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「よう。清和」
独特の低音が聴こえたと思ったら、半開きになっている障子の隙間から赤い瞳がこちらを見つめていた。部屋の主である三代目團十郎・芦田清和は、それまで仕事関係の書類に目を通していたのだが、その存在に気がつくや否やそれらをしまいこんでしまった。この鬼は、自分が許可を出さなければ決してこの自室に入ろうとしない。腰を上げ、そっと戸を開けてやる。
「遙か。どうした」
「いや、一応家主に挨拶しようかと思って」
『詞喰鬼』――円がいたずらっぽく笑うと、清和も思わず目を細め、そのロマンス・グレーの髪を掻きあげた。ちなみに遙というのは、清和が取り決めた円の呼称である。この詞喰鬼は、歴代團十郎にのみ己の命名権を与えているため、創平が呼ぶのと清和が呼ぶのとではその名称が全く異なるのである。
「別に構わないと言っているだろう。そもそも、祖父の代から我が物顔で闊歩していたくせに。おかしな奴だ」
まぁ座っていけ、と清和が座布団を引っ張り出してきたので、お言葉に甘えて円は清和の元へと歩み寄った。彼が押し入れから出してきたのは、円にのみ使わせている臙脂色の座布団だった。それを見て、円は思わず苦笑する。
芦田の連中は、今も尚繁栄のきっかけを生んだこの鬼に恭敬の意を表す。円は相当長く生きているが、歴代團十郎の中ではこの三代目がダントツに腰が低い。わざわざお高い座布団を出さんでも、というのが円の本心である。
まぁ、せっかく用意されたので遠慮なく座って行くが。ふかふかの座布団にどっかりと胡坐をかく円に、清和は茶を出してきた。甲斐甲斐しいにも程がある。この性格は、おそらく嫁いできた母方から引き継いだものだろう。少なくとも、芦田家ならば当主――元、だが――自ら座布団など出したりはしない。
さて、と清和も愛用の座布団に座り直し、居住まいを正す。そして、
「遙。あの子はどうだ」
おもむろに尋ねる。彼が円に聞きたかったのは、おそらく『これ』だろう。円は熱い茶をすすりながら、はて、と首を傾げる。
「あの子とは……? どちらのことだ」
「できれば、両方」
なるほど、とようやく円が首を縦に動かした。清和の真摯な瞳が、鬼の唇が開くのを待っている。本当に、こういう目をするのは彼ら一族共通の項目なのだろう。時折見せるひたむきな目に、円は弱い。
「……佼輔はいつも通りじゃないか? 俺が言うのも妙だが、よくやっていると思う。ただでさえ一族の間では創平と合わせて一人前、って言われるんだ。あいつはお前ら『見鬼』に負い目を感じている。分かってやれ」
はぁ、と溜息。
そうだ、佼輔は一見不真面目そうに見せかけて、人一倍努力してきた人間だ。円は妖怪ながら、そういう人間を莫迦にするのは厭だと常日頃考えている。こればかりは口出ししたくはなかったのだが、一度はっきりさせておいたほうが彼のためになる。そういう点では、円は佼輔を認めているのだ。
そうか、と清和が短く返事した。何かを思慮する様は、やはり彼が父親なのだと認識させられる。彼もまた、佼輔を認めてやりたいのだ。
それに、と円が続ける。
「今まで『見鬼』のかけらもなかったのに、創平の『炎』に感化されてようやく視えるようになっただろう。俺を見てこれっぽっちも驚かなかったのは、血筋かねぇ」
尤も、鬼の力をわざと強めている状態で、ようやく影を捉えることができるくらいの見鬼だが。むしろ、影だけ見ている状態のほうが怖いのではないかと思うのだが……。肝が据わっているのは、やはり血筋としか言いようがない。思えば、初代も驚かなかった。
「創平は?」
「うん? これもいつも通りだろ」
その返答に不満だったのか、そうじゃない、と珍しく清和が焦れた。彼の真面目な表情が、円の気持ちを動かした。本当は、彼にその話をするつもりなどなかったのに、だ。
「――まだ使わせる訳にはいかないな。過保護と言われるかもしれないが、俺だって一〇七年もの間、お前ら人間が『炎』を行使する姿を見ていない。無理させた時にどうなるか分からないんだ。そもそも、本人もまだ充分に動ける訳じゃないだろ。休ませておけ」
目の前の男の顔に渋みが増したので、円もぴくりと眉を動かした。まるで、この鬼の発言に不満があるような。袂に手を入れ、さて、この人間は何を言い出すのかと考える。
「どうしても駄目か」
「しつこい。お前ら生粋の芦田家の中から『痣』を持つ者は生まれない。その重要さを分かっているのだろうな」
三代目、と円が鋭い語調で清和を追求する。「その團十郎の名、穢すことがあれば容赦しない」
