128.触る
「リンファ、八極剛拳の極意は触ることにあるんだぁ、強い技、するどい捌き、そういうのはそこに至る為の過程であり触ることによる結果にならなくちゃいけないんだよ」
「触る? 指でですか?」
「目で触り、耳で触り、体で触り、気で触る……って言ってもよくわかんないよねぇ、実は私もよくわかっていないんだ」
大きな大木の下で先生が豪放に笑い、リンファもそれにつられて笑う
それは温かい霧の中、リンファがあの頃唯一安らぐことのできた夢の中
そんな世界の少しだけ昔の話
そこで先生は八極剛拳という不思議な力を教えてくれた
リンファはわからないことだらけだったけど、誰かから学びを得るという事自体がとても新鮮で、とても嬉しかった
現実で石を投げられた額を先生は優しく撫でてくれる、それがとても心地よかった
「目で見ようとすれば見えず、耳で聞こうとすれば聞こえず だから体全てを使って触るという教えだよ 光りを触り、音を触り、匂いを触り、そして気を触る」
「うーん……よ、よくわからないです……」
「そうだねぇ、先生もよくわからないんだぁ でも不思議なものでね、わからないからわかるってこともある……ますますわかんないって顔になったねぇ、ごめんごめん」
両のこめかみに人差し指を付けて一生懸命考えるリンファの頭を撫でて、先生はまた優しく笑う
「光なき場所で見ようとすることはより世界を見えなくする、音なき場所で聞こうとすることはより世界をうるさくさせる 私の先生はよく口を酸っぱくさせて行ってたよぉ」
「先生の先生も言ってたんだぁ……すごい!」
リンファは先生の口にする学びに目を輝かせる
「目に頼れば見えぬ場所では枷となる、けれど全てを触れば見えぬともわかる、耳とて同じ、鼻とて同じ、皮膚とて同じ、己の全てで相手を触ることを目標とするのが今教えてる八極剛拳の極意なんだよ」
「極意……、なんかかっこいい!です」
「はっはっは、そうかい、かっこいい!かい 私もかっこいい!って思うよぉ」
リンファは嬉しそうにニッコリと笑うと、中断していた型の稽古を再開する
すたん、ぱしん、すたん、ぱしん
まだ上手ではないけれど、一生懸命で素直なその動きを見て先生は微笑む
『私もその極意の全てにはたどり着けなかったけど、私が持っているものは全て君に伝えてあげるからね』
そして
そして――――
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『光なき場所で見ようとすることはより世界を見えなくする、音なき場所で聞こうとすることはより世界を……』
光と音を奪われた世界で、リンファはかつての先生の教えを心で呟く
体中につけられた傷がズキズキと痛み、血がゆっくりと流れていくがそれでも地面についた膝を動かし立ち上がる
構えはさっきまでの左右に両手を向けたではなく、いつもの正面に向けて左手を前に差し出す構え
相手や状況に合わせた構えができれば一番だろうけど、リンファは自分がそこまで器用でないことを自覚した
だから自分が一番練習してきた一番得意な構えに戻ったのだ
「どうしたのぉどうするのぉ? どこむいてんのぉ? どこ刺してほしいのぉ?」
耳元でダガーの挑発する囁き声が聞こえる
何度か攻撃を受けてわかったが、この音は実際のところ必ずしも耳元で囁かれているわけではない
音の反射がほとんど発生しないせいなのか、それとも別の要因があるのかはわからないけど
全ての音が耳元で聞こえているとリンファは感じ取った
『音なき場所はより世界をうるさくさせる……! 』
リンファはダガーの言葉を無視して、両手の指を動かし拳と開手を繰り返す
そして小さく正拳突きを素振りをして筋肉と骨の動きを確かめる
地面を小さく踏む、足の裏に衝撃を感じる
ひかがみを少し張り、膝を曲げ、腰を落とす
筋肉と骨、スジが連動し軋む様に動くのを感じる
光なき世界でも音なき世界でも自分の体はいつも通りだ
何百回、何千回、何万回と動かしたこの体の感覚を自分は覚えている
「世界が見えなくなっても、聞こえなくなっても、僕はここにいるんだ……!」
大きく深呼吸
肺に澱んで不快な匂いのする、けれどたくさんの空気が肺に送り込まれる
そうだ、ここには空気がある
まるでこの世の生き物ではないような動きをするダガーだって、空気がなければ生きることはできない
だからここには空気があるんだ
「おいおいおいおい、急におとなしくなるんじゃねぇよ……抵抗する気力も失っちまったってのか?」
耳元で聞こえている音が突如大きく広がり何重にもハウリングをするように聞こえる
ダガーの仕業か幻聴か……そんなものは関係ない
わからないものは意識の外に追いやれ! わかるものだけで立ち向かえ!
「……ちっ、つまんねぇ」
ダガーの舌打ちしながらしゃべる音が急激に減衰し、ブツンと無音になる
無音、虚無
けれどリンファは動かない、心臓の音すらも聞こえぬほどに自分の不安定な感覚を徹底的に無視をする
刹那、リンファの脇腹が何かを触る
その感覚と同時にリンファが身を捻り下段蹴りをその触れた何かに叩き込んだ!
その脚にさっきまで感じたことのない硬質の物体が激突し、砕け散る様な衝撃が脊髄から脳に走る
手応えあり!
