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翌朝離れに蔓がやってきたとき、既に創平は目を覚ましていた。驚くべきことに、彼は自ら進んで和装を選び、黙々と着付けしていたのである。というのも、創平は和装が好きではない。一度だけ、彼が養子縁組を結んだ際に三代目に薦められて無理やり着せられたことがあったが、それ以降は頑として袖を通さなかった。
白い襦袢をようやく身につけたところで、ふと創平は呆けている蔓に気がついた。
「あ、おはようございます」
「おはよう……どうしたの、それ」
「ああ」
ええと、と創平は困ったような口ぶりで答える。「三代目にお話が……」
「いつもはスーツでしょう?」
「あ、いや。それもそうなんですけど。事情が事情なので」
蔓にはあまり言いたくない用事があるらしかった。事情ってなんだ、とは思いつつも、蔓は足元に落ちていた帯をそっと拾い上げる。
蔓は背の高い男である。そもそも佼輔が連れている使用人一同の平均身長は、創平の身長一七五センチメートルをゆうに超えている訳だが、蔓はその中でもかなり高い部類に当てはまる。佼輔の方が背は高いけれど、創平を相手にするくらいなら充分足りる。
「創平君、はい、後ろ向いて」
襦袢は綺麗に着られたようだが、この次はそうはいかないだろう。壁にかけられた紺色の着物を横目に、思わずため息をついた。
「すみません、蔓さん……お手数おかけして」
「いいよ、別に。それより体調はどうなんだ?」
ちょっとだけだるいです、とは言っておいたが、その他はものすごく悪いという訳ではなさそうだ。ふと目を向けると、彼の左手首の痣が微かに蒼く瞬いて見えた。
それを見てなんとなく、蔓は創平の言わんとすることが理解できたような気がした。
彼はこの財団においてかなり特殊な位置づけにある。そんな彼が通常業務以外で直々に動き出したということは、
「――『隻影』か」
ぽつりと蔓の言い放った一言に、創平の肩がぴくりと震えた。こういうところで嘘がつけないのも、彼の欠点だ。のろのろと創平は背後の蔓に目を向け、心底困り果てたように苦笑する。
「佼輔さんには、内緒ですよ」
まだ四代目には話していないのだ、この件に関しては。
ふぅ、と呆れ混じりの溜息をつきながら、
「あまり無理されるとこっちが困るんだけど。ただでさえ君は、芦田家とはまた別の厄介な性質を持っているんだからさ」
「あはは、気をつけます」
そう言ったところで、帯が締められた。ところどころに寄ってしまった布地を丁寧に直し、蔓はひとつ彼の背中を叩く。
「ほい、完成。早く行っておいで。三代目、今日は午後から河東のところに向かう予定だから」
「はい」
ありがとうございます、と一言礼を言うと、若干ふらふらする足取りで創平は離れから出ていこうとする。――が、そこで一旦足を止めた。
蔓さん、と名を呼ぶと、後ろで見守っていた佼輔の従者はピクリと眉を持ち上げる。
「万が一おれが戻らなかったら……、佼輔さんをよろしくお願いします」
不可解な言葉に、蔓は意味を問い質そうとした。だがそれを遮るように、創平は部屋を出ていってしまった。一度も振り返らずに。
ざらつく壁に手を触れながら、三代目がいる母屋へと向かう。創平の脳裏には、昨夜の円の表情がちらついていた。
――あの『詞喰鬼』が、初めて泣いた。
現実に涙を流した訳ではないけれど、あの時の円は何かに怯え泣いていた。あの鬼は長く生き過ぎた。だから涙の流し方なんか、とうの昔に忘れてしまったのかもしれない。
時間の流れとは残酷なものだ。創平は思う。本来、人間と妖怪が交わることはない――それは、彼らの間に流れている時間の速度が異なるからだ。どんなに親しくしていようが、確実に人間のほうが先にいなくなる。あの詞喰鬼はそれでも一〇〇年待った。一世紀も待てたのは、よほどその人間に執着していて――
そこまで考えて、創平はぴたりと立ち止まった。
「……考えるの、よそう」
頭の中が混乱してきた。
自分で言うのもなんだが、この一件のことを考えるとむかむかしてくるのだ。別にどうってことない鬼の戯言。それで済むはずなのに、なんだか気持ちが落ち着かない。
