第八話
出発の朝、オグリューは背広に中折れ帽、そしてステッキを手にして大時計台へと。既に整備を頼んだアンドレイが作業をしており、挨拶ついでに様子を見に来たのだ。
「アンドレイ、急な頼みを聞いてもらって悪かったな」
アンドレイはオグリューよりも三つ年上。しかしオグリューとお揃いになるのが嫌で、髭を剃り髪も黒く染めている。周りには富豪の相手をすることが多いから、身だしなみに気を付けていると言ってあるが、根本にあるのはオグリューへの対抗心。この歳になってもまだ、オグリューをライバル視している。
「何の用だ。俺の腕が心配になって様子でも見に来たか」
「お互い、歳が歳だからな。しかしお前の腕の心配なんぞしたことないぞ、私は」
アンドレイは高所作業中。オグリューは見上げながら会話をする。その手の動きに迷いはなく、自信に満ちた背中は何の心配もないとオグリューに思わせるには十分だった。
「邪魔したな。少し長くなるかもしれない、留守は頼んだぞ、アンドレイ」
「おい、待て。長くなるとはどういう事だ。まさかお前……」
梯子を使って降りてくるアンドレイ。既に作業服は油まみれだが、随分古い汚れのようだ。
「アーギス連邦で何するつもりだ、お前」
「おいおい、この老体に何を言うつもりだ。ただの休暇だ、旧友の舞台を見に行くだけだ」
「…………」
アンドレイは先の大戦で家族を失っている。そんなアンドレイも家族のあとを追おうとした。しかしそこに舞い込んできた、とある噂。古臭い街の、あの大時計台をたった一人で修復した男が居ると言う話を耳にした。
それがオグリューなわけだが、アンドレイにとってそれは衝撃的だった。この時計台は恐ろしく古く、今流通している時計とは違う複雑な造りをしている。これを修復するためには、相当な時計の知識が必要だ。古く貴重な時計をかき集め、解体したとしても理解するのは一朝一夕では出来ない程に複雑。
それを一人で修復したというオグリューに、アンドレイが興味を持つのは当然の事だった。思わず天国の家族に、もう少し時間をくれと言ってしまう程。
「オグリュー、お前……絶対帰って来いよ」
「なんだ、気持ちが悪いな。男に言われて嬉しい言葉では無いな」
軽口で笑いながら言うオグリューに対し、アンドレイは真剣な表情。アンドレイは危惧していたのだ、オグリューもまた、セシリア……亡き妻の後を追おうとしているのではないかと。
「……俺はアーギスの連中が嫌いだ。家族はあいつらに殺されたんだからな。あんな国によく行く気になるな、お前は」
「そう言う割には、お前はセシリアには優しくしてくれたじゃないか。アーギス出身だと知っていたのに」
「セシリアは……あれだ、気のいいババァだったから」
人の妻に向かってババァとは何事だ、とオグリューはステッキで小突きたくなるが、まあ我慢する。
「アンドレイ、私はお前のそういう所が気にいっている」
「あ? 何の話だ」
「お前は本心では本当にアーギスが憎いんだろう。その気持ちは私も痛い程分かる。今まで黙っていたが……私は帝国の兵士だったからな」
そのカミングアウトに、アンドレイは大して驚かない。オグリューの普段の素振りから、もしかしたらそうなんじゃないかと思っていたからだ。妙に姿勢が良いのも含めて。
「今更だな。なんでそんな話を今……」
「お前は一度でも、弟子にアーギスの悪口を言ったか? アーギスから遥々弟子入り志願しに来た若者を、無碍に扱った事はあるか? 私は極力お前に関わらせまいとしていたが、お前の腕の良さに惹かれて、直談判しに来た若者を幾人も弟子にしたはずだ」
「それが……なんだ」
「兵士として戦ったからこそ分かる。お前がやっている事は、どんな事よりも困難で苦しい道のりだった筈だ。しかしお前は愛情をもって彼らを育て、独り立ちまでさせた。私はな、この街がリヒタルゼンでは無く、時計街と呼ばれるようになったのは、お前のおかげだと思っている」
アンドレイはオグリューから顔を背けながら、小さく溜息。
家族のあとを何度も追おうとした男は、一人の男に惹かれてこの街にやってきた。その男を一方的にライバル視する事で、生きる目的を得た。時計に関して、唯一憧れた男。その男が自分を誰よりも認めてくれている。
「……男に言われて、嬉しい言葉じゃないな、それは」
「私のセリフを取るな」
互いに笑いあう二人。アンドレイはポケットから懐中時計を取り出すと、それおオグリューへと差し出した。それはアンドレイが大事にしてきた、息子に送った時計。戦地に赴いた息子の、唯一帰ってきた形見。
「おい、これは……」
「返せよ。大事な物なんだからな」
「……心配性な奴だ」
受け取った懐中時計を大事に背広の内ポケットに仕舞うオグリュー。この時計街を大きく発展させた二人は、爽やかに別れを告げた。
本日は快晴。
船出には絶好の日となるだろう。




