#14 ベルベットの憂鬱
牧草地に点々と散らばる羊の群れが、呑気に草を食んでいる。麦藁帽子の少年が、退屈そうにそれを眺めている。和らいだ陽射しのなか、草地を渡る風には、砂ぼこりとわずかなオイルの匂いが混じっていた。
草のざわめきを圧して、ジェットタービンの金切り音した。轟々と吹かされるエンジンの音に続いて、鏃のように尖ったシルエットが少年の上を駆けぬける。
少年は帽子が飛ぶのも気にせず、掲げた杖を左右に振ってそれを見送った。
※
ニコル機の整備から一時的に解放された整備兵たちは、各々に休暇を過ごしていた。
久し振りの惰眠を貪る。忙しさにかまけてサボっていた部屋の掃除をする。録画していた再放送の連続ドラマを一気に観る。
SNSを開けば、家族や友人が自分を気遣う言葉の数々が放ったらかしていた事に胸を痛める。
草原の只中の基地では、街に繰り出しての気晴らしは望めない。しかしそれでも、彼らは任務からの開放感を存分に満喫していた。
機体は戻っても、撃墜した敵機の破片を浴びるなどの損傷はある。仮に無傷で戻ったとしても、チェックすべき項目は山ほどある。
超音速戦闘機は繊細な兵器だ。大雑把な仕事をすれば、そのせいでパイロットが死ぬ。
割り当てられた四機の機体をやり繰りしても、ローテーションは崩壊し、格納庫の中で仮眠を取るハードワークに、彼らは困憊していた。
「バンクロイドが休暇を取る!」
あり得ない頻度で飛び出していくエースパイロットを支え続けた彼らは、ようやくにも訪れた休みに歓喜した。その場で床に膝をついて、泣き出した者もいた程だった。
その一方、部外者の立ち入りを禁じられた格納庫では、昼夜を問わずの作業が続いている。
小銃を構えた警備兵に守られた密室の中で行われているのは、大袈裟でなくこの戦争の行方を左右するN.A.R.P計画の最終段階――ストームチェイサー三号機の“ブロック2”へのアップデートだった。
※
身体能力が高く、どんなスポーツも人並み以上に熟す。頑健な肉体と心肺能力維持のため、ジムでのウェイトトレーニングと一〇キロのロードワークは欠かさない。
そして、それ以外の時間は自室に籠もるのが、ニコルの余暇の過ごし方だった。
金のかかる趣味を持たず、実家への仕送りをする以外にほとんど散財しない。そんなニコルの唯一の贅沢が、映画と電子書籍のサブスクリプションのプレミアム契約だった。
本音を言えば、書籍は紙が望ましい。映像作品もパッケージをズラリと並べたい。
しかし、いつ空に散るとも限らない身としては、遺品整理の者に手間を掛けるさせるのも、趣味嗜好を他人に知られるのも嫌だった。
「俺とコンビを組むなら、最低限これには目を通せ。そうでなければ魂が通じない」
そのニコルが、自室に持ち込んだジャグに課したのは、彼のお気に入り映画のマラソン鑑賞だった。
「お前なら、不眠不休でも平気だろ?」
「これは人にとって、拷問や洗脳と呼ばれる物では?」
ジャグの率直な疑問を、拷問吏は一笑に付した。
「生きていくのに必要な事は、本と映画が教えてくれる」
ジャグに足りないのは空戦技術でなく、それを行う人間への理解だ。とある状況に置かれた人間が、何を思ってどのように行動するかをシミュレーションするのに、映画に勝るものはない。
本能と理性を対極に置くならば、人間は〇と一のデジタルではありえない。しかし目の前の人間からそれを学ぶには、様々のバイアスがノイズになる。
「その点、作品内のキャラクターはその人物像において完全だ。リアルよりもリアリティーに学べ」
「これまでの僚機にも、同じような事を?」
「アイクは元々、似たような趣味の奴だったんだ」
殺風景な男の私室で、それだけは金が掛かったディスプレイ画面の中に映画会社のロゴが映し出されると、それまでの能弁が嘘のようにニコルは沈黙した。
相棒が滔々と語る信念が、論理的に正しいかどうかの判定は、ジャグにはできない。
しかし、それを質せば高確率でニコルが怒り出すという演算結果を得た人工知能は、黙って映画を見ることにした。
※
ベルベット・マーベルは寝起きが悪い。
アラームの時間は五時にセットしてあるが、それを停止してから一五分後には別のアラームが鳴る。
電子音の波状攻撃に耐えながら、それでも二〇分から三〇分は微睡んでいるのが常だ。
その日も、たっぷりとグズグズした後でようやく上半身を起こしたベルベットは、サイドテーブルにある携帯端末のスリープを解除してフリーズした。
「……は?」
