第七話
オグリューはモニカを抱っこしながら、劇場内へと進んだ。前日の公演では中途半端な演劇を見せられたにもかかわらず、多くの人間が再びこの劇団を見に来ている。
その理由は、この劇団の多くは子供であり、その大半が戦災孤児だからだろう。多少演劇が中途半端で終わったとしても、そんな可哀想な子供達のためならばいくらでも金を落としていこうと、この街に住まう富豪達は思う。
座長はその流れを予想していた。だから最後に爆弾を落とす事にした。
孤児だと舐め腐っている連中に、ちょっと反則的な本物を見せてやろうと。
「じいちゃん、あそこ、ひとつ空いてるぞ」
「あぁ、座ろうか」
モニカの座席はオグリュー自身。犬の姿で抱っこされていれば、座席は一つで問題ない。オグリューは深く座席へと座る。すると客席の壁際に座長の姿が見えた。腕を組みながら壁にもたれるように、まだ幕が上がっていない舞台を眺めている。
「じいちゃん、今日はなんの劇やるんだ?」
「あぁ、パンフレットを貰ったな」
背広の内ポケットに仕舞ったパンフレットを取り出し広げる。モニカと一緒に目を通すと、そこにはダンヴェルグの天使というタイトルが。
「ダンヴェルグってなんだ? じいちゃん」
「…………」
「じいちゃん?」
オグリューは知っている。ダンヴェルグの天使という存在を。
実際に見た事は無いが、アーギス連邦の切り札として作り出された存在。エレメンツという強化人間であり、有り得ない物と掛け合わされたキメラ。
その素体となったのは、アーギス連邦の教皇の娘。
あり得ない物というのは天使だ。天使と人間のキメラを作り出し、戦場に送り込んだ。
しかし奇妙な事に、その名は広く伝わっているのに、肝心の戦果は全くと言っていい程、耳にしない。そしていつの間にか消えてしまったわけだが、確かに実在したと証言する人間が多く存在した。
「楽しみだな、じいちゃん。天使だからラブストーリーじゃないのか?」
「……そうだな、そう願いたい」
公演の時間がやってきたようだ。客席の照明はゆっくりと落とされ、舞台の幕が上がる。
「……?」
舞台には誰も居ない。すると客席の間の通路を、勢いよく数人の白いドレス姿の少女達が駆け下りて来た。どよめく客席。だがこれも演出の一つだと理解すると、皆微笑みの表情を浮かべた。
しかし次の瞬間、凍り付いた。少女達が舞台の上に上がると、統一された動きでカーテシーを行うのだが……その舞台にいつのまにか別の人間が居た。背が高く、少女達と同じく白いドレスに身を包む女性。
長い髪は白く、今にも空気に溶けて消えてしまいそうな肌。どんなに離れた客席でも、目の前にいるかのような存在感。誰も目を逸らせなかった。逸らせば……首が胴から離れる、そう感じてしまった。
そしてオグリューは、その姿を見て驚きを隠せなかった。何故ならその顔はアンジェリカと瓜二つ。思わず壁際の座長を確認してしまうオグリュー。変わらず座長はそこに居た。
その瞬間、オグリューの背筋に悪寒が。今、目を逸らしてしまった。
ゆっくり再び舞台へと目を向ける。すると目が合った。舞台の上の……天使と。
舞台上の少女達は左右に分かれ、女性を称えるように膝をつき祈るように手を組む。
女性はゆっくりと右手を差し出す。オグリューに向かって。
『おいで』
透き通るような声。拡声器で客席に流れたその声は、まるで脳を鷲掴みにされたかのような感覚に襲われる。オグリューと目を合わせ続ける女性は、そのまま口角を上げて微笑んだ。
それはまるで、人間だった。当たり前だ、舞台上の女性は人間だ。
だが客席の誰もが思ってしまったのだ。まるで人間のようだ、と。
『天使様が降臨されました。私達は救われます』
少女の一人のセリフ。祈ったまま立ち上がる。
『天使様、どうか私達をお導きください』
また一人、同じように。
『天使様、私達に夢と希望にあふれた未来を』
