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#32 嵐の夜

 低気圧の接近は、予想よりも早かった。

 東から湧き出した黒雲は太陽を追うように西へ拡がり、氷のような雨が風速二〇メートルの風に撹拌かくはんされている。

 待機室の扉が開き、防音の室内に嵐の音が入り込んだ。ソファで新聞を広げていたリナルドが顔を上げると、そこにいたのは海軍支給の黒いカッパをずぶ濡れにしたアマンダだった。


「他のメンバーは?」


 ソファーに座ったマットは、アマンダを一瞥いちべつしただけで何も答えず、読みかけのコミックに目を落とした。

 それを見たリナルドは「マーフィーとネリアは部屋だ。バンクロイドは知らん」と面倒くさそうに答えた。


 仲間の死には慣れているはずだった。デラムロ軍のUAVの機動に翻弄され、一発必中のミサイルを打ち込まれ、多くのパイロットが命を散らしてきた。

 しかし、胡散臭い隊長に招集されてこの部隊に来てからは連戦連勝。これまでの鬱憤うっぷんを晴らす大戦果は味方の士気も高めたが、それを成した当人たちに至っては、もはや敵なしという気分になっていた。


 油断や慢心があったわけではない。

 しかし、あの“クラウドブレイカー”とかいう反則兵器の攻撃は、例え来るとわかっていても、どうにかなるような物ではなかった。

 だが、それよりも大きな問題は、仲間の戦死に気持ちが落ち込むのをコントロールできない事だ。そうリナルドは考えていた。


「ちょっとばかり、勝ちに慣れすぎたかな」


 そう自嘲してアマンダを見つめる古強者ベテランの瞳には、自嘲の色合いが強かった。


「勝ち慣れるのは、別に悪いことじゃないでしょ」


 コミックに目を落としたままのマットの物言いには、わずかな棘があった。


「これまで散々に苦しんできて、ようやく勝ち目が出てきたんですよ。あのバカみたいな空中要塞もやっつけたし、簡単な作戦なんてひとつもありませんでしたよ。それを生き延びたんだ、自信を持っちゃいけませんか」

「……そうだな」

「そうですよ」


 取り成すようなリナルドの態度が、子供扱いをされたように感じて気に入らないのか、マットは再び黙り込んだ。


「この状態では、敵もしばらくは動かないと思う。今のうちに休んでおいて」

「ああ」


 兵士には慰めも気休めも必要ない。それは各々が折り合いをつけるべき事だ。

 水をしたたらせたままのカッパを再び着込で、アマンダは待機室を出ていった。



 潜水艦を撃沈した。しかし、姑息な奴らをしたたかに打ちのめしてやったという気分は直後に霧散し、義弟フランクを殺した敵のミサイルから隠れるように、地を這って帰還した。


 マーフィーは、バイザーを上げて滲む涙を拭わなければ着陸もできなかった。機を降りるとその場で吐いた。恥も外聞もなく、声を上げて喚きながら胃の内容物を地面にぶちまけ、そのまま自室に逃げ込んだ。

 身体は鉛のように重いが、待ち望む眠気はやって来ない。血走った目で天井を睨みながら、頭の中には昔の記憶が取り留めもなく渦巻いていた。


 フランクとその姉のノインは、マーフィーの家の隣に住んでいた。年齢の近かった三人は何をするにも一緒で、町の住人には本物の兄弟だと思っている者もいるくらいだった。

 エレメンタリーもミドルもハイスクールでも三人一緒は変わらず、フランクは一学年下だったが友人はすべて共通で、三人は常にその中心にいた。


 成長し、思春期を過ぎてもそれは変わらなかったが、マーフィーは美しいノインに恋をした。

 実はそれは子供の頃からの事だったのだが、隠せていると思っていたのはマーフィーだけだった。「そいつは意外」と知らぬふりを貫いたフランクの応援を得てプロポーズに成功したマーフィーが、ふたりと本当の家族になったのは、二〇歳の時のことだった。

 マーフィーとフランクは憧れていたパイロットになった。海が好きだったノインは、港湾職員になった。

 そして、戦争が起きた。


 何度も何度も、同じ記憶が繰り返される。別の事を考えようとしても、目を閉じていても開いていても、子供の頃から最後の休暇までの映像と音声が、いま目の前にある事のように、しかし断片的に浮かび上がる。

 欠片は消えないまま、その上に次の欠片が重なっていく。のし掛かってくる記憶の重みに、マーフィーはベッドの中で身をよじった。



 兵舎の私室に戻ったネリアは、フライトスーツを脱ぎ捨て、シャワーで汗を流す間もずっと考えていた。


 コンビを組んだヘックスは、良き夫であり良き父だった。実際に妻と子供がどう思っているかを確かめる術はなかったが、少なくとも本人はそうありたいと願い、また努力もしていた。