リンファは更に追撃で踵落としを打ち込むが、踵には何も感触は残らない
踵落としが空振りすると同時にリンファはそのまま落とした踵を軸足に切り替えて背面を大きく蹴り抜く!
足先に斬られたような痛みが走るが、それ以上に蹴りこんだ足裏が何かを捉えた衝撃が体を震わせた
「うげ……こ、こいつ……!」
耳元でダガーのうめき声が聞こえる
この音は間違いない、リンファの耳元で発せられている
だって蹴りこんだ足にまでその物体の重さが残っているからだ
リンファの蹴りがこの漆黒の空間で初めてダガーの体に直撃した!
リンファは更に追撃を撃ちこもうとするが、足先から相手の体重が消えていくのを感じ一歩下がり構えを作る
「ま、まぐれ当たりで調子にのるんじゃねぇぞ……!」
耳元でしか聞こえないはずの声が背中から聞こえる
ダガーがこちらの感覚を狂わせようとしているのがわかる
「ちがうよ、まぐれじゃない」
自分の声が届いているかどうかはわからないが、リンファはそれでもダガーに言い放つ
「一撃目は触った、三撃目は……お前ならこちらの攻撃を空振りをさせた後に絶対に背面から襲ってくると確信してたから撃ち込んだんだ」
その言葉に反応はない
反応がないのが何よりの反応だとリンファは感じる
ダガーの声は聞こえない、あの挑発するような言葉も、不安をあおる様な囁きも
あれだけ饒舌に喋っていたダガーが沈黙する
刹那、リンファの全身を強烈な光の明滅が襲う
漆黒の闇の中に突如もたらされる光は漆黒の闇に立つリンファを消し飛ばすほどに眩しい
そしてその光が輝くと同時にリンファの首元が何かを触る
リンファは光にたじろぎ事すらせず、その何かを手甲で弾き飛ばすとそのまま手首を返し掌打にて打ち込む
掌に確かな激突の衝撃が残り、わずかなうめき声を生む
「な、なんで……あれだけの光を浴びてなんで動ける……!?」
ダガーは撃ち抜かれた右肩を押さえながら困惑の表情を浮かべてリンファを凝視する
そしてリンファの表情を見て思わず驚きの声を上げてしまった
リンファは普段首に巻いているマフラーを目隠しのように巻き付け、視界を封じていたのだ
その事実と共に、その事実に気付けていなかったことにダガーは呻く
リンファと違って音も光も備えたはずのダガーが、それを奪われたリンファに不覚を取っていく
それどころか目の前のリンファは自らその感覚を封じている!
その事実がダガーの神経を逆なでした
それはリンファからすれば戦うための必死の選択だったのだが、その機微を知らぬダガーには挑発的行為に映る
「ふ、ふざけやがって……!」
ダガーが怒りで叫び、その音は敢えて外で聞くよりも何倍もの爆音でリンファに聞こえるように差し向けられる
だが、リンファは身じろぎしない、その目を塞ぎ、ダガーの位置とは明後日の方向に構えを向ける
どう考えても隙だらけで、簡単に殺せる獲物のはずなのに!
「見ようとするな、聞こうとするな、触れ、触るんだ……全身で触るんだ……!」
ダガーの悔しさや怒りなど微塵にも気にせず、リンファはただ必死にみずからの感覚を研ぎ澄ませる
正直なところ、リンファに余裕はなかった
音を捨て、光を捨てて集中することでダガーの攻撃を触ることはできた
これが八極剛拳の……先生の言っていたことだと理解できた感動も少しはあった
だがそれ以上に、その初めて芽生えた感覚を使いこなせる自信などどこにもない……
ダガーの攻撃が自分の認識と違えば、あっという間に急所を刺し貫かれて命を奪われるだろう
現に今の攻撃だってカウンターこそ取れたものの、その首元には切り傷がありありと残っており血が流れている
認識が遅れたりずれたりすればその時点で絶命の危険性がある
それでもこれで戦っていくしかないという事実はリンファの体力を急激な勢いで削り取っていく
『長期戦だとこっちが先に倒れちゃう……守ってばかりじゃ駄目だ、攻めないと!』
だが攻めるための一手が足りず、リンファは歯を食いしばる
そんなリンファの心を感じることができないダガーは、不気味で不愉快に構えるリンファに怒りを燃やした
ゴポッゴポゴポッ
音の奪われたはずの世界に不気味な音が広がる
敢えてリンファに聞こえるように調整されたその不気味な音は、重い粘液の様な何かが湧きたつ様な水っぽさを漂わせる
リンファはその音に思わず息を呑む
何故ならその音には聞き覚えがあった、嫌というほどに
「こ、この音……!」
その重い水音はその数を増していく
その音が虚なのか実なのかは判断できないが、その音の数は確実に増えていく
リンファには見えないそれは、全て実
ダガーはその懐から取り出した命鉱石をバラまくと、冥術を行使
その足元を中心に次々と人ほどの液体の何かがそそり立ち、ぬらぬらと揺れる
そしてその漆黒の液体は次々と口を開き、その口内に不釣り合いなほど不気味な真っ白い歯を輝かせる
その数、20とも30とも知れず
多くの闇の口を従わせてダガー怒りの形相をリンファに差し向けた――――




