#1 ニコル・バンクロイド
かすれるような薄雲に、ふたつの機影が走っている。三角翼機特有の鋭角的なフォルムは、MRF−17C“バラクーダⅢ”のものだ。
アストック空軍第五七航空団第一〇八戦術飛行隊“フェンドラル”に所属するニコル・バンクロイド中尉と、僚機のアイク・ディーガン少尉は、進出してきた敵UAVの迎撃任務を終えて帰投中だった。
《なあアイク、明日は休暇だ。久々にオリバーの店で一杯やろう》
《オリバーは店じまいしてアスタビラに引っ越しましたよ。確か先週です》
《逃げ出したのか、あの親父》
《また前線が下がりましたからね》
《くそ、あそこん家のミラは俺に惚れてたんだぞ》
《じゃあ、そのせいかも》
高度三〇〇〇メートル。雲の下では砲火が閃き、引っ切りなしに爆発が起こっている。友軍の戦車が燃え上がっているのを見たニコルは、バイザーの中で眉をしかめた。
《こちら三七戦車中隊。敵の長距離砲に狙い撃ちされている。後退の許可を乞う》
《HQより三七。後退は許可できない。繰り返す。後退は許可できない》
《損害が増している。このまま前進すれば全滅する!》
眼下の部隊と司令部との通信を聴いて、ニコルは溜め息をついた。ひと仕事を終えた機体の残弾計は、二〇ミリが一五〇発程度。ミサイルはない。
《ヘイ、アイク。そっちの残弾は?》
《機銃二〇〇、ミサイル無し。やるんですか、先輩?》
ニコルの問いかけへの僚機からの返信は、スピーカー越しにも呆れた風に聞こえた。航空戦技アカデミーの後輩であるアイクを、ニコルが無茶に付き合わせるのはいつものことだった。
《ちょっと寄り道だ。人助けは尊いぜ?》
《そんなこと言って、また撃墜数を伸ばそうって魂胆でしょうが》
《俺らが一機墜とせば、死ぬはずだった誰かが助かる。そうだろ?》
《確かに》
危険と感じればキッパリと反対する後輩がそうしないのは、何だかんだでノリ気な証拠だ。ニコルはそう判断した。
《フェンドラルよりHQ。これより三七を支援する》
《勝手なことをするな。フェンドラルは速やかに帰投せよ》
《心配するな。観測ドローンを追い払うだけだ》
《心配などしていない。また命令に反する気か?》
《こちら三七だ。フェンドラル、恩に着る!》
風防越しにハンドサインを送り、機体を捻った一番機が逆落しにダイブすると、二番機もそれに続く。
雲を突き抜けるとそこは地獄だった。戦車と装甲車両は遮蔽物のない平原にでたらめな轍を描き、それに随伴する歩兵たちが砲火と黒煙から逃げ惑っている。
被弾した車両が上げる煙をぬって飛ぶ物体。ライトグレーの細い機体と水平に伸びる翼を持つデラムロ軍のUAV――無人航空機は、アストック軍の者から“ドラゴンフライ”の名で呼ばれている。
その人工知能が指定したポイントに、同じく人工知能がコントロールする野砲が一五五ミリ榴弾を叩き込む。誰から死ぬのか、その順序は機械の気分次第だ。
《敵機視認、フェンドラル交戦開始》
《了解。かましますよ、先輩》
ニコルの合図とともに、速度を上げたアイクが敵機目掛けて突っ込んでいく。
それを察知した敵機が回避行動に移る。
エンジンを吹かしてパワーを上げ、生身のパイロットには耐えられない荷重を掛けた急旋回。これがUAVが得意とする戦術だ。
その急機動に人の操る機体は追随できず、背後を取られて多くの仲間が撃墜――殺された。
アイクの突進をやり過ごして背後に回り込もうとする敵の、さらに背後をニコルが取る。
急機動中の相手は、それ以上の回避機動を取れない。
照準に捉える。トリガーを絞る。一五〇発の機銃弾が吐き出されるのに、一秒も掛からない。
蜂の巣になったトンボは爆発もなく四散した。
バラバラと舞い落ちる破片がぼやけた陽射しを反射する。それを見ながら、ニコルは操縦桿を引いて機首を上げた。
ついでのひと仕事も終えて、今日は美味いコーヒーが飲める。
そう気を抜いた、その瞬間だった。
《後方警戒!》
切迫したアイクの声に、ロックオン警報のけたたましい音が被る。
フレアをバラ撒きながら、ニコルが左へ急旋回したのは、とっさの判断というよりは反射に近かった。
