2.初めて握る拳
「え、ゴブリンクイーン……?なにそれ、僕は何も……!」
「皆の者を、聖なる火を放て!」
先ほどの日常の平穏を真っ赤に焼きながら、神の使いが何もしていないリンファに襲い掛かった
ガルドの声が響き、光の波動が木々を薙ぐ
人を救い導く神聖の魔法が何の罪のないリンファとその母の家を思い出ごと焼いたのだ
爆発と混乱の最中、息も絶え絶えにリンファは逃げ惑った
炎が森を照らし、家が崩れる音がする
騎士団は家どころか森全てを焼き尽くす勢いで魔法を放っていた
なぜ突然こんなことになったのかリンファには当然理解できない
ただわかることは、母と過ごした家が思い出ごと灰になっていること
冥界からの使いの様なあの集団が、自分に明確な殺意をむけているということ
逃げなければいけない、なんとしても
リンファは奥歯をガチガチと鳴らしながら森の奥に逃げ込もうとする
「おかあさん……助けて……!」
神聖騎士団が意気揚々と神の名のもとに放った火は森を焼く
火に巻かれ逃げようとするリンファの前だったが、その包囲から逃れることはできず
無情にも騎士団とガルドはリンファの前に立ちはだかった
「見つけたぞ、異形のゴブリン……穢れの化身め」
「け、けがれ……!?」
「この地を穢すゴブリンクイーンの眷属よ、神のしもべたる我々の剣に貫かれよ!」
ガルドは剣をくるりと持ち直すと、刃をリンファに向ける
「その汚らわしい緑の血を大地にまき散らせ!」
躊躇なく振り下ろされる刃をなんとかかわそうとするも、かわし切れず頬を裂かれる
逃げ道を探すが、騎士団員が一斉に囲み、行く手を塞ぐ
「お母さん…助けて…!」
子どもの命乞いに応えるのは、神の使いを名乗る者たちの鍔鳴りのみ
リンファが絶望に胸を締め付ける中、さきほど進言した副官アグライアもその鍔鳴りを響かせる
「これが眷属……人の様な瞳をしているが……いや、惑わされはしないぞ!」
「神の祝福を我らに!神の怒りを穢れに!」
抵抗もまともにできない少年に、神を名乗る集団の刃が一斉に襲い掛からんとする
その時森の奥から巨大な獣がその火に追われ騎士団の前に現れる
この森に住まう捕食者の上位種である魔獣の重い咆哮が炎を揺らした
黒い毛皮に、赤い目
鎌のように湾曲した牙と、鋭い爪が地面を抉る
軍馬を一飲みできそうな巨体が、棲家を焼かれ怒りの形相で騎士団に襲い掛かった!
「下賤な魔獣め……我らは神の使いであることがわからぬか!?」
神は地に住まう万物の生物の父であり母であると騎士団は定義している
少なくともガルドはそれを疑ってない
その神の命で森を焼く騎士団の邪魔をする者は獣ですら存在しないと本気で信じているのだ
ガルドが剣を構え、檄を飛ばす
「諸君!この神に逆らう獣も異形もろとも焼き尽くせ!」
リンファからターゲットに魔獣に切り替える騎士団
しかし魔獣の咆哮が地面を震わせ巨大な火球となり、騎士団に炸裂する
数人の騎士団員が炎に包まれ、陣形が崩れる
魔獣が木々を根こそぎ引き倒し、怒りのままに暴れる
リンファはその光景に逃げることも隠れることもできず、腰を抜かし呆然としてしまう
膝が笑い、言う事を聞かない
アグライアがガルドに叫ぶ
「隊長!陣形の再編を!」
「ふざけるな!押し返せ! 下賤な獣一匹何するものぞ!」
その声に反応した魔獣がガルドを睨みつけ飛び掛かる!
「なにぃ!?」
「隊長、危ない!」
アグライアは咄嗟に魔玉剣から光の障壁を展開しガルドをかばう
だが魔獣の爪がその障壁を貫き、アグライアに直撃する
「うああっ!」
その一撃に耐え切れずアグライアは勢いよく吹き飛ばされ、木に叩きつけられる
アグライアの白と赤の制服が血に染まり、意識をなくす
混乱の最中、リンファはボロボロにされたアグライアと魔獣に交互に見る
魔獣は獲物の血の匂いに敏感で、一度ターゲットを定めたら捕食できるまで狙う事をリンファは知っていた
魔獣が血の匂いを感じ、喉を震わせながらゆっくりとアグライアに近づく
爪にこびりついたアグライアの血をなめながら、魔獣は怒りと興奮で徐々にその速度を増す
魔獣がアグライアに襲い掛かろうとするまさにその瞬間
リンファがそのアグライアの手を掴み、無我夢中で漆黒の道なき道を駆け出した
わが身を狙ってきた者の命を、リンファは命を懸けて助けようとしたのだ――
ガルドは想定していない状況に狼狽していた
自分をかばったアグライアが魔獣に襲われ、穢れに連れ去られた
こんな失態はあってはならない、あってはならないのだ!
