261.安堵と後悔
どこを見ても白い、まるで自らの姿すらも白くなって消えていくような感覚をうけるその場所にアバカスは帰ってきた
ゴブリンクイーンの城から離れた雪深い森の中、緊急用に設置されたゲートにたどり着いたアバカスの表情は暗く沈んでいた
道すらも見えなくなっている豪雪を、まるでゾンビのようにゆらゆらと力なく進む
足にまとわりつく雪はアバカスの体温に反応してわずかに融け、湿った雪は容赦なく体温を奪っていった
アバカスの胸中は嵐のように荒れ狂っていた
わずかな安堵と、それ以上の後悔でまともな精神状態ではいられなかったからだ
長年使い古してきた手術器具がガチャガチャと音を立てる
ずっと使い込んできたこの道具が、今日はやけに重い
愛着などない、何度も投げ捨てたくなってきたその道具を忌々しく抱える
けれど今日はこの道具で誰かを救えたことを、情けないことに喜んでいる自分がいた
それが情けなく、みじめで仕方なかった
雪対策の魔法すらも使わず歩くアバカスの足はやがてまとわりつく雪に負けて体勢を崩す
地面に倒れ込み全身に雪をまとわせながら、アバカスはとうとう立ち上がる気力すらも失いかけていた
「あぁ…… もうなんでもいい……」
容赦なく奪われていく体温に、意識が急速に失われていく
だがそれに危機感すらも感じないほどにアバカスは何もかもどうでもよくなっていた
真っ白い雪に沈み込み、身じろぎしないアバカス
だがそれを許しはしないといったように、突如のその身は強引に引き起こされた
「……邪魔するなよ、ソード」
「行き倒れているのかと勘違いした、すまない」
感情なく悪態をつくアバカスに、ゴブリン=ソードことリーフは悪びれる様子もなく頭を下げる
だがそんな謝罪とは裏腹にリーフはアバカスをそそくさと雪から引き揚げ、その冷え切った体を魔法で温めた
「やめろよソード……あぁくそ、意識がはっきりしてきやがった のどの渇きも空腹も主張してきやがる」
「蜂蜜だけは持ってきたが、どうする?」
「嫌なことを言いやがる、やっと生きる気力とやらが萎えてきたところだったのに……」
リーフはアバカスに肩を貸すように歩き、座れそうな場所まで少し強引に移動させる
まだ少し気怠そうなアバカスをよそにリーフは積もった雪を払い、その地面を焼き温めると敷布を敷いてアバカスを座らせた
リーフの行動にアバカスは観念したのか、水魔法にて水球を作り出すとそれを炎の魔法で包み込み沸騰させる
「……コップは持ってきたか?」
「すまん、蜂蜜しか持ってきてない」
「お前という奴は…… 手が離せんから私のカバンから何か適当な器を出せ」
どこか安心したようなあきれ顔でアバカスは湯を沸かす
リーフのしっかりしているようで抜けているところに、アバカスは何度も救われていることに当の本人は気づいていない
「……使ったのか」
緑の血の跡がありありと残っているメスを目にして、リーフは言った
「……あぁ、使った 元々その為に人間の巣に危険を冒して忍び込んだのだからな」
「殺したのか……いや、殺したからと言ってどうということはないのだが」
その言葉とは裏腹に、リーフはその顔に影を落とす
かつて自分が過ごした場所の、さらに見知った人間が手にかかったかもしれないという事実にわかりやすく感情を見せた
「安心しろ、色々と事情が重なってな……それを使いはしたが誰も手にはかけていない」
「そ、そうか! ……どういうことだ? 手術器具を持って行ったのは解剖の為だったんじゃ……」
「そのつもりだったんだがな ……ルイとリオ、だったかな? この名前に覚えはあるか?」
「リオとルイに何かあったのか!?」
その名を出した途端ここ最近見せたことのない焦った顔を見せるリーフに、アバカスは心の中でわずかに笑う
『こいつの根っこはやっぱりこういう優しさなのだなぁ』とわずかに安心せずにはいられなかった
「そう焦るな、順を追って話す」
「あ、あぁ……すまない……」
アバカスはこみあげる苦笑を必死にこらえながら沸かしたお湯をリーフが用意した容器に注ぐ
その容器がまさかの膿盆で、苦笑が声を出した笑い声に変わってしまうのをこらえきれなかった
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「そうか……そんなことがあったのか」
暖かい蜂蜜湯を膿盆ですすりながらリーフは呟く
「あぁ、だから結果として緑の民を解剖する必要はなくなった 情けないが命を奪わずに済んでホッとしているよ」
アバカスも同じく膿盆で蜂蜜湯をすすりながら答える
ちなみに膿盆はちゃんとアバカスが指定した未使用の物なのは言うまでもないだろう
「私は勝手だな……人間を殺すと決めたのに、かつて過ごしたあの仲間たちを殺すことには躊躇している」
「お前はそれでいい、むしろそうであってほしいと思っている……それにこれは私自身の独断だ 意味など持たぬ私の興味で殺そうとしたのだ 許してほしくはない」
アバカスは舌が火傷するほどに熱い蜂蜜湯を口にしながら、小さくため息をつく
アバカスは安堵していた、そして安堵する自分に嫌悪していた
人間の巣に危険を顧みずに忍び込んだのは、ほかの大陸から飛翔島に移り住んできた一族『緑の民』を解剖し、その生態を確認する為
だから使い慣れた大量の手術器具を持ち込み、そのターゲットを探していたのだ
その民と親交のあるリーフからわざわざ青いバンダナを借り受け、警戒心を払拭させたうえで凶行に及ぶつもりだった
クイーンの命令でもなければ、ゴブリンとして必要な行動でもなかった
アバカスが個人的にその緑の民の生態を知るために独断で行動し、さらにその命を一方的に奪おうとしていたのだ
「きっとアバカスはできなかったさ」
「それをしようと行動した時点で同じだ、私は自分が愚かしくて情けない」
忌むべき相手だとて、何の理由もなく私利私欲で殺すなどあってはならない
それを超えればもはや人間と戦う意義すらなくしてしまう……アバカスはそう考えていた
ゴブリンらしからぬ思考だと自覚はしていたが、そのうえでアバカスはその心を捨てきれずにはいられない
「……それで、ルイの体を見てどう思った」
少し躊躇いを見せた後、リーフは意を決してアバカスに問いただす
それを知るためにアバカスは飛翔島に忍び込み、リーフはアバカスの目的を聞いて協力までしたのだ
沈黙が辺りに漂う
降り積もった雪は辺りの音を奪い、耳が痛いほどの無音が世界を包む
アバカスは目を伏せ、リーフは息を飲む
そして不意に木の枝に積もった落ちた音が響いたとき、アバカスはわずかに目を開き、口を動かした
「私の見立てにしか過ぎないが、緑の民はきっと――――」
雪深い森は、その言葉を飲み込み二人の声すら消し去った
アバカスのその事実を知ったことによる後悔の叫びも
それを聞いたリーフの呻くような怒号も
誰かから隠してくれるように、白く深い雪はその音を奪い去ってくれた――――




