三話
今日もいいことを何も残せなかった。家に帰ると、玄関にある学生靴に、ぎくりとなる。
「遅かったじゃない。千尋くん、部屋で待ってるわよ」
こっちはひとつも待ってない。風花は、最悪の気持ちで、階段を上がった。
「千尋くん」
勝手知ったる様子で、ベッドにもたれて参考書を読んでいた。俳優みたいに雰囲気のある目元に、深い黒の髪がかすかにかかっている。彼の前のローテーブルのスマホから曲がかかっている。専用のマグにはいったコーヒーが、湯気を立てていた。
そうっと前を通り過ぎて、カバンを置いた。着替えたいのに、今日もおあずけのようだ。肩を落としながらも、ひとまず手を洗いに行こうとすると「挨拶もできないのか?」と声がかかった。憂いがかった低い声に、びくっと身をふるわせる。
「ご、ごめん……」
「本当にな。こっちは忙しいんだから、急いで帰ってくるくらいしろよ」
参考書から目を離さずに、千尋は言った。有名進学校の詰襟の制服のボタンが光る。風花はもういちど、「ごめん」と言って、部屋を出て行った。
真藤千尋は、風花の幼馴染だ。そして、風花が、このように委縮しがちな人間になった、もっともの原因だった。
容姿端麗、文武両道。礼儀正しく物腰は柔らか、どこに出しても恥ずかしくない優等生。それが、千尋の絶対的な他者評価だ。けれど。
「さっきから止まってるけど、石にでもなった?イコールしか書けない病気にかかってるわけ」
シャーペンのノック部分で、何度も風花のノートを叩いた。余計に固まって、なにもできないでいると千尋は、「はあ」と、わざとらしくため息をついた。
「本当に、お前馬鹿だよな。ブスなうえに馬鹿、その上愚図とか、生きる価値なさすぎだろ」
思わずうつむくと、シャーペンを、顔とノートの間ににゅっと突っ込まれる。驚いて顔を上げると、にやにや笑った目とかち合った。
「もしかして、『自分は顔はいい』って思ったか?そんなわけないじゃん」
ひどい揶揄に、顔が真っ赤になる。
「言っとくけど、皆お前のこと『美人』とは言ってないからな。ただ『まじめそう』って言ってるだけ。どこもいうことない顔を苦心惨憺して何とか評価してるだけだよ」
頬杖をついて、シャーペンで、風花の前髪を持ち上げて言う。咄嗟に身を引くと、「ふん」とせせら笑う。
「でもまあ、『まじめそう』もセンスねえよな。お前の顔、ここの間が抜けてるもん」
とん、とノック部分で、眉間をついてきた。思わず目を閉じる。
「典型的な馬鹿面。本当に賢い奴がみたらわかる」
そう言って、にっこり笑って見せた。雑誌に載るみたいな、優雅な笑顔だ。
いつもこうだ。風花といるときの千尋は、本当に意地悪で、何かと風花にひどい態度をとってくる。子供のころから、ずっとそうで、それが原因で、だんだん風花は引っ込み思案で、プレッシャーに弱い性格になってしまった。
勉強のたびに、こうして前で詰めてきて「馬鹿だ間抜けだ早く解け」と言われ続ける。それは、高校が離れた今でさえ、変わらなかった。
風花は、身を小さくして、はやくこの時が終わってくれることを願った。千尋の膝が、ローテーブルごしに当たる。足を崩すふりをして、よけた。
頭がまったく働かない。今日も夜更かしコースだ。風花は絶望的な感慨で、テキストを見下ろした。
「千尋くん、いつもありがとうね。この子、でき悪いから大変でしょ」
「いえ。僕も、楽しいですから。美味しいご飯も食べられるし」
「あらっ!たくさん食べてねっ」
晩御飯の席で、うれしげに母が笑う。勝手知ったる様子で、ご飯のおかわりをもらっている。暗澹たる気持ちで、風花は豚汁をすすった。
千尋を見送って、玄関先でうっとりした顔で言う。
「本当に、千尋くん、どんどんかっこよくなるわねえ。あんた、ちゃんと捕まえときなさいよ」
「いや……そんなんじゃないよ」
「何言ってるのっ。あんたみたいなのが一人で生きてけるわけないんだから、ちゃんと考えなさい!」
「そんな。千尋くんだって、迷惑だって」
「迷惑じゃないように頑張るんでしょ!だいたい、高校生で、こうしていまだに会いに来てくれてるのよ!脈ありよ!」
はっぱをかけるように、風花の背中を叩いて、母は入っていった。風花は、はあとため息をつく。
千尋の外面の良さは群を抜いている。母は昔から、千尋のことがお気に入りで、「絶対旦那さんに捕まえなさい」としつこいのだ。
「千尋くん、このあいだ母の日にミートローフ作ってくれたらしいわよ!いいわねえ」
母は、千尋の両親とも、せっせと懇意になり、ずっと家族ぐるみで付き合ってきた。
千尋に意地悪を言われると言っても「いいわねえ!言われてみたいわっ」と嬉し気にする始末だ。なら変わってほしい。
千尋くんが高校が離れてもなお家に来るのは、まかり間違っても私が好きとかじゃなくて、いじめる相手がいなくてつまらないからだよ、そう思う。中学まで、同じ学校だったけど、風花は、まともに友達ができたためしがなかった。それが、千尋が、さりげなく皆を誘導していたと知ったとき、絶対に別の高校に行くと決めた。
幸いと言うべきか、千尋と同じ高校には落ちたので、すんなり離れられた。けれども、代わりに、毎日のように家を訪れるようになった。
「お前がひとりでやっていけるわけない」とは千尋の言だ。否定できない自分が、ひたすら情けない。
「はあ……」
今日の分の宿題やって、予習して……もう、気が遠くなりそうだった。