もう少し、落ち着いてから考えるとしよう。
自分の考えに納得したところで、清和の自室に辿り着いた。通常この時間帯ならば、ここで食後の茶を楽しんでいるはずなのだ。襖の向こうにそっと声をかけると、案の定、清和は自分で茶を淹れているところだった。
「創平か。どうした、そんな恰好で」
珍しい、と真顔のまま茶化されたので、創平は内心「やっぱり無理するんじゃなかったかなぁ……」と後悔しつつ、そっと部屋に上がり込んだ。
「おはようございます、三代目」
早くからすみません、と付け加えると、清和は微かに首を横に振った。
「その、三代目っていうのはいつ直してくれるんだ?」
その指摘は縁組を結んだときから言われ続けていることだ。創平は単に仕事の話をしにきたからそう言っているだけなのだが、本人はそれが不服らしかった。……まぁ、創平が彼のところにやってくるのはほぼ仕事の時だけなので、それ以外の呼称で呼んだ試しがないということなのだが。
創平が口ごもっていると、清和はもう一つ湯呑を出してきて自分のものと同じように茶を淹れてきた。創平の前に差し出されたほうじ茶は、豊かな香りとともにふわりと湯気を立ち昇らせている。創平はこの香りが好きだった。
「あ、ありがとうございます」
それで? と清和が問う。
「体調の方はどうだ」
「まぁ……はい。悪くはないです。御心配をおかけして、申し訳ありませんでした」
「いい、いい。元気ならそれで」
あまり顔色は良くないが、と付け加えたところで、清和は己の座布団に腰かけた。
「……三代目。折り入ってお話がございます」
創平がゆっくりとした口調で言うと、目の前の清和は湯呑に口を付け、僅かに喉を潤す。
「『隻影』か?」
「はい。御存知で?」
「お前がわざわざ口を挟むことと言ったら、それしかなかろう。篠宮から聞いたんだな」
「具体的には、円からの方が正解ですが」
苦笑しつつ、創平も茶に口を付けた。少し冷えた身体には、この温かさはちょうどいい。胃が温まったことで、大分気持ちが楽になった。
「……おれに、『鬼火』を使わせてください」
だからだろうか、思っていたことをすんなりと口にすることができた。
清和はそんなストレートな一言に一瞬顔をしかめたが、すぐに元の無表情へと戻る。
「遙は知っているのか?」
「昨日、円と相談して決めた結果です。本当は……円は、嫌だと思うのですが、最終的に、おれに任せると言ってくれました」
三代目、と創平が彼の名を呼ぶ。「円がおれに『鬼火』を使わせることを嫌がっている理由を御存知ですか?」
「いや、……お前が心配なのではなく?」
「厳密には違います。あの鬼は、初代芦田團十郎の最期を間近で見てきたから……二の舞にはさせたくないというだけです」
そこで創平は、昨夜円から聞いた初代の話を清和に簡単に説明した。円の予想通り、清和は二代目・泰守からはその件についてはあまり聞かされておらず、瞠目しながらも創平の言葉に耳を傾けてくれた。
絶対に、これだけは伝えておくべきだと思っていたのだ。円は今後、この話を他の誰にも話しはしないだろう。それを直感したからこそ、敢えて清和には聞いてもらおうと思った。そうでなければ、我々芦田財団はまた同じ過ちを繰り返す。そうすることで辛い思いをするのは円だ。
大方話し終えたところで、清和は首を縦に動かした。
「創平。お前の話は分かった。それでもやるのか」
「はい」
迷わず創平は返事した。「これはおれにしかできないことです」
そうか、と短く返事したきり、清和は口を閉ざしてしまった。温んでしまった茶を一気に腹に流し込み、ふっと息を吐く。それからまた、長い沈黙が訪れた。
創平はしばらく己の湯呑の中で温んでいく茶を眺めていた。自分が微かに動く度に揺れ動く水面に、歪んだ己の顔が映っている。我ながら、ひどい顔をしていると思った。
しばらく黙ったままでいると、唐突に清和が立ちあがった。
「創平。外出できそうか」
「え? あ、はい。でもおれ、まだ謹慎中……」
「付き合え。今から河東のところに向かう」