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芦田邸の南側に位置する離れに佼輔が足を運ぶと、ちょうど創平が上体を起こしなにやら読み物をしているところだった。
先日の『隻影』の一件ですっかり体力を消耗してしまった創平は、療養のために義父である清和の元に身を寄せている。初めの一週間は身体を起こすこともままならなかった創平だったが、ここ数日は上体を起こせる程度には回復してきたらしい。そうなるとかなり暇らしく、書類整理や書簡を送るなどの通常業務に一部だが手を出し始めてきたところだ。もっとも、彼は名目上謹慎処分を受けている身なのでそれ以上の行動を起こせない、の方が正しいのだが。
「おう。元気そうじゃねぇの」
気づくかと思いしばらく口を閉ざしたまま創平の様子を観察していた佼輔だったが、創平は手元の本に目を向けたまま一向に顔を上げようとしない。痺れを切らして声をかけると、ようやく創平も気がついた。のろのろと顔を上げ、はにかんだような微妙な表情を佼輔に向ける。そして、
「ああ、佼輔さん。お帰りなさい」
と声をかけるのだった。
彼にお帰りなさい、と言われると、背中がこそばゆい感じがするのは何故だろう。
なんだか新婚さんにでもなったかのような心境になりながら(なにを隠そう、それなりに変態だと自負している)、部屋の隅に積んである座布団を出して創平の脇に腰かける。傍らには、仕事道具が詰まった鞄。これがなかなかに重いので、置いた瞬間「どさり」と大袈裟な音を立ててしまったのは言うまでもない。
「なに読んでんだ?」
「呪術の本です」
ほら、と創平がご丁寧にも表紙を見せつけてきた。茶色く日焼けした表紙に、藍色の紐で仮綴じにされた本。確か、これは『彼岸堂』最深部にある秘蔵中の秘蔵書ではなかったろうか。その証拠に、裏表紙に押された芦田財団の印の横には、無粋にも『禁帯出』と書かれている。
「……禁帯出だろ、これ」
「そりゃあ、そうなんですけど……。三代目にお願いして、特別に許可を頂いたんです。事情が事情だから、円が複製してくれて。これ、本物みたいに見えますけどコピーなんですよ。中は円直筆で」
だって、と創平が肩を竦める。「『隻影』は確かに『彼岸堂』に戻ってきましたが、呪詛の件は解決していないじゃないですか。武下氏の家系ではもう封じることができないから、その呪詛を封じるのはおれの役目だ、って円に叱られちゃいまして。でも、呪詛って正直よく分からないので……ちょっと勉強しようと」
「要らない知識を増やすんじゃない」
この男にそんな厄介なものを教え込んだら、気がつかないうちに呪われていそうだ。まぁ、なにを言おうと彼は読み切ってしまうのだろうから、敢えてそれ以上は追及しないでおくことにした。
はぁ、と溜息をついた佼輔に、創平は眉を下げる。まるで叱られた子供のように、ばつの悪そうな顔をしていた。
「……ごめんなさい。今の財団は佼輔さんが動かしているのに、あなたの許可なしで持ち出しちゃって。まるで、信用していないみたいですよね……?」
「親父がいいって言ったならいいよ。それにしても、あの鬼は達筆なんだな」
ひょっこりと佼輔が覗き見して、字面に関して率直な感想を述べた。筆で書かれた文書は、その道を極めた者のように美しい曲線を生み出している。ええ、と創平は頷いた。
「ただ、奴の文章は古文そのものなんですよねぇ。古文とか、学生以来ですよ」
読めなくはないけれど、と苦笑している創平は、実は大学を首席で卒業している一応秀才である。それを知っている佼輔は、彼が実のところ楽しんでいるとしか思えなかった。そうでなければ、今までろくに学校に行っておらず、大学入学試験も超ギリギリで通った奴が“こうなる”はずがない。やはり、環境というものはそれなりに大事なのだ。
「ところで、」
創平は一旦本を閉じ、膝の上に置く。「一体どうしたんです? 蔓さんでしたら、今日はまだいらしていませんよ」
初め創平の身の回りの手伝いは寛子が行っていたが、なにかと不便が生じたので(例えば、風呂やトイレなど)佼輔の秘書である蔓真目を借りることとなったのである。とはいえ、彼も通常の仕事をこなしながらの世話なので、いつも離れにいるとは限らない。夜の風呂に間に合えばいいと創平も言っており、そういった事情で今日はまだここに現れていないのだ。
「用がないと来ちゃあ駄目なのか?」
いつになく真剣な面持ちで尋ねてきたので、創平は首を横に振る。
「いや、そんなことは。むしろ話し相手がいないので寂しいと思っていたくらいです」
「じゃあ、文句ないだろ。ほれ、手土産」
佼輔が創平に渡したのは、一本の羊羹。創平御用達の、岩永屋の羊羹である。それを目にするなり、瞳をキラキラと輝かせながら思わずにっこりと微笑んでしまった。
「いいんですか?」
「俺が来ちゃあ駄目なんだろ。じゃあ要らねぇよなぁ」
意地悪してみると、途端に慌てふためき、
「いっいっ、要ります要りますっ。欲しいです食べたいです」
「じゃあ、俺を『お兄ちゃん』と呼――」
呼ぶんだな、と言おうとした刹那、佼輔の頭に何かが激突した。すっこん、とやたら軽い音を立て、佼輔はそのまま布団の上に撃沈する。そんなに軽い音がして大丈夫なのだろうか、と逆に心配になるほどである。
「セクハラって言われても知りませんよ。四代目」
