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二人して布団に身体を投げ出して、ぼんやりと天井を見上げれば、綺麗に揃った木目がただじっとこちらを見下ろしている。
「――容赦なく喰いやがって」
創平がぽつりと囁いた。そして、己の左腕を気だるげに持ちあげる。宙に伸びる腕は、手首の部分だけ青白い光が灯っていた。ようやく『鬼火』が再び燃えてきたようだ。今回の消耗の激しさを突きつけられたようで、なんだか言葉にできないやるせなさがこみ上げてくる。ぴくりと眉間に皺が寄るも、すぐにその力が緩んだ。
「御馳走様でした」
円が掠れた声で返答する。「火、付いただろ」
「ああ、うん」
ようやくね、と創平が頷いた。現在の不幸の根源は、詞喰鬼による捕食行動なのだった。もしや、とは思っていたが、本当にそうだとは……。創平は、円に対する己の認識をもう少し改めてやらねば、と心の中で力強く頷いた。
そんな彼の隣で天井を眺めていた円は、紅い瞳をゆっくりと閉じる。失態だ、と胸の奥底でもう一人の自分が頭を抱えていた。
直前に清和と話してきたからいけなかったのか。思考がじりじりと焦げるような痛みがあって、訳が分からないままに創平の頭の中をかっ食らった気がする。気がする、というのはそのままの意味だ。我を忘れていた、そのせいで加減という二文字が己の行動からすっぽ抜けていたのだから。
ふと、衣擦れの音が聞こえた。目を開けると、横でぐったりとしていたはずの創平が円を見下ろしている。何か言いたげに、じっと目を細めていた。
「……どうした」
「あのさぁ、円。お前は、どうして初代と契約しようなんて思ったんだ?」
本当はずっと聞こうと思っていたんだ、と彼は言う。
確かに、この鬼とは六年ほどの付き合いになるが、そのあたりの話はとんと耳にしない。創平自身が聞かなかった、ということもあるが、前の契約者である三代目や、専属秘書だった篠宮からも聞いたことがない。
言わなかったっけ、と円が尋ねるので、創平は無言で首を動かした。
「本来、人間と妖怪は交わらないものだろ」
「創平君。それ、誰の入れ知恵?」
「そういう本が閉架書庫の中に混ざっていた。違うのか」
あ、そう、と円はそっぽを向いてしまった。それっきり、口を閉ざしている。
「……、なんか、ごめん。変なこと聞いた」
聞いてはいけないことだったろうか、と創平は突然思い直したらしい。しゅんと肩を竦め、低い声で謝罪した。
仄暗い部屋、彼の『鬼火』が唯一の明かりで。青白く照らされた光が、彼の頬を滑る。
「……あいつがしつこかったからだ」
先に沈黙を破ったのは、円だった。
創平がのろのろと顔を上げると、円もゆっくりと己の上体を起こした。
「あいつって……初代のこと?」
「ああ。芦田喜平治團十郎が本名……って、これくらいは知ってるだろ。自分の曾爺さんのことだもんな」
円曰く。
当時の初代團十郎は、父がこの地域一帯を管轄する大地主だっただけあり、なかなかに裕福な暮らしをしていたらしい。だが、彼は当時の芦田家の中ではただひとりの見鬼だった。おかげで、幼少の頃から親戚・果てには実父にも「気味が悪い」と疎まれ、離れにひとりで暮らしていたらしい。だが、團十郎はそんな自分に決して悲観しなかった。むしろ、十代を半ばにする頃には現代で言うところの「オカルトマニア」へと成長し、よく離れを抜け出しては妖怪を追いかけまわしていたそうだ。
妖怪大辞典を作ろう。これが若い頃の野望だったそうな。
なんだそれ、とがっくりと肩を落とした創平に、円はニヤニヤと笑いかける。
「今の芦田の連中に繋がるところがあるだろ。変なところで凝り性っつーか」
「その辺は否定できない……。ま、円も追いかけられたの?」
「うーん。実際に追いかけられた訳じゃないけど」
その頃、円はとある神社の御神木に棲みついていた。この神社には古くから遺された上質の書物が数多く納められており、生活するにはうってつけの場所だったのである。幸い、神木に宿る咲耶という名の女神とは気が合ったので、なにひとつ揉めることなく、それはそれは呑気に過ごしていたのだそうだ。
「咲耶? ……ああ、桜のことか。本当にそんな名前なんだ」
創平は頷く。「そりゃあ、住み心地がよさそうだ」
「人間には堪えるだろうよ。で、のんびり暮らしているところに、あの男がやってきた」
最初は、紙と筆を持った変な男がやってきた、と思ったらしい。ちょうど桜も見頃だったので、もしかしたら絵でも描きに来たのだろうか。どうせ人間には視えるはずがないので、円はそのまま木の根元で昼寝を始めた。
それを視て驚いたのは團十郎である。なにか人外のものが堂々と居眠りをしているとは。普段妖怪を追いかけすぎて、彼の元にはそういう類のものが近寄らなくなっていたというのに、この鬼は気がついていないのだろうか?