目を眇めて端末の画面を睨む。我が目を疑って裸眼だったのを思い出し、黒縁の眼鏡を掛けてもう一度見る。
仰天した彼女は、文字通りに飛び起きた。そしてそのまま、部屋も飛び出した。
※
司令部棟と格納庫の間にあるアーチ上の建物。男性用兵舎の中央を貫く通路の両側には、無個性なスチールの扉が並んでいる。
「ちょっとニコルさん! バンクロイド大尉! ボクのジャグに何をしてるんですか!」
しんと静まり返る廊下に、けたたましいノックの音が響いた。
ニコルの部屋のドアを激しく叩きながら甲高い声で叫ぶベルベットは、タンクトップにショートパンツという部屋着のままサンダルをつっかけ、ベリーショートの黒髪にはブラシも入れていなかった。
「何だ朝っぱらから。ルームサービスは頼んでないぞ」
建物の防音機能はジェットエンジンの騒音の中でも兵の睡眠を保証するが、内部の騒音までは防げない。億劫そうなニコルがドアを開いた時には、すでに何名かの隣人が騒音の被害を受けていた。
「何だじゃありません! ジャグに何をしてるんですか!」
「何って、仲良く映画鑑賞だ。この後、ふたりでマカロニチーズを作る」
ニコルが言った事は、半分は嘘ではない。ただし、全てを伝えてもいなかった。
ニコルとジャグ。二人で黙って作品を観たその後には、ここがいい、これがいいと、ニコルのマニアックな講釈が始まる。
他の作品との比較や分析、極めて個人的な想いも含めて語られるそれは、ともすれば映画そのものの情報量を超えていた。
そんなものを延々と聞かされるのが、一般人には耐え難い苦痛であるのは論を待たない。それが人工知能に同じ負荷を与えるかはともかく、昨夜のジャグの活動記録は明らかな異常値を記録していた。
あらゆる状況を想定して備えた大容量の記憶領域は、初期データにこれまでに学習したデータを加えても、全体の二割程度しか使用していなかった。それが昨夜だけで五パーセントの増加を示し、プロセッサーの稼働率も跳ね上がっている。
「映画なんて、何十本ダウンロードしてもそんな容量にはなりませんよ!」
「そいつは素晴らしい」
観るだけなら誰にでもできる。しかし、問題はそこから何を学ぶかだ。虚構を虚構と認識した上で、それを模擬演算させる。類推と推測を重ね、一つの事柄から複数の価値観を獲得させる。
データの増加がそれを裏付けている。自らの目論見が成功していると知ったニコルは、満足気に頷いた。
「笑い事じゃありませんッ!」
ベルベットの目には、そのニヤけ顔が邪悪に映った。
やはりこの人にジャグを預けるべきではなかった。大佐の意向がどうであろうと、断固として拒否すべきだったと後悔した。
しかしこの期に及んでは、これ以上の狼藉からジャグを救い出すのが先決だった。大切なものを守るため、無知蒙昧の野蛮人に対して、若干二〇歳の女性技術者は敢然と立ち向かった。
「ジャグを返して! 今すぐ!」
どうにか部屋に押し入ろうとするベルベットを阻んで、両手を拡げたニコルがドアの前に立ち塞がる。露わな肌に触れないように、野蛮人はそれなりの気を使った。
その攻防を見物するギャラリーが徐々に増え始めた。始めは迷惑そうにしていた彼らだったが、いまは他人の痴話喧嘩と、ベルベットの部屋着姿を楽しむ態勢に移行している。
「とにかく、この件は大佐の許可があっての事だ。文句があるならそちらを通せ」
巧みなディフェンステクニックを披露しながら、問答無用と斬って捨てるニコルに、壁を突破できないベルベットがぐぬぬと唸る。
「それに、いつまでもそんな格好でここにいるのは良くないと思うぜ」
ふと我に返ると、怒りに紅潮していたベルベットの顔が、今度は羞恥で赤くなった。
振り向くと、廊下に並んだドアから覗くは無数のニヤケ顔が見える。
引き攣ったような短い悲鳴を漏らした天才エンジニアは、ペタペタと鳴るサンダルの音を残してその場を逃げ出した。
※
パイロットだけで戦争は戦えない。
戦闘機の運用とそれに伴う施設管理は、多大な人員を必要とするため、仮設と名のつく第一九基地でも、そこに勤務する人員はゆうに六〇〇〇名を超えている。
一度に四〇〇人の食事を賄う食堂は、整然と並んだテーブルと天井で光る蛍光管が遠近感を感じさせるほど広く、シフトによって働く職員たちによって、常に賑わっていた。
娯楽の少ない前線基地では、食事を一番の楽しみにする者も多い。それに加えて最近は空襲の頻度がが減った事もあり、食事を摂る職員の表情も明るかった。
