六 因果応報
その一室は、黒を基調に、悪趣味なまでの高級感に満たされていた。
部屋にある何もかもが洗練されているが、気遣いではなく、これほどのものを用意できるのだという虚栄心が透けて見えており、なんとも居心地がよろしくない。
窓辺に立って長々と電話をしている男は、何も気にしていないようだが。
「――なあ、まさかとは思うが、僕をナメちゃいないよな? じゃあ、今回のレベルの低さは何だよ。暇だから遊んではやるけど、次はもっとマシなのを持ってこい。なるべく高学歴の女だぞ。そういうのを這い蹲らせるのが一番楽しいからな」
男はなかなか整った顔立ちと美しく鍛えられた肢体をしていたが、この物言いだけで御里が知れよう。少なくとも、確実に善人ではない。
「……だから、今回のは好きに扱わせてもらうぞ。今時、運命の出逢いを信じ込むような世間知らずの田舎娘の一人や二人、消えたところで何の影響も無いさ……ああ、じゃあ、明日のパーティー、せいぜい楽しみにしてるよ」
男は通話終了のボタンをタップすると、シャワールームのほうに目をやった。
“世間知らずの田舎娘”がまだ出てこないことに舌打ちをして、いっそ引き摺り出すところから楽しんでやろうかと、ベッドから腰を浮かしかけて、鳴り響く着信音に引き留められる。
画面に表示された名前を見て、よく見れば不自然に整った顔立ちが醜く歪んだ。
「もしもし。そっちから連絡するなって言ったよな? これだから低学歴のクズは」
『……ああ、どうも。あんたがいわゆる黒幕さんで?』
聞き覚えの無い、男とも女ともつかぬ、訛りのある声。
シャワーの音がほんの少し大きくなったことにも気付かず、男は声をひそめた。
「誰だ? どうしてこの番号を知ってる」
『そちらの兵隊さんにお世話になったもんですわ』
「何……?」
『単刀直入に聞きますけど、狸喜堂の火事と、死体の山……あんたの仕業でしょう?』
男は一瞬ぎくりとして黙ったが、ややあって、傲慢な笑みで口角を吊り上げた。
「お前、刑事か? 記者か? ああ、答えなくていい。お前が誰だって、すぐに消してやる。明日までの命だ、震えて待ってろ」
悪い意味で成功体験を重ねてしまったらしい男は、電話口の何者かが態度を変えて命乞いをするのを待ったが、聞こえてきたのは呆れ果てたような声音だった。
『震えて待つんは、お前のほうや』
突然、シャワーの音が激しくなった。
高級ホテルの防音壁を貫通する水音に、さしもの男も戸惑った。
どれだけ水を出そうと、これほどの音が出るはずがない。
『もう一回だけ聞くで。狸喜堂の火事と死体、お前が関わっとるな』
「だ、だったらどうした。証拠は無いぞ」
『……証拠が無けりゃ、裁かれんとでも?』
水音は瀑布じみた轟音に変わり、絨毯敷きの床に湯が流れてくる。
何かに足を掴まれた気がして、男はベッドの上に登った。
あっと言う間に浸水した床に、水流ではないものが動いている――そんな錯覚に襲われて、暴れ始めた心臓をバスローブの上から押さえる。
シャワールームに向かって叫んだが、扉は固く閉ざされ、そこにいるはずの少女は出て来なかった。
『こっちは別に正義の味方やないから、お前がどう死のうと興味は無いんよ。でもなあ、頼まれてもうたから。いつか生まれるかもしれん子供を夢見て、狸喜堂に通っとった、健気な娘さんにな』
「お、お前、あ、あの女の知り合いか? あいつは俺が殺したんじゃない!」
『ふうん。猿とか仏像とか、なんぞ心当たりは?』
「さ、猿……?! お前、どこまで知ってるんだよ!」
言い合っている間にも、ドアや家具の様々な隙間を無視して、水嵩が増してゆく。
ベッドのぎりぎりまで迫ってきた熱い湯から逃れようと、男はベッドのヘッドボードに乗り上げた。
湯の中で、やはり何かが動いている。見間違いではない。
どう死のうと興味は無い――つまり、このままでは死ぬ可能性があるという事実に思い当たって、頭を抱え、セットされた髪をぐしゃぐしゃと掻き乱す。