創平は思わず声を上げてしまった。その声の持ち主は、しばらく会いたくても会えなかった己の上司。
「し……篠宮さん」
いつものようにスーツに身を包み、さわやかな出で立ちで現れた男・篠宮馨は、そこでようやく創平ににこやかに挨拶したのだった。
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聞くところによると、篠宮は三代目に呼ばれて芦田邸を訪れたらしい。一応篠宮はまだ謹慎解除されていないので、あまり公然と歩き回ることができない。だから、気を利かせて清和はわざわざ公文書を用いて自宅へと召集をかけたのだそうだ。
「とにかく、思ったより元気そうでよかった」
篠宮も佼輔の隣に座り、創平の様子に安堵した様子で言った。
「すみません、ご心配を……それに、今回の謹慎はほとんどおれのせいじゃないですか。こんなにたくさん迷惑かけちゃって、本当にごめんなさい」
「いいよ。迷惑かけるのは新人の特権でしょう? 一応、君はまだ入団して二年ちょっとしか経っていない若手なんだから」
むしろもっと頼っていいくらいだ、と言う篠宮の横で、佼輔もうんうんと頷いている。
「それにしても、篠宮。創平の見舞いにしてはなんかおかしくないか? もっと別の用があるんだろ」
指摘され、篠宮は首を縦に振った。勿論その通りだ、と言わんばかりの真面目な表情である。
きょとんとして、創平は思わず首を傾げている。そりゃあ、三代目にお呼び出しをくらったのならこの場にいても決しておかしい訳ではないが、彼に見舞い以外の用があるのだろうか? 少なくとも、創平は篠宮に会いたいとは思っていたが、それ以上の用事――仕事の話など――は特に思い当たらなかった。
「創平君。もう、その手首の『炎』は使えるの?」
唐突に篠宮が口を開いた。
「え? ええと……すみません、あと三日くらいはかかると思います。まだ円に禁止されているんです」
「そうか……」
それがどうしたんですか、と尋ねると、困った様子で篠宮は言った。
「まだ、三代目からはなにも言われてないんだよね? 四代目も」
「ええ」
「なにも言われてないが……どうした、」
「じゃあ、まだ確定していないのかもしれません」
篠宮曰く、近々『隻影』を再封印することになったらしい。だが、それを行うには例によって創平がいないと話にならない。三代目が直接創平の元に出向いてもいいが、自分で行くよりは篠宮の方が適任だろう。ついでに、桜も会いたがっているから是非顔見せしてこい。そんな旨を、先程三代目から厳かに告げられたのだそうだ。つまりは、自分のパシリである。
呆れる佼輔の横で驚いていたのは創平である。彼は、まさかそんな急に話が進むとはこれっぽっちも思っていなかったのである。三代目が禁帯出の本を特例で持ち出しを許可したのもうなずける。この際、篠宮がパシリ扱いされたことについては無視だ。
「じゃあ、もう少しおれの様子を見てから三代目は指示を出すつもりなんでしょうか」
「そうだろうね。『春日』を呼ぶにしても、一旦創平君の炎で燃やす必要があるから」
篠宮の口からこぼれた聞き覚えのない名に、創平は思わず目が点になった。佼輔はそれに気付いていないようで、「む、『春日』も呼ぶのか」と篠宮を問いただしている。
「焔さんは青森に出張中らしいので、『河東』が代理になるかもしれませんが。いずれにせよ、どちらかを呼ぶことにはなるでしょう」
「あの……」
かすがって、誰?
創平がおずおずと尋ねると、上司二人は実に不思議そうな顔をこちらに向けてきた。知らないの? とでも言わんばかりの表情である。……知らねぇよ、と内心舌打ちする創平である。
「お前、大学一緒だったろ。あの河東だ」
「河東……? 冴のことですか」
河東冴。創平の大学時代の後輩で、創平を追いかけて芦田財団に入団・現在は経理を担当している人物だ。大学時代にあまり友達ができなかった創平の、数少ない友人でもある。まぁ、正直なところ友人と思っているのは創平だけで、冴自身は円や佼輔同様、恋愛感情を持っていることは他者から見れば明確な話ではあるが。
念のため、経理の、と付け加えると、佼輔は肯定の意を示した。
「ああ、その河東だ。あいつ、『春日』っていう祓魔の家系の出だから。分家だけど」
「ふつま……?」
またややこしい単語が出てきた。すぐに漢字の変換ができず、思わず困った顔を見せてしまう。だが、佼輔は面倒がらずに、さらに意味を噛み砕いて説明してくれた。いずれ知らなければならない話だから、と。
「簡単に言えば、陰陽師みたいな感じ? それとはちょっと違うんだが、そう思ってくれて構わない。ただでさえ、『彼岸堂』は特殊な本ばかりだからな。時々本物の呪いがかかった本がやってくる。それをどうにかするのが、『春日』の連中」
しかし、『春日』も『河東』も芦田財団と契約している、いわばお抱え術師の家系だ。本来正式に入団する必要のない河東冴が、どうしてわざわざ入団したんだか……という佼輔の呟きの前に、全ての事情を知る創平は冷や汗をかきながら口を閉ざすしかできなかった。まさか、自分のせいですなんて口が裂けても言えるはずがない。
とにかく、と篠宮が口を開いた。
「創平君が万全な体調で臨めるようにしないと。四代目、戻りますよ」
そして堂々と佼輔の首根っこを掴んだ。これでは、どちらが上司なのか分からない。ここは俺の家だ! と文句を言う佼輔に、創平は優しく微笑みながら手を振ったのだった。