#2 アマンダ・マーゴット
普段は袖を通さない軍服と少々の着替え、何度も読み返しているペーパーバックと、これも何度も見返している映画のディスクが数枚。それらをワンショルダーのバッグに詰めると、荷造りはそれで終わりだった。
特に挨拶をするような相手もいない。転属の噂を聞いたであろう士官たちの好奇の目を無視して宿舎を出たニコルは、指定された駐機スポットに向かった。
春になったばかりとは言え、陽光を遮るものの無いアスファルトの上は暑い。滑走路の上には薄く陽炎が揺らめいている。
フライトスーツの襟を開いたニコルがぼんやりと待っていると、迎えのターボプロップ機は定刻通りに到着した。オリーブグリーンのずんぐりした連絡機で、垂直尾翼には「〇六〇」の文字が描かれている。
滑走路の反対側から高速で進入し、急旋回で速度を落とす――コンバットピッチで滑走路に進入した機体は、まるで滑り込むように着陸した。
最近では滅多に見掛けなくなったベテランの手並みに、ニコルは思わず「へぇ」と感心する。
技量の立つ者から死んでいく。勇気のある者が早死にするのが戦争だ。UAVとの空戦で多大な損害を出し、深刻なパイロット不足に陥っている空軍で、これだけの腕前を持つ者は希少だった。
誘導路をタキシングした連絡機が駐機場に停止すると、待ち構えていた地上クルーが車輪止めをはめて給油を開始する。
機体の横腹にあるハッチが開いて、降りてきたパイロットは女性だった。タラップを軽い足取りで降りつつヘルメットを脱ぐと、オイル臭の混じる風に蜂蜜色の髪が靡く。色の濃いサングラスの下から現れたのは、成層圏を映したようなブルーの瞳だった。
「第〇六〇特務強襲飛行隊のアマンダ・マーゴット少佐です」
一部の隙もない敬礼をするアマンダを見て、地上クルーが口をぽかんと開いた。
ニコルも、思わず呆気に取られた。しかし、自分を見つめる青い瞳に非難の色が浮かぶのを見て、慌てておざなりな敬礼を返した。
「さっきの着陸、中々やりますね」
ニコルからすれば、腕が良い――しかも女優なみの美人パイロットに対する賛辞だった。仲良くやろうという気持ちで発した言葉だったが、しかしアマンダは眉間に皺をよせた。
「まずは申告をなさい。上官に対する口の効き方がなっていない」
「ああ、失礼しました。ニコル・バンクロイド中尉です」
好意を撥ね付けられた瞬間、ニコルの眉間にも皺がよった。しかし、これは自分が悪かったと頭を掻いた。
それを遠巻きに見る地上班はいつもの事と呆れたが、金髪碧眼の少佐は眉を吊り上げた。
「命令軽視の上に僚機を失った貴方がお咎め無しなのは、我が隊から声が掛かったからよ」
腕が確かなのは戦績を見れば理解できる。困難な戦況からも必ず生還する生存性も評価できる。ただし、軍隊という組織にあって命令は絶対だ。
それを疎かにすることは、我が隊では許さない。
そう断じるアマンダの言葉に、一度は引き下がったニコルの眼つきが険を帯びた。正論を叩きつけられるのには慣れているが、アイクの件を持ち出さるのは面白くない。
「軍規が怖くて戦闘機乗りが務まるか」
叱責に対しての反抗どころか、規律を嘲るようなニコルの態度。
それに対して、レッグホルスターから拳銃を抜くアマンダの動作は、ハンカチを取り出すようにスムーズだった。撃鉄は既に起きていて、照準と同時に安全装置を解除している。
「跳ねっ返りのパイロットひとり躾けられなくて、空軍将校は務まらない」
誘導路から滑走路へ入った戦闘機が、離陸へ向けてエンジンのパワーを上げる。高まるタービンの金切り音が耳を圧する。
ピタリと眉間を狙う自動拳銃の黒光りと、その向うにある青い瞳を見れば、これが脅しでないのがニコルにはわかった。
男社会の軍隊で、女と侮られれば後はない。軍人としての正当な評価を放棄して、お飾りの将校となることを良しとしない。
目の前にいるのが、そういう種類の相手だと気が付いたニコルは、相手が引き金を引くのを躊躇わないと理解した。
戦闘機が離陸した滑走路に静寂が戻った。
五メートルの距離で睨み合うふたりを取り囲む、整備員の誰かが喉を動かした。
「ニコル・バンクロイド中尉、着任いたします。失礼はどうかお許しください」
「了解よ、中尉。この件は水に流しましょう」
ふっと息を抜いたニコルが踵を合わせ、非の打ち所のない敬礼を施した。
それに頷いたアマンダが銃口を下げると、息を詰めて成り行きを見守っていたギャラリーたちもホッと息をついた。
「燃料の補給が済んだらすぐに離陸よ。操縦は任せても?」
「もちろんです。マム」
ニコルは肩を竦めた。
「おっかない女ですね。少佐は」
足元のバッグを担いで機に向かうニコルの肩を、アマンダがポンと叩いた。
その時はじめて、微笑む彼女の目元に小さなホクロがあるのに、ニコルは気がついた。
「貴方は面倒くさい男ね。中尉」
エンジンが軽快な音を立ててプロペラを回す。午後の太陽にキャノピーを光らせて、連絡機が動き始める。それを見送る地上クルーは、どっと疲れた様子だった。
※
アマンダの方でも、ニコルが銃口に怯んで態度を変えたとは思ってはいない。自分の技量に自信を持つパイロットとして、敬意を向ける相手を選ぶ男なのだと理解していた。
階級社会の軍においては厄介者だが、力関係に折り合いが付けば、優秀なパイロットになるだろう。
とは言え、銃を向けたのはやり過ぎだったかも知れない。何事もなくてホッとしたというのが本音だった。
《こちらコントロール、離陸を許可する。幸運を、バンクロイド》
《ありがとうよ、世話になった》
管制塔と交信したニコルがスロットルを開く。
その心地よい加速とともに、アマンダはようやく肩の力を抜いた。
「中尉、さっきは言い過ぎだった。謝罪するわ」
「水に流した話でしょう」
「それとこれとは……」
「構いませんよ。俺も悪かった」
舌の根も乾かぬ内にという感じで敬語を省いたニコルを、アマンダは追求しなかった。
操縦桿を握る不良パイロットは、前を向いたまま小さく笑って話を逸らした。
「それより、何するんです。〇六〇ってのは?」
「詳しいことは戦隊長からブリーフィングがあるわ。でも、いま言えることは……」
「ことは?」
「まず、手当たり次第に敵を叩く」
「それで勝てますかね。この戦争に?」
傑作とばかりにニコルが笑った。
高度を上げ、針路を西へ向けた連絡機は基地の上空をフライパスしていく。滑走路の脇に並ぶ格納庫の中には、まともに飛べる機体はほとんど残っていない。それがアストック空軍の現状だ。
「勝てるわ」
それでも、アマンダの自信と覚悟は虚勢ではない。ジョークでもなければ誇大妄想でもない。
この戦況でこんな事を言う者は、余程の自信過剰かイカれていると笑われても無理はない。仮に誰かがそう言っていたならば、自分も笑うだろうとアマンダも思う。
しかし、それに続いたニコルの反応は、アマンダの想像したものとは違った。
「そいつはいい。俺にも借りを返したい相手がいるんでね。好都合です」
ニコルはそう言って、口元をニヤリと歪ませた。獰猛な笑みだった。
それを見たアマンダは、わずかに胸の奥がざわめくのを感じた。