表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/15

三話


 今日もいいことを何も残せなかった。家に帰ると、玄関にある学生靴に、ぎくりとなる。

「遅かったじゃない。千尋(ちひろ)くん、部屋で待ってるわよ」

 こっちはひとつも待ってない。風花は、最悪の気持ちで、階段を上がった。

「千尋くん」

 勝手知ったる様子で、ベッドにもたれて参考書を読んでいた。俳優みたいに雰囲気のある目元に、深い黒の髪がかすかにかかっている。彼の前のローテーブルのスマホから曲がかかっている。専用のマグにはいったコーヒーが、湯気を立てていた。

 そうっと前を通り過ぎて、カバンを置いた。着替えたいのに、今日もおあずけのようだ。肩を落としながらも、ひとまず手を洗いに行こうとすると「挨拶もできないのか?」と声がかかった。憂いがかった低い声に、びくっと身をふるわせる。

「ご、ごめん……」

「本当にな。こっちは忙しいんだから、急いで帰ってくるくらいしろよ」

 参考書から目を離さずに、千尋は言った。有名進学校の詰襟の制服のボタンが光る。風花はもういちど、「ごめん」と言って、部屋を出て行った。

 真藤千尋(まとうちひろ)は、風花の幼馴染だ。そして、風花が、このように委縮しがちな人間になった、もっともの原因だった。

 容姿端麗、文武両道。礼儀正しく物腰は柔らか、どこに出しても恥ずかしくない優等生。それが、千尋の絶対的な他者評価だ。けれど。


「さっきから止まってるけど、石にでもなった?イコールしか書けない病気にかかってるわけ」

 シャーペンのノック部分で、何度も風花のノートを叩いた。余計に固まって、なにもできないでいると千尋は、「はあ」と、わざとらしくため息をついた。

「本当に、お前馬鹿だよな。ブスなうえに馬鹿、その上愚図とか、生きる価値なさすぎだろ」

 思わずうつむくと、シャーペンを、顔とノートの間ににゅっと突っ込まれる。驚いて顔を上げると、にやにや笑った目とかち合った。

「もしかして、『自分は顔はいい』って思ったか?そんなわけないじゃん」

 ひどい揶揄に、顔が真っ赤になる。

「言っとくけど、皆お前のこと『美人』とは言ってないからな。ただ『まじめそう』って言ってるだけ。どこもいうことない顔を苦心惨憺して何とか評価してるだけだよ」

 頬杖をついて、シャーペンで、風花の前髪を持ち上げて言う。咄嗟に身を引くと、「ふん」とせせら笑う。

「でもまあ、『まじめそう』もセンスねえよな。お前の顔、ここの間が抜けてるもん」

 とん、とノック部分で、眉間をついてきた。思わず目を閉じる。

「典型的な馬鹿面。本当に賢い奴がみたらわかる」

 そう言って、にっこり笑って見せた。雑誌に載るみたいな、優雅な笑顔だ。

 いつもこうだ。風花といるときの千尋は、本当に意地悪で、何かと風花にひどい態度をとってくる。子供のころから、ずっとそうで、それが原因で、だんだん風花は引っ込み思案で、プレッシャーに弱い性格になってしまった。

 勉強のたびに、こうして前で詰めてきて「馬鹿だ間抜けだ早く解け」と言われ続ける。それは、高校が離れた今でさえ、変わらなかった。

 風花は、身を小さくして、はやくこの時が終わってくれることを願った。千尋の膝が、ローテーブルごしに当たる。足を崩すふりをして、よけた。

 頭がまったく働かない。今日も夜更かしコースだ。風花は絶望的な感慨で、テキストを見下ろした。


「千尋くん、いつもありがとうね。この子、でき悪いから大変でしょ」

「いえ。僕も、楽しいですから。美味しいご飯も食べられるし」

「あらっ!たくさん食べてねっ」

 晩御飯の席で、うれしげに母が笑う。勝手知ったる様子で、ご飯のおかわりをもらっている。暗澹たる気持ちで、風花は豚汁をすすった。

 千尋を見送って、玄関先でうっとりした顔で言う。

「本当に、千尋くん、どんどんかっこよくなるわねえ。あんた、ちゃんと捕まえときなさいよ」

「いや……そんなんじゃないよ」

「何言ってるのっ。あんたみたいなのが一人で生きてけるわけないんだから、ちゃんと考えなさい!」

「そんな。千尋くんだって、迷惑だって」

「迷惑じゃないように頑張るんでしょ!だいたい、高校生で、こうしていまだに会いに来てくれてるのよ!脈ありよ!」

 はっぱをかけるように、風花の背中を叩いて、母は入っていった。風花は、はあとため息をつく。

 千尋の外面の良さは群を抜いている。母は昔から、千尋のことがお気に入りで、「絶対旦那さんに捕まえなさい」としつこいのだ。

「千尋くん、このあいだ母の日にミートローフ作ってくれたらしいわよ!いいわねえ」

 母は、千尋の両親とも、せっせと懇意になり、ずっと家族ぐるみで付き合ってきた。

 千尋に意地悪を言われると言っても「いいわねえ!言われてみたいわっ」と嬉し気にする始末だ。なら変わってほしい。


 千尋くんが高校が離れてもなお家に来るのは、まかり間違っても私が好きとかじゃなくて、いじめる相手がいなくてつまらないからだよ、そう思う。中学まで、同じ学校だったけど、風花は、まともに友達ができたためしがなかった。それが、千尋が、さりげなく皆を誘導していたと知ったとき、絶対に別の高校に行くと決めた。

 幸いと言うべきか、千尋と同じ高校には落ちたので、すんなり離れられた。けれども、代わりに、毎日のように家を訪れるようになった。

「お前がひとりでやっていけるわけない」とは千尋の言だ。否定できない自分が、ひたすら情けない。

「はあ……」

 今日の分の宿題やって、予習して……もう、気が遠くなりそうだった。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