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#28 Knockout

 侮蔑を隠そうともしないニームの顔を目の前にして、あの日のことを思い出したアマンダの口から反駁はんばくの言葉は出てこなかった。


 航空母艦✕一、巡洋艦✕二、駆逐艦✕八隻が大破または航行不能となり、辛うじて撃沈をまぬかれたのは駆逐艦一隻のみ。六〇〇〇名を超える乗組員クルーが戦死し、港湾設備への甚大な被害と共に民間人にも死傷者が出た。


 断末魔の母艦から飛び立って一機の敵すらも撃墜できず、部下を死なせ、味方の艦が炎と共に沈むのを、ただ見ている事しかできなかった無力感が、昨日の事のように蘇ってくる。


「基地司令はお前らにえらく好意的だが、ここにいる全員が同じだと思うなよ」


 アマンダに転属の打診があったのは、それから三ヶ月が経ってからの事だった。

 山地に籠もって近寄る部隊を迎撃するだけの敵を相手に、母艦を失った海軍飛行隊の出番は無い。

 一向に攻めてこない敵を警戒してのパトロールに日々を過ごしていたアマンダは、エグゼールの招きに応じてアッセンブルの副隊長を拝命した。


 アマンダと同じく“ロード・リーリング”に所属する飛行隊の小隊長だったニームは、演習の成績を争っていた頃から、何かとアマンダに突っ掛かる男だった。

 あの空襲の後も、自分の部隊が上がっていれば被害を減らせたと言ってはばからず、全滅はアマンダの落ち度と吹聴して回るような小物だった。

 だが、これからこのソルベラミ基地を拠点にして活動するためには、いま波風を立てるのは得策ではない。

 だが、そうして感情に蓋をするアマンダの努力は、次の一言で霧散した。


技量うでよりルックス目当てで副官を選んだんだろうが、エグゼール大佐も俗っぽい男だな」



技量うでよりルックス目当てで副官を選んだんだろうが、クルカルニ大佐も俗っぽい男だな」


 アマンダが右手に持ったグラスを左手に持ち替えた。

 同時にニコルがビールの瓶をテーブルに置いた。

 諦めの溜め息を吐いて、ネリアはそっと目を閉じた。

 この世にはあんなイヤな男が存在するのかと、嫌悪よりも驚きの目でニームを見ていたベルベットの視界を、飛び出す影が横切る。

 ホールの中央にいたリナルドは、その服を掴もうとして間に合わなかった。


 静まり返った士官食堂に破裂音が響いた。

 一〇メートルは離れた向かいの壁際まで、ニコルが跳んだ。左、右と交互の踏み込みを一度のみで距離を詰め、体重と慣性を乗せた右ストレートが海軍少佐の横面を弾き飛ばした。アマンダは握った右拳をまだ構えてもいなかった。


 白目を剥いたニームが体をピンと伸ばして倒れる。両の眉を吊り上げたニコルの視線が、その取り巻きを撫で斬りにした。

 乱闘になるか。気性の荒いパイロットたちが、仲間を殴られて黙って引き下がるとは思えない。リナルドを始めとして、マットとベルベットを除くアッセンブルのパイロットは、臨戦態勢をとった。

 しかし、そうはならなかった。


「ニーム少佐!」

「動かすな、医者を呼べ!」


 殺すつもりで殴った。ニコルが放ついつわりのない殺気は、ニームの味方であるはずのソルベラミのパイロットたちに、殴り返すどころか闘争心を抱くことすら許さなかった。

 彼らも兵士だ。勇猛果敢をもって鳴る海軍の男だ。多少のいさかいや殴り合いなど恐れる物ではないが、しかし本当の殺し合いとなると話は別だった。

 しかも殴られたニームの行為は決して擁護に値せず、それに軽率にくみした後ろめたさが、艦載機乗りたちの気勢を削いだ。


「済まない、バンクロイド大尉。収めてくれ」

「……」

「済まなかった」


 一撃で失神に追い込まれたニームは、鼻と口から血を流して痙攣けいれんしている。その脇にひざまずいて状態を確かめていたニームの同僚の大尉が、ニコルを見上げて謝罪した。

 黙したままで拳を解かず、それただを見下ろすニコルは、一切の誤魔化しのない懇願を二度までも受けて、ようやく拳をほどいた。


 ホールの中は、水を打ったように静まり返っている。

 仲間を中傷されて気に入らないのは分かる。戦友がいわれのない侮辱を受けて、黙っていられないのも理解できる。しかし、それに対する報復の度合いが常軌を逸している。営倉入りならまだしも、怪我人が、まして死人が出れば軍法会議にもなりかねない。

