタケさんの顔にも泥を塗らずに済んだってわけだ。
「はあ、よかった」
口から出たのは、空気の抜けるような情けない声だった。
****
明くる日、俺は学校を終えてすぐに会社へとやってきた。タケさんに早く報告したいという一心だ。
慣れたようにオフィスのドアを開けると、いつものように渦高く書類の積まれたパソコンデスクにでタケさんが忙しそうに作業しているのが見えた。
「タケさん、お疲れさまです」
近づいても俺に気づかないほど集中しているようだったから、驚かせないように静かにあいさつをする。
「お、サキチ君。学校、お疲れ」
タケさんは、せわしなく動いていた手を止めて俺の方に向きなおる。
「すいません、忙しいところ」
「いや、かまわないよ。それより昨日はどうだった」
「はい、これ、持ってきました」
俺は鞄から、書類を取り出し、タケさんに渡した。
「うん、よくできたね。上出来、上出来」書類を見ながら、タケさんはパソコンに何かを打ち込んでいる。「それで、どうだった君の方は」
「そりゃもう、すんごく緊張しました」
「はは、そうかい。でもいい経験だったろう?」
「ええ、凄い神経使いましたけど、終わった後は、やっぱり達成感がありました。自分でも成長したな、と思います」
「よかったな。依頼者のハウスキーパーさんも君のことを褒めていたよ。若いのにとてもよくできた子だって」
「電話したんですか?」
「いや、昨日お家に伺ったんだ。君の帰った後にね」
「え?」俺が帰った後に、あの家に行った? 「それ、どういうことですか?」
「どういうことって、そのままだよ。君帰った後に、あのお家に行って依頼者の脳波を測ってきたんだ」
「脳波……あ、そうか、脳波か」そりゃ、脳波を測らなきゃ潜入できないじゃないか。というか、「二度手間じゃないですか。俺が行った後に行くんじゃなくて、せめて一緒に行くとか、それこそタケさん一人でできたじゃないですか」
「それはまあ、そうだけど。でも今回は君のさらなる成長のために与えた課題だからね。”初めての一人でお宅訪問&カウンセリング”はじめてのおつかいみたいで楽しかっただろう」
「いや、楽しくないですから」
「おや、そうだったかな。でも、君の後に行ったのは、君がもし失敗して、相手様にご迷惑をかけてもすぐにフォローに回れるようにって意味もあったんだ」
そうか、そういうこともあったのか。
「すいません、心配させてしまったみたいで」
「いやいや、そんなことないよ。君はずいぶん優秀にやってくれたみたいだし。それに、僕らが行ったときに依頼人はぐっすり夢の中だった。君のカウンセリング中に眠ってしまったんだってね。おかげで、脳波を測るのもスムーズにいって、本当によかったよ」それは別に、ウツギさんが勝手に寝てしまっただけだけど。「とにかく、君の働きは僕らの想像以上だったってことさ。本当によく頑張ったね」
そういって、褒めてくれるタケさんに思わず笑みがこぼれる。
「ありがとうございます。俺、この仕事を任せてくれたタケさんの顔に泥を塗るわけにはいかないって思いながら頑張りました」
「本当に君は優秀だね」
感心したようにつぶやくタケさんにすこしだけ誇らしい気持ちになった。
「それで、今日はどうすればいいですか」
「カウンセリングも、脳波のデータ解析も終わっているから、潜入しようと思えばすぐにでもできる状態だよ」
俺は、できるだけ昨日見たあの部屋の状態を覚えているうちにと思っていた。
「俺、やりたいです」
「じゃあ今からやるか。準備するから先に部屋に行っててくれるか?たぶんコウヅキさんがいるから脳波計のセッティング手伝ってもらって」
「はい、わかりました」
タケさんは、すっと立ち上がると足早に別の部屋へ行った。それを見送ってから俺はコウヅキさんのもとへと向かった。
****
「おつかれさまです」
いつも潜入に使われている部屋の扉を開けると、タケさんの行った通りコウヅキさんが一人で作業をしていた。