しばらくうろうろと円の周りを歩き始めたと思ったら、彼の顔を覗きこむようにしゃがむ。さすがに触りはしなかったが、あまりの熱視線に、円は思わず怒鳴りそうになった。
くわっと目を開くと、團十郎はのんびりとした口調で、彼に何かを差し出してきた。
――これ、喰うか。
茶色の皮の、饅頭だった。
「ぶっ」
思わず噴き出した創平の横で、円は呆れ混じりの溜息をついている。思い出すほどに、あの男は変人だった。そんな主張が垣間見えるような気がした。
「あの嬉しそうな眼差しと言ったら……怖がるならまだしも」
「食べたの? お饅頭」
「有り難く頂戴しましたとも」
鬼って饅頭食べるんだ、と嬉しそうにしている團十郎に、一体この変な人間はどうしたらいいか、と悩む円。宙を仰ぐと、咲耶姫がこちらを見下ろしながらくすくすと笑っているではないか。日頃の行いが悪いのか、助けてくれそうな気配は微塵も感じられない。あのときほど、件の女神を恨めしく思ったことはない。
その日以来、その変人は毎日桜の元まで通い詰めるようになった。
「それから色々あって、あいつが俺のために図書館を作ると言い出した。おっさんが二号を作ったのは建立してからすぐの出来事、かな。どこか没落した神官の娘だったと思うが……まぁ、そのへんはいいか。変人だったし甲斐性もなかったが、最期は立派だった」
「最期?」
きょとんとしている創平に、円はちらりと目線を送った。
彼が突然口を閉ざしてしまったことに、創平がなんの疑問も持たない訳がない。円という名の詞喰鬼が、躊躇う姿など見慣れていないからだ。己が一番理解している。
あの日から、止まったまま動けないでいるのは自分である、と。
「――『彼岸堂』の最深部にある蔵書の中で、一冊だけ、絶対に取り出せないようにしてある本がある。覚えているか?」
「ああ、『あれ』のことか」
創平が晴れて司書になった時、円に連れられて一度だけ最深部へと行ったことがある。そのときに、円が「見るな聞くな触れるな」と念を押した本があった。正しくは、本が納められ厳重保管されている『箱』なのだが。苔色の房がついた紐で蓋を固定し、札が貼られているいかにも曰くつきの『それ』は、確かに創平の記憶にも残っていた。
「あれが、喜平治の死因。中身は『遠流書』という、呪いがかけられた書物だ」
そもそも遠流とは、律令の「律」に定められた五刑の中で死罪に次いで重い刑罰のことを指す。具体的には、伊豆や安房、常陸、佐渡、隠岐、土佐などの国に追放され、勝手な移動を禁ずる刑罰だ。
「その書は、まぁ、簡単に言ってしまえば遠流と称して『蠱毒』の人体実験を行ったときの詳細が書かれている。その本が奇しくも『彼岸堂』に持ちこまれ、喜平治が解呪を行うこととなった。……その結果、呪術が跳ねかえり、喜平治は逝去した」
俺の言いたいことが分かるか、と円が静かに言った。
――今回のケースに、非常によく似ている。
本件の解呪対象となっている『隻影』も、広範囲に渡る災いを一挙に封じ込めたものだ。呪いの程度の差こそあれ、やるべきことはどちらも同じ。そして、リーディング・ケースとなっている初代團十郎は解呪に失敗し、命を落とした。今回『隻影』の解呪を行わなくてはならないのは、円の能力を受け継いだ創平、彼である。初代團十郎と同じ末路を辿らないとも限らない。