少女達は順番にセリフを言いながら立ち上がる。
そのセリフはどれも言葉自体は何の変哲もない、祈りのように聞こえる。
だがこの街唯一の魔法使い、モニカだけには違う物に聞こえていた。
「……詠唱だ、これ……」
小声で思わず呟くモニカ。しかし実際、少女達は魔法使いでは無い。勿論魔法が発動するような事は決してないが、希望にあふれた祈りの言葉は、不気味に客席に響き渡る。
そして舞台の照明が落とされ、次の場面へと移行する。
そこからは、主にアーギス連邦の平和な日常を演じた物だった。戦争が終わり、それぞれの世界を取り戻した人々。主人公は昨日、奴隷騎士を演じたエレナ。彼女が違和感を覚える事から物語は展開する。
この戦争を終わらせた天使は、何処に行ってしまったのか。
街の人々は誰も天使の事を話さない。主人公の少女は、天使を探し求めて大聖堂へと赴いた。
誰にでも開放されたそこには、シスターが一人。その役者は先程の天使と同じ人間だ。しかし先程の不気味な気配は微塵もない。優しいシスターとして、天使を探し求める少女へと助言をする。
『天使様は天界に帰られたわ。もうお会いする事は出来ないでしょう。でも、それでいいのよ。天使様が降臨されるのは、この世界が闇に覆われた時。もう二度とそんな事にならないように、私達は日々を大切にしなければ』
少女は再びシスターへと質問する。
誰も天使の事を話さない。誰も天使に感謝の言葉を口にしないのは何故だと。
『それでいいの。天使様は恥ずかしがり屋さんだから、あまり噂をすると可哀想よ。貴方だって、知らない人にいきなりお礼を言われたら、驚いちゃうでしょ?』
確かに……と可愛く頷く少女。
しかし自分はお礼を言いたい、と少女はシスターへと進言する。シスターはその願いを受け入れ、大聖堂の女神像の元へと少女を案内した。
アーギス連邦は女神崇拝の総本山。アランセリカと言う古代文明期から脈々と伝え語られる女神の物語。
『さあ、まずは天使様に自己紹介をしましょう。さっきも言ったけれど、知らない人にいきなり話しかけられたら、驚いてしまうから』
シスターに言われて少女は自己紹介をする。女神像に向かって膝を降り、祈るように手を組みながら。
そして感謝の言葉を口にした。この平和な時代をありがとうございます、と。
『貴方の言葉は確かに天使様に届いたわ。さあ、もうこんな時間。あまり遅くなるとご家族が心配なさるわ、もうお帰りなさい』
少女は首を振る。家族は居ないと。
『そんなことないでしょ? 貴方は何処から来たの?』
退屈な展開だ。その証拠にモニカは鼾をかき始めている。
だがオグリューは釘付けになっていた。座長の言葉を思い出していたからだ。
聖堂には奴隷騎士達の墓がある。アーギス連邦の大聖堂に名を刻まれた奴隷騎士達。彼らは紛れもなく英雄として扱われているのだ。そして座長は言った。彼らは世界を救ったと。
このタイミングでこの舞台を見せてくるのは、何かしらの意味があるのではないかと考えるオグリュー。奴隷騎士とダンヴェルグの天使。相対したことは勿論無い。しかし何かあるのだ。だが今のオグリューではその答えは分からない。
『シスターは居るか!』
ビクっと驚くオグリュー。物思いに耽っている間、いつの間にか劇が進行していた。どうやら軍人がシスターを捕らえようとしているようだ。
しまった、途中意識が途切れてしまった。オグリューは目頭を押さえながら、劇に集中しようと再び舞台に意識を向ける。
『酷いわ。私はずっとここに居たのに』
悪寒がした。シスターと目が合う。
まるで耳元で囁かれているような、至近距離でその役者に心臓を握られているかのような。
吸い込まれそうな目。その言葉の一つ一つが、オグリューの頭の中に滞留するように。
『ずっと、貴方だけを見ていたのは私なのに』
座長と顔が同じ女。
まさか、あの役者こそが、本物のアンジェリカではないのか?