目を充血させたニコルがふらりと現れて、配膳台の列に並んだのは、午前一〇時を過ぎてからだった。明らかな徹夜明けで、常から良くない目つきが輪をかけて悪い。
特大のハンバーガーと炭酸飲料をトレーに乗せて、もはや指定席となっている奥の席へ陣取ると、遠巻きにした者からの視線が集まった。
良くも悪くも、彼は基地の有名人だった。
そこにやってきたベルベットがニコルの対面に座ったのは、もちろん偶然ではない。食事の時にはここへ来るはずと、彼女は待ち伏せ戦術を選択したのだった。
昨日の模擬戦騒ぎに続いて、今朝の兵舎での「痴話ゲンカ」はすでに多くの基地職員に拡散されて、ベルベットも有名人になっている。ニコルが来たら教えて欲しいという彼女の頼みを、厨房係の若者は快く引き受けた。
「しつこいぞ、ベル」
ベルベットの「追い詰めた」という顔を見て、ニコルは心底げんなりした。
「ジャグに会わせて下さい!」
ベルベットの声を無視して、目の前にはある特大ハンバーガーを攻略し始める。
「ジャグと話をさせて下さい!」
「ちょっと待て」
恋人を囚われた乙女のようなベルベットの物言いに、ニコルは思わず咽た。
「あんたがジャグにご執心なのはよく分かる。仕事熱心も良いけどな」
肌見放さず水筒を持ち歩き、そのクセ自分は基地の人間との関わりを避けている。パイロットを始めとして、ジャグが今ひとつ基地の人間と馴染まないのは、ベルベットにも原因がある。
「子離れのできない母親じゃあるまいし、いっつもオフクロ同伴じゃあジャグはダチも作れないぞ」
「……」
ベルベットが黙りこくる。その瞳に涙が溜まるのを見て、食事をするニコルの手が止まった。
「……ごめんなさい」
傷ついたような、そしてその事を責めるようなベルベットの眼差しが、眼鏡の奥からニコルを見た。
反発したい気持ちはある。言いたい事は山ほどある。自分がいつもの調子でやり返すのを期待しての会話なのは、ちゃんと分かっている。
しかし、謝罪の言葉が口をついた。噛みつく心が急に萎えた。
飛び級で大学を卒業したベルベットは、研究者になった。人工知能開発の俊英として、その分野の中では名の知れた存在になった。
いっぱしの技術者を気取り、周囲の反対を押し切り、意気揚々と前線基地に乗り込んだ。しかし、思い通りにはならなかった。
年長者とのコミュニケーションには自信があったが、ここではまるで子供扱い。これまでの自分が、単にチヤホヤされていただけの世間知らずと思い知った。
この基地に来てから、心が安らぐのはジャグと話をしている時だけだった。それに依存していると言われれば、否定はできない。
「最悪ですよ」
ベルベットは、ニコルの事が嫌いだ。
無愛想で何を考えているのかわからない。戦闘では無茶ばかりする。初めてまともに話した時は、興奮と緊張で涙が流れた。
しかし、そのニコルがジャグの学習効率を上げた。実力を認めさせて孤立を解消し、ストレスを取り除いた。
「よりによって、ですよ」
身勝手で横柄なパイロットが、自分の一番苦手なタイプ男が、絶対に恋人にはしたくない野蛮人が、ジャグの相棒として最も頼りになるという事実。
ベルベットは、それがムカつく。
「俺にも傷つく心があるんだぞ」
「その言葉、そっくりそのままお返しします」
ボクの事を子供扱いしたくせに。
鼻を啜るベルベットに睨まれながら、ニコルは食事を再開した。
「しかし、それが泣くほどのことか」
「……そういう所ですよ」
著しいデリカシーの欠如。言わなくても良いことを、わざわざ言う。
人見知りを指摘されて悔しかった。図星を突かれて惨めになった。これではダメだと分かっていても、どうにもならない事がある。だから、ベルベットは言葉に詰まり、涙が出た。
「そんなに淋しけりゃ、今朝の格好で基地内を歩けばいい。一躍人気者になれるだろうよ」
咀嚼したバーガーを炭酸で流し込んで、ニコルはフンと鼻で笑った。ベルベットは朝の兵舎を思い出す。顔が赤くなるのに反比例して、潤んでいた瞳には職業病のドライアイが戻ってきた。
「やっぱりサイテーですね! そんな事はどうでもいいので、早くジャグを返して下さい!」
「そうはいかない。未だあいつは道半ばだ」
迷惑顔のニコルが、食事を済ませて席を立つ。食器をカウンターに戻す動作も素早く、一刻も早い食堂からの離脱をはかる。
ベルベットがそれに追いすがる。
逃がしてなるものかと纏わりつく少女は、アクティブ・レーダー誘導のミサイルよりもしつこかった。
キャンキャンと吠える声は遠ざかり、ふたりを遠巻きに見物していた者たちは、自分の食事を再開した。