 何もそこまでしなくても――あまりにも後先の事を考えないニコルの行動に、その場の全員が啞然としていた。


「あんなもんよ。あいつを怒らせたら」


 しかしその場で唯一人、ネリアだけがそのニコルを知っていた。事の良し悪しはさて置き、あれは昔からそういう男だった。敵に回せばこの上なく厄介で、味方にするにも扱いづらい。

 しかしだからこそ、世界の誰が敵になってもこの男だけは手の平を返さないと、理屈を抜きに信じられる。


 一度仲間と認めた以上は、味方に付くのに理屈も利益も必要としないのがニコル・バンクロイドという男だ。その判断に、この場合もあの場合もありはしない。

 仮にこの件でアマンダに落ち度があったとしても、やはりニコルはニームを殴っただろう。

 ネリアはそう確信していた。


 鼻を鳴らしたニコルが、開いた右手を一振りして部屋を出る。出掛けにビールを一本、掴んでいった。次にアマンダが出て行くと、そこでようやく医務室の軍医が駆けつけて来た。


「オレに腕が無いのが悔やまれる」


 ジャグがそう呟くのを、ギョッとした目でベルベットが見た。



 ホールを出たアマンダが、錆の浮いた鉄扉を開いて屋外へ出ると、外はすでに日が落ちている。

 いまだに敵の本格的な襲来が無いとは言え、最高レベルの警戒態勢が布かれた基地が灯火を制限しているせいで、冬の夜空には一面の星が輝いていた。

 ほんのわずかに潮の香りを運ぶ風を心地よく感じながら歩くと、ニコルは滑走路脇の手摺てすりに寄りかかっていた。


「余計なお世話だったわね。ニコル・バンクロイド」


 アマンダは、その隣に並んで手摺に背中を預けた。


「失礼しました。でも、少佐が殴るよりは良かったと思いますよ」

「そうかしら」


 そう言って思案する振りをしたアマンダは、白い溜め息とともに「そうかもね」と言葉を切る。

 彼女は、ニコルに何を言うべきかを悩んでいた。

 まずは感謝か。ニコルが手を出すのが半瞬でも遅ければ、ニームを殴ったのは自分だっただろう。

 それとも行き過ぎた行為への叱責をか。いつまで経っても軍人としての秩序を軽んじるその性格を、いつもの調子で諭すのか。

 立場も評価もどこ吹く風で、己が命まで物のように扱う危うさを。自分が我慢に我慢を重ねていたものを、いともあっさり台無しにした蛮行を。人のことを救っておいて、恩に着せるでも悦に入るでもないその仏頂面を。すべてまとめて、何様なのかとなじってやりたい気もする。


 考えれば考えるほど悪口しか湧いてこない。

 では、どうして自分はニコルを追いかけたのか。それを考えて、急に自分が可笑しくなったアマンダは、腰のポケットから潰れてれた箱を取り出し、安物のライターでタバコに火を付けた。

 深く吸い込み一気に吐き出す。本当に疲れた時、月に一本吸うかどうかのタバコは、とうに湿気ていて味は良くない。


「パイロットがタバコとは、少佐も人間でしたか」

「ひとの事を何だと思ってるの」


 心肺機能が命綱のパイロットとして、喫煙は褒められた行為ではない。しかし、久し振りのニコチンを摂取したお陰で、アマンダの気分は少し落ち着いた。


「俺にも一本下さいよ」

「進んで共犯者になってくれるなんて、優しいのね」


 仲間を見つけた悪童の笑みを浮かべるニコルに、アマンダが箱を差し出す。

 ソフトケースの中で曲ったタバコ。それをくわえたニコルが「火、借りれます?」と首を少し傾けた。

 アマンダの動作はスムーズだった。身を引く隙も与えずニコルの首に腕を絡ませると、肌の熱を感じる距離まで頬を寄せた。

 ニコルがフィルターを吸うと、曲がったタバコに火種が移った。


「意外?」

「意外だらけですよ、今夜は」


 細く煙を吹きながら、小さなほくろのある目尻を下げてアマンダが微笑む。その顔を見たニコルは頭を振ると、こきり(・・・)と首を鳴らした。


「……飲み直しますか? まだ早いですし」

「そうね」

「……」

「誘っておいて、そんな顔をしないで」

「明日は弾道ミサイルでも降ってくるか、と」


 肘で脇腹を突かれて「痛え」と笑うニコルをおいて、アマンダはスタスタと歩きはじめた。

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