「……だから、相談だ。あくまで、相談」
落ち着け、と諭された。円の左手に握られている湯呑が微かに震え、中の液体に波紋を生み出している。
ふたりの間に沈黙が訪れた。障子の向こうから、植木の葉が擦れ合う音が聞こえる。それ以外の音はほとんど聞こえない。彼らの沈黙には、それだけの威力があった。
先に口を開いたのは、清和だった。
「遙。『隻影』を再封印する」
「俺が喰うのではなく、か」
ああ、と清和が首を動かした。莫迦な、と円が小さく舌打ちする。あからさまに不機嫌な表情だ。この鬼を怒らせた場合、何が起こるか想像もできない。清和の頬を、一筋の汗が伝っていった。
「春日焔を呼ぶ。『隻影』に込められた呪いは、単純な『不幸』とは訳が違うんだ。あらゆる負の感情を増幅させるべく、沢山の呪いでがんじがらめになっているものだ。あなたに食べさせる訳にはいかない。遙、あなたは長命だが、それは無限のものではないだろう」
私はあなたに、もっと長く生きてもらいたいのだ。はっきりと清和は言った。そのさっぱりとした態度を、円はそれ以上否定しようとは思わなかった。彼が己を慮っていることはすぐに理解できたためだ。
だが、円の脳裏には別の記憶が蘇っていた。――それがあるからこそ、円は首を横に振らざるを得なかった。
「……お前の気持ちは分かった。だが、俺は初代の二の舞にはさせたくない。させるべきではない。『痣』を持たぬ芦田なんぞ、すぐ潰れるぞ」
再び『痣』――彼を失うときが来たならば、そのときは。
己が己を喪うときと等しい。そう、考えていた。
†
清和の部屋を後にしてようやく円が離れに向かうと、創平は布団から上体を起こし手元に目を向けているところだった。先日書き写してやった呪術の本だ。結構な厚みがあったと思うのだが、彼はもう半分以上を読破している。
そーへー君、と呼びかけるも、彼は全く気がついていない。すっかり本の世界に入り浸ってしまっている。本に係ることならば、彼は抜群の集中力を持っているのだ――今ここで褒めてもしょうがないのだが。
ふむ、と円は少々考え、そっと背後に忍び寄る。未だ気がつく気配はない。湧き上がるいたずら心。そろそろと近付き、そして、突然がばりと抱きついた。
「うわっ」
そこでようやく創平は背後の存在に気がついたらしい。驚きのあまり肩をビクンと震わせ、思わず本を取り落としている。ばさり、と、滑り落ちる紙束。
「ああ、なんだ、円か。居るなら居るって言ってよ」
「呼んでも気がつかない方が悪い」
そのまま首筋に鼻を押し付けてくるので、創平は思わず呆れ混じりの溜息をついてしまった。まるで、犬だ。何度も言うがこの仕草、大型犬にしか思えない。
耳の後ろで、「石鹸の匂いがする」と呟いていた円だったが、突然静かになった。しかし抱きついたままの体勢でいるので、恐る恐る創平が顔を向けると。
「……腹減った」
ぽつりと、この鬼は本音を洩らした。
創平がこんな感じなので、食事に関してはしばらくの間文字通り『自給自足』していた円。おかげで、腹は満たせても気持ちが満足できていない。本当は、今日はそのためにやってきたのだ。清和と長話していたので、すっかり忘れていたが。
対して創平は一瞬顔をしかめたが、
「うーん。まぁ、いいよ」
おいで、と手招きした。我ながら円に甘い。
この時間、離れは二人きりとなる。他にやってくる人間もいない。それをいいことに、円は甘えるためにごろり、と創平の膝の上に頭を乗せてきた。しかし、こんな時でも創平は苦笑しながらもやや伸びた髪を梳いてくれるのだ。
仕方ないなぁ、と。
その優しさにつけこみ存分に甘えている訳だから、確信犯というかなんというか。
撫でる感触に身を委ねながら、円は先程の清和との会話を思い起こしていた。『隻影』の再封印。そのために、創平の『炎』を使いたい、と。
莫迦か、と思う。
そもそも、初代團十郎は、本にかけられた呪いを『炎』で浄化しようとして死んだのだ。どうして、三代目は彼と同じ末路を辿らせようとするのか。何度も言うが、今生を最後に『痣』を持つ人間は現れないかもしれないのだ。
そう、もう、己の前に現れることがないかもしれない――
黒髪の隙間から覗く赤の瞳が、ふと創平の黒を仰いだ。本当に綺麗な色をしている、と創平はぼんやりと考えた。紅玉と紛う光彩。彼が異形の者であることを証明する、色。
円の手が伸び、ひたりと創平の頬に触れる。指先がひどく冷たかった。
「なぁ、創平」
ん、と短くすると、彼は真顔のまま、「俺のこと、好きか」と問う。
「え」
こいつ何を言い出すんだ!
