6.楽しい時間
リンファの見る夢は、いつも暖かい霧の中
夢の中のリンファは、いつものように大木に向かって技を打ち込む
その音はどこか軽やかだ
そんなリンファの稽古を、先生と呼ばれる老人は嬉しそうに見つめていた
「いいことがあったのかな、拳がまるで歌っているように軽やかだぁ」
その言葉にピクリと反応するが、動きを止めず稽古を続けるリンファ
緑の耳がちょっとだけ赤く染まっているように見える
赤い血など流れていなくても、そう見えるくらい上機嫌だ
「うん、つらいことばっかりだったけど、ミナが変わらずげんきだったんだ」
「そうかぁ……よかったねぇ……」
「お母さんが言ってた通りだ、いやな事ばっかりじゃないね
嬉しいね、すごく嬉しいよ先生」
言葉を返さず、静かにリンファを見つめる
「先生……?」
いつも優しく話してくれる先生の雰囲気とかけ離れた空気に、思わず手を止めるリンファ
「リンファ、君の拳は自由だからね」
「……?」
「君はお母さんの言葉を守って、人として真面目に誠実に生きようとしてる、それは実に立派だぁ」
そういう先生の瞳が、ほんの少しだけ曇ってるように見える
「でもね、君は君の感情に素直になってもいいんだ、憎んでもいい、恨んでもいい、降りかかる理不尽に怒り狂ってもいいんだ」
先生がリンファの拳をそっと握り、優しく包む
「君の拳は、君の為にある 自由の拳なんだ」
「どうしたの先生……?」
その先の話をもっと聞きたかったリンファを、真っ白な霧がリンファを包み、真っ白に世界は消えて行った
朝になり、リンファが目覚める
夢の事は何も思い出せないけど、すごく気分がいい
疲労のせいか頭が重いけど、体はすごく軽い
この数日、生活を一変する事件がたくさん起きたはずなのに
リンファの心はすごく楽になっている
「ミナ…昔のままだった」
ミナがあの頃と同じように優しかった
それだけのことでリンファは救われたような気分になったのだ
別室、アグライアがきしむ体をむち打ちゆっくりと起こす
傷口の包帯がうっすらと赤く染まっている
ウンザリしながら自身に回復魔法を唱え、傷口をいやす
体力が限界ならこんな傷完全に治癒できただろうが、心身共に疲弊している状態の為回復もままならない
傷を治すためには魔力が必要で、魔力を回復するには体力が必要で……
一刻も早く騎士団に連絡を取りたいというのに体がまともに動かない
今の最善の行動はベッドに伏せ休息をとることだという事実に気分が落ち込んでくる
「ミナ…あの女、底知れない不気味さがある……」
ミナがガルドと接触する前に先手を打ちたい
リンファと呼ばれるあの異形の化け物を神の命にしたがって打ち滅ぼしたい気持ちは変わらないが、ミナの思い通りにさせるのは危険だと感じている
わが身の不甲斐なさを呪っていると、ノックが部屋に響き、ミナが入ってくる
「アグライアさん!朝ごはんだよ!リンファはもう席に着いてるから早く来てね!」
昨日のあれは夢だったかと思えるほどに朗らかな表情のミナに、アグライアは気持ち悪さを感じずにはいられない
食卓に並ぶパンと干し果実、そして薄味のスープ
ミナが話し、食べ、コロコロと笑う
つられてリンファも笑う
食事が終わってそそくさと片付けに入るミナを見て慌てて片付けようとするリンファを
ミナが笑いながら止める
「疲れてるんだからリンファは休んでて!」
何かしなきゃとそわそわと机を拭くリンファを見ていたずらっぽい笑顔を見せるミナ
それにつられてリンファも笑う
アグライアは何も言わず、事務的に食事を口に運んだ
食後、別室でアグライアの包帯をミナが取り替える
丁寧に傷口を洗浄しながら、ミナが静かに話す
「神聖騎士団の皆さんはまだ王都には戻っていません 明日にでも私が状況を報告しに行きますね」
ミナは口元に薄ら笑いを浮かべるが、その目はまるで笑ってない
「その必要はない、傷が治れば私がアレを引き連れて本国に戻る」
「それじゃ遅いんですよね、その間にアレが逃げたらどうするんですか?」