ガルドは情けなくも大声で叫ぶ
「全隊、撤退!アグライア副官が穢れを連れて逃げた!」
その突然の内容に騎士団は戸惑いをかくせない
「どういうことですか隊長!アグライア副官が裏切ったという事ですか?!」
ガルドはこの失態を自らの責任だと認めたくなかった為、大嘘を叫ぶ
「そうだ!あの魔獣は副官アグライアの裏切りによる罠だった! これ以上の被害を避けるため、我々は撤退する!」
言うや否やガルドは踵を返しながら
「案内役!特別に馬への同乗を許すから麓までの道を案内しろ!」
ひったくるように案内役を掴むと一目散に部下も置き去りにする勢いで逃げ去った
「おのれ忌々しい穢れめ……!アグライア共々この森で魔獣の餌になってしまえ」
ガルドは舌打ちしながら騎士団と共に闇の森に消えて行った
煌々と家を焼く炎が辺りを照らす森
魔獣が咆哮し、辺りの木々をなぎ倒しながらリンファ達を必死の形相で探す
リンファとアグライアは岩場の陰からその恐ろしい光景を見ていた
「お母さん…僕、どうすれば…」
形見の布を握り、ただただ震えることしかできない
そんな時意識も絶え絶えのアグライアが激痛にうめく
「お、お姉さん……大丈夫ですか?」
激痛に意識をかろうじて取り戻したアグライアの視線に信じられないものが飛び込む
「き!貴様ゴブリンハーフ!?」
咄嗟に身をひるがえすも魔獣から受けた傷が激痛で響く
「うう……!」
「う、動いちゃダメです!骨が折れてるかもしれないから!」
アグライアは耳を疑う
「ひ、人の言葉がわかるのか…!?」
血まみれの表情がひきつる
「しかも私の身を案じるだと……!?」
神の敵が自分を案じる状況に、痛みすら忘れる
「ま、魔獣は一度傷をつけた獲物の匂いは絶対に忘れないから、気づかれない間にここから逃げないと……」
ビクビクと恐れながら話しかけるリンファ
緑の皮膚と長い爪がアグライアの目に飛び込む
湧きたつ恐怖から身を守るため、咄嗟にアグライアは剣を逆手に構える
「黙れ!穢れの化身め!」
剣の柄頭に備え付けられた魔玉が光輝き、聖なる炎を顕現させる!
そのあまりのまぶしさにアグライア達の周囲が強く光り輝いてしまう
「ダメ!魔獣に気づかれちゃ……!」
リンファの制止もむなしく、その光は魔獣の視界に飛び込んでしまう
そんな言葉などお構いなしに魔法を撃とうとするアグライアを魔獣は決して見逃さなかった
魔獣がその光めがけ、巨大な火球を吐き出す
その火球に気づき咄嗟に防壁を展開するアグライアだったが
防ぎきれず吹き飛ばされる
魔獣は黒煙を吐きながらゆっくりとアグライアに近づく
その視線はアグライアに注がれ、リンファには気づいていない
『今なら逃げられる……魔獣の狙いはお姉さんだけだ……』
近づく魔獣 動けなくなったアグライア
その身をひるがえそうとするけれど、リンファの震える足は魔獣に向いていた
魔獣の唸り声が体中に絡みつく、恐怖で歯がうまくかみ合わない
魔獣はリンファに興味を持たずにアグライアになおも近づく
「やめろーーーー!」
そんな魔獣にリンファが必死に叫ぶ
魔獣の視線が、その時初めてリンファに注がれる
膝が笑って言う事を聞かない
立っているのかどうかもわからない
リンファは恐怖に震えながら、アグライアをかばい魔獣に立ちふさがる
魔獣が空を裂くほどに咆哮する
口元が赤く醜く光る
獲物を横取りしようとする小物に、怒りを覚えている
朦朧とした視線を必死に定めると、目の前には異形の獣が自分をかばうように魔獣と相対している
その事実に理解が及ばず、アグライアは呆然とつぶやいてしまう
「何故、何故逃げないんだ……!?」
魔獣を睨みつけながら、体中の震えが止まらない
「うぅ……うう~~~~!!」
リンファは泣きながら言葉にならない声で呻く
逃げたい!怖い!
自分を殺そうとした相手なんて助ける必要もない!
脳内でそんな声が響き渡る
「でも、僕は……」
お母さんが言っていた言葉が脳裏から離れない
「人として生きろ」という言葉が離れない
誰かの命を見捨てて逃げることはきっと、人の生き方じゃない!
リンファは人生で初めて拳を握った
握った拳をどこにおいていいかもわからない
殴られた事はあっても、殴ったことなんてない
お母さんが居なくなってからこわくてこわくて、ずっと逃げてきた
今だってできるなら逃げてしまいたい
でも今逃げたら、自分が逃げたことにきっと耐えられない
命惜しさに誰かを見捨てたことにきっと耐えられない!
「でも僕は、人間なんだ!!!!!!!」
魔獣の口から火球が放たれようするその瞬間、頼りなかった拳が花の様に開く
体がバネのように縮み、解放され、爆ぜる
魔力を使えぬ脆弱なその体が大地を蹴り、魔獣が気づく間もなくその腹にリンファの体が砲撃の様に突き刺さる
突き刺さったリンファの体の奥に潜む、世界に決して顕現できない閉ざされた魔力が魔獣の体の奥の魔力に共振を及ぼす
その共振はやがて魔獣の身に魔力のうねりをつくり、破砕せしめる
【魔導発勁 金剛鉄山靠】
一瞬遅れて衝撃が炸裂し、魔獣の腹は爆発四散する
巨躯が空に舞い、魔獣の断末魔が響く
やがて地面に叩きつけられ、その断末魔の咆哮が止んだ
森中の木々がその勢いで強くざわめき、やがて不自然なほど静かになる
世界中の誰も、リンファ自身も知らない異世界の技が魔獣を破壊したのだ
リンファが息を切らし、血まみれの魔獣の亡骸をみつめる
「ぼ、僕がやったの……?」
こらえきれず膝をついた時、脳内に声が響く
「練習通りにできたねぇ、やっぱりお前はできる子だよぉ」
覚えもないのに、どこかで聞いたことがある気がする懐かしい声
それについて考えたいのに、体は言う事を聞かない
やがてリンファの意識は深淵に沈む
リンファの物語はここから始まる
始まってしまった――