ぼっ、と途端に顔が赤くなる。面白い顔をしているなぁ、と円は思った。いつもそうだ。この人間は、こっちから露骨な愛情表現をすると想像以上に照れるのだ。だからわざとしゅんと落ち込んだ素振りを見せたくなる。困らせたくなる。
「……嫌いなのか?」
「そ、そんな訳ないだろ」
嫌いじゃない、そんなんじゃない、と首を横に振る創平。自分で自分が何を言っているのかよく分かっていないんじゃないか。そんな顔をしている。それにしても素晴らしいほどの否定っぷり。
「そんなんじゃあ……」
そこまで否定しておいてからに、創平の言葉に覇気がなくなった。おや、と見上げると、彼は眉を下げどことなく哀しげな表情を浮かべている。
その表情に、円は見覚えがあった。もう一〇〇年以上前に出会った、風変りな男。彼は詞喰鬼である己を見て、怖がるどころか、何故か哀しそうな顔をしたものだ。今の創平みたいに。
その男は、目を瞠る己にぽつりと言った。
――なんだ。お前は寂しいのか。
富も名誉も、全てを手に入れたはずの男。それなのに、男の心は常に空虚な思いを抱えていた。その思いの名前は、『不幸』。己が最も好む、至高の感情。
だが、男はこれ以上ないほど、優しく甘く微笑むのだ。
――おれもだ。
「……創平、」
円が突然身を乗り出し、勢いに任せ創平を布団に押し倒した。彼は一度大きく目を見開くも、それ以上抵抗しようとはしなかった。ただ、ぽかんとしたまま円の瞳を射るだけだ。
どうしてこうも昔のことを思い出してしまうのか、円にはさっぱり分からなかった。己は鬼で、人間のように未練たらしく在る必要がない。未練に身を任せていたら、こんなにも長く生きていられるはずがない。一時の感情に身を任せるほど己は莫迦じゃない。
ただ、円はその男の最期を知っていた。
すべてをその目で見ていた。
人間は脆くて儚くて、ちょっと目を離せばすぐにいなくなってしまう。もしかしたら、また逢えるかもしれない。そう思って一〇〇年待った。一〇〇年待って、ようやく、ようやく逢えたというのに。
どうして、最悪の展開が頭を過るのか。
このまま彼に『炎』を使わせたら、彼がいなくなってしまうような気がした。
「俺のこと、好きか」
不安を打ち消したくて、再び尋ねた。
絞り出した声が微かに震えている。自分でも分かる程、それはそれは滑稽だ。布団の厚い布地に彼の右手首を縫い付けて、こんなにも欲を剥き出して。腹が減っていた。だが、それは本当に空腹という状態なのかがよく分からない。ただ、からっぽなのは確かだった。からっぽなのは、もしかしたら腹ではないかもしれないけれど。
「……なんだ」
そのとき、創平の左手が伸びた。するりと冷たい頬を撫でる指。眼下に、紅いひきつけのような鎖の痣が見える。
「お前は寂しいのか……」
円は目を瞠った。創平の口からこぼれ落ちた声が、忘れかけた記憶に容赦なく飛び込んでくる。一字一句違わずに。言葉を失ったまま呆けていると、彼は困り果てたように苦笑して。
「仕方ないなぁ」
そっと両腕を円の首に回した。その頃には、右手を抑えつけていた力がすっかり緩んでいた。容易く解けた右手。それを使えば拒絶することも可能だろうに。彼は敢えてそれをしなかった。
「そりゃあ、そうだよなぁ。一〇〇年以上待っていたんだもんなぁ」
耳元に優しく息がかかる。ざらりと撫ぜ上げるような、掠れた残響。
ああ。
円は思う。
「どうしてお前は、」
こんなにも優しいんだろうなぁ。
刹那、どろりと溶け出し、己に飛び込んでくる彼の『言霊』。たまらずに、欲望の赴くままに貪りついた。それが『詞喰鬼』だ。詞を喰らうことで生き長らえる鬼。人間とは相容れぬ存在。
くぐもった嬌声が。徐々に熱を帯びてゆく吐息。煽りに身を任せ、容赦なく喰らい付く。単純に、忘れたかった。そうするべきだと思った。たった今過った戯言なんか、どこかへ行ってしまえ。
飛び込んでくる彼の『言霊』は、砂糖を蕩かしたような甘さを孕んでいた。甘味なんていう言葉で片付けられるほど単調なものではなくて、真綿のようなふわふわ柔らかいものに包まれたような。
嬉しさも悲しさも寂しさも怒りも。
楽しさも切なさも苛立ちも恐怖も。
憎しみも羨やみも痛みも憐れみも。
全てが入り混じった不思議な味で。
間違いなく、本来彼が持つ『不幸』の味なんかではなかった。
彼が苦しげに身をよじる。その動きを封じるために、細い首筋に甘く噛み付いた。
まだ流れ込んでくる。こんなに搾取しているというのに、どうしてこんなにたくさんの言葉が溢れ出て来るのか。思考という思考は根こそぎ奪っているはずで。これ以上出ない、というほどに容赦なく。それ以上は駄目だと己を律するため。
それなのに。
零れ落ちた汗の粒が、彼の頬を濡らした。熟れた黒の瞳が、赤のそれと交錯して。
――彼は微かに笑った。
「酷い顔」
その表情は、あの男にとてもよく似ていた。
芦田喜平治團十郎。後の、初代團十郎である。