 ネリアには今のところ、結婚願望というものがない。より厳密には、相手もいないのに結婚だけを夢見るタイプの女性ではなかった。

 そんなネリアにとって、ヘックスの尽きることの無い家族自慢はいささか以上にわずらわしいものだった。しかし、コンビとして共にいる時間が多い以上は、仕方のないことだと思っていた。


 しかし最近では、特に話をする事もなく会話が途絶えた時には、ネリアの方からその話題に水を向けるようになった。何せヘックスは、妻と子供の話をさせておけばよく喋る。あの痩せぎすで怜悧れいりな印象のエースパイロットが、控え目ながらも口元をほころばせて目尻を下げるのが、どこか面白く感じるようになっていた。


 シャワーから出ると身体を拭き、下着だけの姿で短い黒髪にドライヤーを掛ける。部屋着のスウェットを着てコーヒーを淹れ、上に何も置かれていないデスクの前に座る。

 まだこの部屋には来たばかりで、私物はまだ荷解きも済ませていない。だが、デスクの引き出しに海軍支給のレターセットと、ボールペンが入っているのは知っていた。


「見てくれ、これが妻と娘だ」


 そう言って見せられた携帯端末の画面には、腕を伸ばして自撮りをする妻のエレンと、エレメンタリースクールの制服を着た娘のカレンが写っていた。

 薄いブラウンの髪は、陽の光が透けて天使のように輝いている。エレンはレンズに向って優しく微笑み、カレンは何か気に入らないのか、不機嫌そうな上目遣いだった。

 その名を呼びながら、ヘックスは死んだ。

 ふたりには軍からの死亡通知が届くだろう。妻はもちろん、娘ももう、父の死の意味を理解できる年齢だろう。

 エグゼールかあるいはアマンダが、お悔やみの手紙を書くかも知れない。しかし、それは形式に則った以上のものにはならないだろう。

 このアッセンブルに来てからの短いコンビだったが、その中では最も多くの時を一緒に過ごし、その散り際を目前で見ていた自分こそが、ヘックスの最期を伝えるべきだとネリアは思う。

 しかし、どれだけ考えても、何をどう書けば良いのかわからない。愛した夫と父親を失った彼女たちに、どう言葉を掛ければ良いのかわからない。

 デスクの上の便箋を睨んだまま、ネリアはペンを握る事すら出来なかった。



 吹き荒れる冬の嵐が、ゴム引きの雨がっぱの裾を力任せにバタつかせる。目深にフードを被っても雨粒が顔を濡らし、氷のような寒さにむき出しの手を刺されながら、アマンダは格納庫へ向かった。

 ニコルがいるとすれば、そこに違いないと思った。まさかとは思うが、そのまさかをするのがあの男だという確信があった。


 格納庫の扉を開くと、やはりニコルはそこにいた。高い天井からの青白い照明が、爆装したストームチェイサーだけを浮かび上がらせている。整備兵の姿は見えず、ニコルは一人で機体にコンプレッサーのホースを繋ごうとしている。

 ずぶ濡れのカッパを床に投げ捨て、つかつかと歩み寄ってくる上官を見て、ニコルは面倒なのに見つかった、という顔になった。


「何をしているの」

「出撃準備ですよ」

「そんな命令は出してない」

「でしょうね。俺も受けてません」


 こちらを見ようともせず、翼下に装備された空対地ミサイルの安全タグを外す。そのニコルの肩をアマンダが掴んだ。


「やめなさい」

「お断りです」


 ようやく振り向いたニコルの顔は、アマンダが初めて会った、僚機を失ったばかりのあの時と一緒だった。


「どうしようと言うの」

「あのランバージャックとかいうデカブツに一発お見舞いして、“クラウドなんたら”ってミサイルの射出機ランチャーをぶっ壊す」


 チョロいもんですよ、と呟くニコルの胸ぐらを掴んだアマンダは、声が感情的になるのを抑えられなかった。


「それでフランクとヘックスの仇を討とうって言うの? あなたも死ぬのがオチだわ!」

「別にそんなつもりはない。それに、俺の命をどう使おうと勝手でしょう」


 両手でフライトスーツを掴み、濡れた額に髪を張り付かせたアマンダの目を、ニコルは正面から見据えた。


「あの二人は腕は確かだったが、運が無かった。理由はどうとでもつけられるだろうが、とにかく運が無かった。ツキ(・・)に見離されたと言ってもいい」


 冷淡と思われるかも知れないが、それだけの事だ。いいパイロットだったが、ただの仲間だ。仇がどうのというほど、深い付き合いがあったわけじゃない。

 だが、あの化け物を放っておけば、さらに多くの味方が死ぬ。次は俺かも知れないし、あんたかも知れない。航空戦力がこれ以上の損害を受ければ、もう多分、戦局を巻き返すのは不可能だ。この戦争は負けで終わる。だからあいつは、何としても仕留めなくちゃならない。