オグリュー、お前は本当に、彼女の顔を覚えているのか?
彼女の仕草は、癖は、目の輝きは、声は……全て網羅しているのか?
記憶は辿れ、そもそも、彼女は存在していたか?
思い出せ、あの日の事を。そこから彼女のすべてを引き出せ。
彼女が存在した証拠を一つ残らず回収し
「てい」
もふっとした感触。モニカの肉球パンチがオグリューのオデコにクリーンヒット。
その瞬間、我に返るオグリュー。気づけば舞台はカーテンコール。観客はスタンディングオベーション。
「大丈夫か? じいちゃん」
「あ、あぁ」
カーテンコールの舞台の上には、件の役者も笑顔で手を振っていた。
子供のような眩しい満面の笑みを浮かべながら。
ふと、壁際の座長へと視線が行くオグリュー。
座長は変わらずそこに居て、しずかに拍手を送っていた。
※
舞台が終わった後、オグリューの足は自然と座長の元へと向けられていた。劇場内の楽屋の扉の前で、オグリューがノックしようとした、その時、背後から肩を叩かれた。
「関係者以外はお断りですよ、オグリュー様」
「あ、あぁ、君か。丁度良かった。聞きたい事がある」
「あの子の事でしょう?」
その通りだ、と頷くオグリュー。
「彼女の名前は……ルル。私が旅の途中で出会った、レッサーパンダの獣人です」
「……? ぁ、いや、違」
「まったくオグリュー様ってば。割烹着を着たレッサーパンダに母性を感じてしまったのですね。まあ私もその内の一人ですが、彼女の割烹着のお腹の部分にはポケットが付いていて……そこに手を突っ込みたいという誘惑に毎度毎度……」
「待ってくれ、違う、そんなヤバい事は考えていない」
「ヤバいって……私は別にヤバい人間ではありません」
嘘を付け、と反論したいのを我慢しつつ、オグリューは座長へと尋ねた。
貴方にそっくりの顔をした、あの役者は一体何者なのか、と。
「劇、見てなかったんですか? 全部喋らせた筈ですよ」
「……いや、途中で意識が途切れてしまって……」
「寝てたんですか? モニカちゃんじゃあるまいし」
そのモニカはここに来る途中、また少女の集団に拉致られてしまった。まだ放し飼い型の誘拐事件は継続中のようである。
「……オグリュー様、私とあの子は双子の姉妹です」
「やはり……」
「そして、今こうして貴方と話している私は、どちらだと思いますか?」
驚きの表情を浮かべるオグリュー。そういえば顔は全く同じだった。髪色が違うだけで印象はだいぶ違うが、髪など、どうとでもなる。
「冗談ですよ。あの子はオグリュー様の事は微塵も知りませんから。そうですね、あの子との出会いの物語を、明日の朝、船の上でお話しますよ。少し長くなってしまうと思いますけど、元々アーギス連邦まではどんなに急いでも五日はかかりますから。その間の暇つぶし程度に」
「奴隷騎士の話は……いいのか?」
座長はオグリューの瞳を見つめる。
吸い込まれそうな瞳は、あの役者にそっくりだ。
「アーギスの大聖堂で……語ってもらいます。さあ、明日の朝は早いですよ。モニカちゃんは問答無用で連れ帰りますから。あの子の母親に頼まれていますからね」
「……あ?」
モニカの母親は現在、アーギス連邦の軍学校で魔法の教師をしている。
オグリューの二番目の娘であり……大喧嘩したきり、顔を合わせていない仲。
「レイシーと……知り合いなのか?」
「ふふ、オグリュー様ってば。アーギス連邦の三大賢者の一人を呼び捨てですか? 良い度胸してますね。最強のオカンですよ、あの人は。オグリューは絶対に連れてくるなって言われてるから、私ちょっとワクワクしてるんですよね」
またオグリューは悪寒に襲われた。
明日は腹を壊した事にしようかと思う程。というか本当に胃が痛くなってきた。