「あら、サキチ君おつかれ。話聞いたわよ、昨日の初カウンセリング上手くいったみたいじゃない。上の人が褒めてたわ」
いままで、褒められる経験が少なかったから少し恥ずかしい。
「ありがとうございます」
「今日はもう、潜入捜査に入るのね」
「はい」
「わかった、タケノウチは?」
「すぐに、来るそうです。すぐに始められるように準備しておけって」
「わかったわ」
そうして、俺はベッドに座り、脳波計のセットを始めようとした。しかし、いつもならベッドのすぐそばに置いてある脳波計が見あたらない。
「コウヅキさん、脳波計は?」
「ああ、そのことなんだけど」
そう含みのある言葉をいい、イスから立ち上がったコウヅキさんは見覚えのないヘッドフォンを掲げた。
「なんですか、それ」
「実はね、ヘッドフォンを改造して作ったの。今まではたくさんのコード類にまみれながらやってたけど、そんなのスマートじゃないからね。脳波計もその他もろもろも全部ヘッドフォンにしまってやったわ」
「す、すごいですね」
その技術力に、感動してしまった。
「あまり私をなめない方がいいわよ。人事兼、経理兼、広報兼、技術兼、その他雑用を担う私をもっと敬ってほしいわ」そうため息をつきながら、コウヅキさんはベッドに座る俺に近づいてくる。「そういえば、この前いってた、長時間つけてると耳が痛くなるってやつ、あれも改善していたから」
「ありがとうございます」
手渡されたヘッドフォンは、以前のものと比べて重さはほとんど変わっていない。耳に当たるクッションの部分がドーム型になっていて、耳をつぶさずに覆ってくれるようだ。本当にコウヅキさん様様だ。つけてみると、耳を圧迫されず心地いい。それに、コードもないから快適だ。
「つけた感じちょっと見せてね」
そういってコウヅキさんは俺の顔あたりに近づいて観察を始めた。近くなった距離に、甘い香水の香りと、ほのかな体温を感じる。あまり、じろじろみないでほしい。性格は男前だけど、マジで美人なコウヅキさんに近寄られると本当にドキドキする。
「あの、もう」
「いいわ、ありがとう」
ようやく離れたその距離に、内心ほっとした。あとちょっとでも長かったらマジでやばかった。
そうしてドギマギしていると、ガチャリと扉が開き、タケさんが入ってきた。
「準備できたかい? あれ、ヘッドフォン変えた?」
「私が作ったの。脳波計とか全部あの中にはいってるわ」
「へえ、凄いな。ちゃんと使えるのか?」
「もちろん、実験済みだから使えるわ」
へえ、と関心深そうに俺の頭に着いたヘッドフォンを眺める。
「じゃあ、始めようか」それを合図に、皆位置につく。タケさんは僕とコウヅキさんに、紙を渡していった。その紙には今日の潜入について事細かに書かれている。
「依頼者はウツギセイジ、元小説家、七十六歳。依頼は三十三年前に書かれた小説の原稿の在処だ」
「三十三年前? ずいぶん古いわね」
「今まで経験した中でもかなり古いのは間違いない。でも、古くても問題ないよ。脳は一度見たものは忘れない。僕ら人間は忘れているんじゃなくて、思い出せないだけだから」そうだ、記憶は消えたりしない。それを思い出せないだけで、記憶は脳の中にとどまり続けている。「サキチ君、今日はどういうプランで行くかい?」
「今日は一部屋だけにしたいと思っています。まずは一部屋こなして様子を見たいです」
「わかった。じゃあ始めようか」
俺は、ベッドに横になり目をつぶる。できるだけよけいなとを考えないように、呼吸を一定にしていく。そのうちに、ヘッドフォンから音楽が流れ始め、俺はウツギセイジの夢の中へと落ちてゆく。