しゃべりながら爪が食い込むほど傷口を強く押さえるミナ
激痛に表情が歪むアグライア
「本当は一刻も早く行きたいんですけどね、怪しまれて逃げられても困るし」
ミナがアグライアの耳元で囁く
「それに、楽しい時間があったほうが奪われた時の絶望が深くなりますもんね」
リンファは屋根に上ってボロボロの板を打ちつける
せめて雨漏りしないようにくらいはしておきたいと修繕にいそしむ
作業をしながら視線をうつすと、眼下に村が広がる
木造の家、煙、子どもの声
「お母さん…ここにいたんだ…」
ふと、自分の手を見つめる
緑色で、ゴツゴツで、猛禽類みたいな長い爪
人間の手とはあまりにかけ離れた、自分の手
『君の拳は自由だよ』
誰が言ったのかもわからないけど、この言葉だけがやけに心に残る
「自由ってなんだろう……?」
そんなとき、下からミナの声が聞こえる
「リンファ!水汲み行こう!」
嬉しそうな笑顔にリンファも笑う
「びっくりさせてやれ」
そう思いながら屋根から跳ぶ、ふわっと着地
ミナが目を丸くし、笑う
「びっくりした!リンファ、かっこいいね!」
リンファはえへへと照れ笑いをせずにはいられなかった
二人は水汲みの為に村はずれの川へ向かう
井戸が使えたらよかったんだけど、あの建物の井戸は枯れてしまっていて使えないらしい
道中、村人の視線が刺さる
「穢れ…」「化け物…」
肩を縮めるリンファに、ミナが笑う
「気にしないで!私がいるよ!」
川から帰ってきた二人は汲んできた水を井戸のそばの汲み置き用の樽に移し替える
その水にミナが浄化の魔法を唱え、滅菌する
そつなく魔法を使いこなすミナにリンファは思わず見とれてしまう
「どうしたの?じーーーーっとこっち見ちゃって?」
「あ、あぁ ごめん ミナがすごいから見とれてた」
「すごい……?」
「うん、ミナはすごいよ!明るく元気で、一生懸命で、僕を今も助けてくれる」
言いながら恥ずかしくなってきたのか、だんだんと早口になってしまうリンファ
「そのかっこよくて強いところ、すごく憧れる! 僕もミナみたいになれるように前を向いて頑張る!」
まるで告白の様な言葉の強さ
リンファは自分が理解できなくて顔が熱くなってしまう
「み、水!どんどん移しちゃうね!」
背中を向けたリンファに、ミナはやさしくゆっくりと話しかける
「リンファには私が強くて優しく見える?」
「うん、ミナがいるから、僕頑張れるよ!」
「ねぇ、リンファ」
変わらない口調、優しい言葉
ミナの目がどす黒く濁る
「私を勝手に強い女の子にしないでくれるかな?」
リンファが首を傾げる
「え…?」
その刹那、リンファに炎が炸裂
緑の肌が焦げる、絶叫が響く
基礎的な勉強もまともにしていない村娘の魔法など本来であれば大した威力にはならないが
魔法耐性のないリンファの体は瞬く間に燃えていく
「あああああ!!!!」
のたうち回りなんとか火を消し止めるが、激痛が体中を襲う
やっとの思いでミナを見ると、見たこともない冷たい表情で見つめ返してくる
「すごーい、本当に魔法に弱いんだ、枯れ草みたいに燃えるのねぇ」
あの優しい声
「明日まで我慢しようと思ったのになぁ、あまりに腹が立ってやっちゃった」
腹が立った?僕が何か怒らせてしまったの?
「もういいや、こういうのは他人任せじゃなくて自分の目で見届けないとね」
リンファの言葉を相手にもせず、軽やかに枯れ井戸の蓋を無造作に投げ捨てる
井戸の奥には無数のゴブリンの死体が乱雑に積み重なり、腐り果て悪臭を放っていた
ゴブリンだったものの膨らんだ腹が裂け、腐敗ガスが噴き出してもいる
それに向かってミナはためらいもなく火の魔法を唱え、放ち投げ込む
井戸の奥に溜まっていたゴブリンの死体から発していたガスが火と風の魔法にあおられ
醜怪な臭いとどす黒い黒煙をあっという間に立ち昇らせた
その匂いに気づいたゴブリンの影が森中からうごめき、村に走る
「ミナ、どうして……?」
焼け焦げた緑の拳に、血が零れ落ちた―――
「リンファも、村のみんなも、私も、皆死んじゃえばいいんだ」