機体の右を掠めるように飛び去るミサイルを見て、しかし冷や汗をかく暇もない。背後を取った敵はピタリと貼り付いていて離れず、ジグザグに飛んでも振り切れない。
その動きを見たニコルは、これは無人機ではないと直感した。
「こいつは、かなりの腕利きだ」
UAVが戦場の空を支配するようになってしばらくがたつ。生身の人間と戦うは久しぶりだというのに、反撃の手段がない。
どうにか振り切って逃げ延びるか、敵の背後を取り返してビビらせるか。生き残るにはどちらかしか無い。肝心な時に丸腰という状況に舌打ちしながら、ニコルは機体を操った。
しかし、敵機は隙を見せずに接近してくる。
こちらを狙う機関砲の銃口が見える。敵がトリガーの指に力を込めれば墜とされる。
《先輩、右に回避!》
声に反応したニコルが操縦桿を倒すと、アイクの二番機と正面からすれ違う。一瞬の交差の中アイクの顔が見えた。そんな気がした。
《ひとつ貸しですよ》
真正面からの一騎打ち。しかし敵の発砲がわずかに早かった。
キャノピーが真っ白にひび割れ、主翼とボディに弾痕が走る。
そして、爆散。
脱出などする余裕などない。ジェット燃料のやけに赤く眩い炎が薄雲を照らし、すぐに黒煙に覆われた。
「アイク!」
反転して反撃。体当たりをしてでも後輩の仇を討つ。その衝動を抑え込んで、ニコルはスロットルを全開にした。
砕け散る相棒の機体をミラーに見ながら、真っ直ぐに逃げ出した。
犬死にはできない。相棒の犠牲を無駄にはできない。
だが、頭を過ったその言い訳を即座に振り払う。理屈が許しても、感情が自分を許さなかった。
《くそっ! バカ野郎!》
アイクが最期に放った銃弾は命中していた。翼から細く煙を吹いた敵機は、ニコルを追撃する素振りを見せない。
《なんだ、逃げるのか?》
通信の向こうで、かすかに嗤う気配がした。低い男の声だった。
暗号化された通信にどうやって割り込んだのかはわからない。だが、これが敵であることをニコルは直感した。
《この借りはいつか返す》
反転したいという衝動に歯を食いしばり、ようやく発した言葉に敵は応えない。
《待ってろ。この空のどこにいても、必ず見つけ出す》
《楽しみにしているぞ》
そのひと言を最後に通信は切れた。消火剤の霧が翼を舐めて、煙の収まった敵機が機首をひるがえす。
黒く塗られた双発の大型機。デラムロ王国の制空戦闘機“ナバレス”は、尾翼に描かれた黒い犬のマークを見せびらかすように、大きく旋回して戦域を離れていく。
ニコルは、己の敵をその目に焼き付けた。
友軍の増援が今更のように到着する。そのタイミングの遅さに歯軋りしながら、ニコルは基地へと機首を向けた。
薄暗くなり始めた戦場の空を一直線に横切る飛行機雲は、パイロットの気持ちと無関係に美しかった。
煤とオイルに塗れた地上の兵は、羨むようにそれを見上げていた。
※
「はぁ、転属……ですか」
基地に戻るなり基地司令のオフィスに呼び出されたニコルは、初老の大佐の言葉を鸚鵡返しにした。
怪訝な表情を隠しもしない部下に向かって、大佐は必要最低限の要件だけを淡々と伝える。
「奪われたままで膠着した航空優勢を奪還するべく、空軍に特殊任務部隊が新設される」
各航空隊の戦績上位者による少数精鋭。方面軍の指揮下には入らず、指揮系統は参謀本部の直轄ながら、作戦では事実上のフリーハンドを与えられたエリート部隊。
本日一五〇〇には迎えがくるので、私物をまとめておくように。
話は以上と言わんばかりに司令が放ったファイルの表紙には「第〇六〇特務強襲飛行隊」の文字に「極秘」のスタンプが重なっていた。
仏頂面でそれを拾い上げるニコル。デスクに座る基地司令は眼鏡を押し上げ、生意気な部下を睨み上げた。
「通称は“スペシャルオーダー”だそうだ。ご大層だな」
たった数機の戦闘機隊で、戦局が変われば万々歳だ。嫌味を隠そうともしない上官の声を聞きながら、ニコルの顔はしらけ切っている。
「精々、微力を尽くしますよ。大佐殿」
話は終わった。右目だけを細めて笑ったニコルは、敬礼もなくオフィスを出た。