****
目を開けると、ウツギセイジの自室にきていた。昨日じっくりと見てまわった本棚はそのままに、変わっているのは、部屋に置かれた白いベッドにウツギセイジがいないことと、そのベッドの上に、真っ黒く大きな箱”アトラクタの箱”が置かれていることだ。見た感じ、この部屋のどこにも鍵がある様子はない。この夢は、アトラクタの箱を開けて記憶のピース集めるたびにどんどんと忘れてしまった古い記憶に近づくことができる。最初に潜入する部屋は一番新しい記憶だ、それ故に鍵も探しやすい、はずだが、今回は分かりやすいところには置いてないみたいだな。
とりあえず、俺はベッドに近づく。主のいないベッドは無機質な真っ黒の箱に占領されている。掛け布団をめくると、そこにはなにもなかった。
「まあ、そう簡単にはいかないよな」
一人苦笑して、辺りを見回す。探すとしたら本棚だよな。俺は一番大きな本棚に近づく。昨日はたしかここに、ウツギセイジの本が並んでいたはずだ。見るとやはり昨日と同じ並びで本が置いてある。青い背表紙の”青の憧れ”、黄色い背表紙の”黄の香り”。……その二冊を目で追うとその隣に、さらにもう一冊、黒い背表紙の本が並んでいた。作者名は無く、タイトルは……”黒の四角”。俺はその本を手に取った。手に持ってみると、普通の本よりも幾分軽い。中身が詰まっていないようだ。表紙をめくると、中はやはり空洞になっていて、アトラクタの箱と同じ、真っ黒な鍵が入っていた。
「ふふ、楽勝」
まるで、へそくりを隠すような仕掛けで思わず笑ってしまう。用のなくなった本を棚に戻し、俺はベッドに近づく。
アトラクタの箱に鍵を差し込む。この鍵を回す瞬間はいつも、ドキドキする。右に回すと、箱はカチリと、音を立てた。ふたを開けると、パズルのピースが入っていた。
---ミッション終了
慣れたこの声に、俺は目を閉じる。グイ現実に引き戻される感覚を全身で味わいながら、俺は意識を手放した。
****
「ずいぶん、早かったわね」
目を覚ますと、ベッドに横たわる俺のすぐ横にコウヅキさんがいた。
「まあ、最初ですからこんなものですよ」
「頼もしいわね」
「サキチ君、どうだった?」
タケさんは、俺から少し離れたところにあるパソコンデスクから声をかけてくる。
「かなり楽勝でしたね。ウツギさんの部屋は、ベッドと本棚以外にものがないので、鍵を探せる場所は限られますから」
「なるほど、じゃああまり手こずることはなさそうだね」
「はい」
かなり古い記憶ということで、若干の不安はあったけど、かなり手応えがあった。意外とスムーズに事は運ぶかも知れない。
「はい、ヘッドフォン回収するわね」横にいたコウヅキさんは、俺の頭からヘッドフォンを抜き去った。「どう? 耳、痛くない?」
「長い時間つけていたわけじゃないので、わからないですけど、今のところはとても快適です」
「そう、よかったわ」そういうと、コウヅキさんはうれしそうにほほえみながらタケさんのパソコンをのぞきにいった。「どう? ちゃんと測れてる?」
「ええ、大丈夫みたいですよ。これからはそのヘッドフォンが活躍しそうですね」
「そしたら、開発した私にボーナスでもくれるかしら」
冗談っぽくいっているが、内心はどうだろうか。
「じゃあ、今日はこれで終わろうか」
タケさんは、パソコンの電源を落とすと立ち上がった。
「はい、わかりました」
「じゃあ、また明日頑張ってね」
コウヅキさんは俺に手を振って部屋を出ていった。
「サキチ君、明日もよろしくね」
タケさんもその後に次いで、部屋を出ていく。
「はい、お疲れさまでした」
頭を下げて、あいさつを終えると俺は身支度を整える。今日みたいな調子でいけば、超楽勝なミッションなんだけど、そうはいかないんだろうな。
****
ビルを出ると、日が沈む前の町はずいぶんとにぎやかだった。様々な人が行き交う駅に俺は向かう。すれ違う人は、皆見た目に職業を持っている。スーツを着たサラリーマン、オフィスカジュアルなファッションのOL、着崩した制服の高校生、買い物袋をかごに入れ自転車に乗る主婦。
その間をかき分け進む俺も、周りから見たらただの高校生に違いない。