「……あ、あいつとは、遊びだったのに、勝手に本気になられて……大事な時期で。週刊誌にでもバラされたらどうなるか……そ、そんなとき、マコトが……む、昔のダチが、持ってきた女……地下アイドルっぽい、イタい奴に……何でも願いが叶うんだって、変な猿の置物渡されて……ご機嫌取りに、適当言って、あいつにあげたんだ。そ、そしたら、あ、あいつ、あいつ……いきなり焼け死んで! 死体も残らなくて!」
『……一瞬で綺麗になった、っちゅうわけか』
「は、はあ……?」
『こっちの話や……なに黙っとんねん。死ぬ覚悟でも決まったんか?』
響きだけは穏やかだった声に、明確な怒りが宿る。
温室で甘やかされて生きてきたのであろう男は、殺意じみてすらいる純粋な憤怒を浴びせられたうえに、湯がとうとうベッドシーツを飲み込んだことで、情けなく悲鳴を上げた。
「ひっ、ひいっ……そ、それからしばらくして、狸喜堂で肝試しが流行って、何かの拍子にバレるんじゃないかって怖くて、元ヤクザを雇って見張らせてたら、あいつら、配信者をうっかり殺して……すぐに、見透かしたみたいに、あの女が来て、猿の像を五百万で……それに、願ったんだ。死体を消してくれって」
『なるほどなァ。それで死体が消えたわけや』
「そ、そうだ。それで、その……邪魔な奴らをどう消したって、バレなくなったせいで、やりすぎたんだ。臭いが酷くなって、隠しきれなくなって……ま、また、あの女が来てくれたから、一千万払って、猿の像に……これをまとめて、どうにかしてくれって……」
『……はあ……それで、全員まとまって、どうにかなったわけか……』
電話の向こうの誰かが先ほどから何を言っているのか分からず、だが、それでも全てを話したのだという安堵に、男はほっと溜息をついた。
「ぜ、全部話したぞ。助けてくれ」
『……』
「どうした? 水をどうにかしてくれ! 何かいるんだ!」
『……助ける言うた覚えはないで』
ぞっとするような響きが、鼓膜を撫でてゆく。
それを最後に、電話は切れた。
「お、おい! おい……!」
リダイヤルのアイコンをタップするが、繋がらない。
自分の所業を思えば、誰にどう連絡を取っていいか分からず、考えているうちに、足の裏に湯が触れ――今度こそ、足首を掴まれた。
* * * * *
おずおずと、シャワールームから少女が顔を出した。
突然ドアが開かなくなったと思えば、シャワーからも蛇口からも湯が噴き出て、それがすべてドアの隙間から外へと向かっていったものだから、彼女はまだあどけない顔立ちに恐怖と不安を浮かべている。
室内は、当然、びしょ濡れになっていた。
――君に、一目惚れして。事務所に無理を言って、ここを予約してもらったんだ。
純情そうにはにかんでいた男の姿は、どこにも見当たらない。
脱ぎ捨てられたバスローブだけが、ぽつんと残されている。
「……ねえ……大丈夫……?」
隠れているのかと、男を捜して寝室のほうへ出てゆこうとする少女の一糸纏わぬ玉の肌を、まるで自らの意思を持っているかのように棚の上から舞い降りてきたバスタオルが隠した。戸惑う間もなく、テーブルの深皿に置かれていたはずのウェルカムスイーツの高級チョコレートが、足元にばらまかれる。
「……お兄ちゃん……?」
少女の脳裏に、今はもう記憶の中にしかいない兄の顔が過ぎった。
前時代的な田舎で、女であることだけを求められる地獄の中、父親に殴られても罵られても、いやらしい目と手から庇ってくれた兄。
母親に躾と称して食事を抜かれ、部屋に閉じ込められるたびに、乏しい小遣いを崩してお菓子を買ってきてくれた兄。
全てを捨てて逃げ出すための電車を待っていた駅で、痣だらけの顔に心の底からの笑みを浮かべて見送ってくれた兄。
それが、兄の最期の姿だった。
「……お兄ちゃん……」
少女はチョコレートを一粒拾い上げ、包装紙を剥がして口に入れた。
あの頃、夢のように感じた味とはまるで違う、懐かしくも何ともない、嫌味なまでに高級に整えられた味が舌の上に広がる。
彼女はそれを、怒りに満ちた表情で噛み砕き、飲み下した。
濡れた服が張り付くのも構わず、無理やり引っ張りながら身に纏う。
兄を置き去りにしてまでなりたくなかったものに成り果てようとしていた自分に、気付いたからだ。
ふと、誰かに頭を撫でられた気がして、少女は怒りを微笑に変えて、部屋を飛び出した。