「とは言え、みんなで仲良く攻撃しても、勝てる見込みはないでしょう? そこでこのお出掛け日和びよりを利用しないはありませんよ。違いますか?」


 この嵐ならば敵は迎撃機を上げられない。レーダーも効かず、ならばあのクラウドブレイカーも役に立たない可能性が高い。

 そこに一発お見舞いするのが、ニコルの計画プランだった。


「だから、ひとりでピクニックへ行くって、そういうわけ?」


 戦闘機が飛べないと言うのなら、それはこちらも同じことだ。暴風雨の中での夜間攻撃など、およそ正気の沙汰ではない。アマンダは、ニコルのフライトスーツを握り締めた。


「まさか、ジャグの奴を付き合わせるわけにはいきませんしね」


 ピクニックに水筒は付き物だが、ジャグは人工知能だ。上位者からの命令が無ければ、離陸どころか発進の準備も自分じゃできない。ついでに言えば、お目付け役のベルベットがそれを許すはずがない。


「それとも、少佐が付き合ってくれますか?」


 そう言って肩を竦めるニコルに、アマンダはなおも詰め寄る。


「命令よ大尉。ヘルメットを置いて、大人しく次の作戦を待ちなさい」


 アマンダが腰の拳銃を抜いた。両脚を開いて両手で構え、ニコルの身体の中心に狙いを定めた。


「そんな豆鉄砲に、俺がビビるとでも?」


 自分を追う銃口を気にも留めず、ヘルメットを掴んで歩き出したニコルが壁のスイッチを操作する。

 ウインチが作動して、格納庫の巨大な扉がスライドしていく。

 立つことすら覚束おぼつかないほどの風と、打ち付ける雨がアマンダを襲った。夜の空は暗雲に覆われ、灯火制限で外灯も誘導灯もないソルベラミ基地は文字通りの闇に覆われていた。


「もう一度言う。ヘルメットを置きなさい、大尉」

「もう一度言います。お断りだ」


 ニコルがコックピットへ上がるステップに足を掛ける。エンジンを始動してコンプレッサーとの接続を切れば、そのまま誘導灯もない暗闇の滑走路から飛び立つつもりだ。


 アマンダは、手にした拳銃を自分の首に向けた。それを見て、ニコルの動きが止まった。

 突風にあおられる濡れたブロンドに、雷光に照らされた凄絶な美貌に、最初に出会った時と同じ、|引き金を引くのを躊躇わない本気の目に、ニコルは動きを縛られた。


「……わかりましたよ、俺の負けだ。銃を降ろして床に置いて、こっちへ滑らせてください」

「まだよ、ステップを降りて格納庫の扉を閉めなさい」

「オーケー。要求は飲むから落ち着いて」


 深く、長い溜め息。両手を挙げて降伏の意を示したニコルは、不承不承という感じで上官の要求に従った。


「人質を取るなんて卑怯でしょうが。軍人としてあるまじき行為ってやつだ、それは」

「よく言うわ。軍規違反の常習者が」


 毒気と巻き添えに闘争心も削がれたニコルが、やれやれと天を仰ぐ。ホルスターに銃を戻したアマンダは、勝ち誇るように顎を上げた。

 自分の命は軽くても、それが他人の、しかも女の命ならばそうはいかないだろう。意地の張り合いで勝ったのはアマンダだった。


「あなたが焦る気持ちも分かるけど、私たちのボスはこの程度で白旗を上げるほど可愛い男じゃないわ」


 それがどのようなものであれ、エグゼールに腹案がある事が分かっている。参謀本部から送られてきたランバージャックとクラウドブレイカーのデータをジャグに解析させているのを、アマンダは知っていた。


「オーケー、今回だけは特別に(・・・・・・・・)引き下がりますよ」


 ところで、さっきのあれは本気だったのかと呆れるニコルに、アマンダの顔は得意気だった。


「もしあれが芝居って言うなら、パイロットよりも女優の方が向いてる」

「どうかしらね。種明かしをしてしまったら次も同じ手を使えないでしょ?」

「味をしめられちゃ困るな」


 どこからか持ってきたタオルを差し出すニコルが笑うと、濡れ髪を掻き上げたアマンダが珍しく笑顔を浮かべた。雨で化粧が溶け落ちたせいか、その顔は普段より少しだけ幼く見えた。


「お世辞だけは、ありがたく受け取っておく」

「参ったな。図々しさでも勝てない」


 ふたりは格納庫を出た。突風に襲われてよろめいたアマンダは、ニコルの腕に支えられながら、雨の中を歩き出した。

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