だから、円はあんなに辛そうにしていたのだ。
創平はようやく円の異変の真相を理解し、膝の上で拳を握った。今も、弱弱しい青の炎が左手首を覆い続けている。右手でそっと触れると、ジンと凍れる痛みが走った。
「三代目は、それを知っているのか?」
問うと、円は首を横に振った。
「泰守はやんわりとしか説明していないはずだし、泰守自身も当時幼かったから理解出来ていないと思う」
そこまで言うと、円はふっと息を吐き出し、創平の名を呼んだ。微かに震える声は、やはり円の不安掻き立てるものの一部でしかなくて。
「創平。……芦田、創平。あとはお前の判断に任せる」
その言葉を口にするのに、どれだけの勇気が必要だったろう。
創平はしばらく、俯いた円の横顔を眺めていた。何を言うまでもなく、ただ、白磁にも似た滑らかな頬を視界に納める。少しでも目を離せば、この鬼は目の前からいなくなってしまうような気がした。だから記憶に焼きつけるように、じっと、黒の瞳が彼を見つめ続ける。
脳裏には、先程必死に叫んでいた彼の声が木霊していた。
好きか、と。何度も確かめるように呼ぶその声は、慟哭と紛う痛みを孕んでいる。
「まどか、」
ようやく絞り出した声に、円はのろのろと顔を上げた。しかし、創平はそれに気付いていない。円の瞳が創平を捉える前に、彼は鬼の肩にそっと凭れかかっていた。首筋に、己のものではない温もりが宿る。
円は息を飲んだ。
「お前は優しいなぁ」
そっと瞳を閉じると、鼓膜を介して鬼の拍動が聞こえてくる。微かな振動は、「ここにいる」ことの証だ。規則正しく、何度も跳ねあがる心臓は、彼が好む『言霊』なんかよりもずっと饒舌である。
優しいから、言葉にできない。言葉にしてしまえば、束縛してしまえば楽なのに、敢えてそれをしない。それは間違いなく、この鬼の優しさだ。それを、創平は否定したくなかった。
「おれに任せたら、絶対に解呪するって言うに決まってるだろ……」
「知ってる」
それに、と円は柔らかい口調で続ける。「優しいのは、お前だろうが」
「おれ? おれは全然優しくないよ。だって円が嫌がることをしようとしている」
本当に優しいのなら、嫌がることなんか絶対にしないはずだ。
創平はそんなことを、ぼそぼそと呟いている。そのたびに、円の鎖骨には柔らかな吐息がかかる。
「だから、」
創平の言葉を遮るように、円が両腕を持ちあげた。その腕は凭れかかっていた創平の両肩を掴み、そっと、己と向かい合うように彼の体勢を崩させる。
一度目を見開いた創平が独特の紅い光彩を捉える。赤の瞳は何かを切に訴えていた。だが、敢えて何も言わずに再び瞳を閉じた。互いに、それ以上の言葉は不要だった。
数秒の後、互いの口唇が重なる。初めは躊躇いがちに、触れるだけ。徐々に角度を変えながら、核に触れてゆく。芯に触れると、嬌声と共に背筋が震えた。
強いて言うなら。
創平は思う。
――この接吻に名前をつけるならば、おそらく『慈愛』だ。
『性愛』でも『盲愛』でも『鐘愛』でもない。
ただそこに眠る彼の『記憶』に終止符を打つためだけの。
だから、己は優しくなんかない。
本当に優しいのなら、もっと違う名前がつくはずだから。