第六話:桃華山の仙人と匈奴への備え
秦の始皇帝、嬴政――佐藤誠として転生した彼――がこの世界に現れてから、ちょうど一年が経過した。
咸陽の宮殿には春の陽光が差し込み、誠のもたらした改革が少しづつ実を結び、民の暮らしは徐々に豊かになりつつあった。
徐福と李昊が日本への外交使節として東の海へ旅立って数ヶ月、誠は秦をさらに強固な国家へと変えるべく、内政に励んでいた。
市井では「始皇帝が大陸を統一して以来、暮らしが楽になった」との声が聞こえ始めた。
穀物の備蓄が充実し、税の一部軽減により民の負担が減ったことで、市場は少し活気づいていた。
しかし、そんな穏やかな日々の中、誠はある夜、不思議で不安な夢を見た。
夢の中で、彼は桃の花が咲き乱れる山に立っていた。そこに白髪の仙人が現れ、重々しい声で告げた。「北の匈奴が動き出す。備えを怠るな」と。
その夢はあまりに鮮明で、誠は目を覚ました時、全身が汗に濡れていた。
(未来予知か? この世界にそんな力があるのか? 匈奴が攻めてくるなら、早急に対策を打たねば)
前世の知識と直感を信じる誠は、「桃華山に仙人が住む」という噂を思い出した。
彼は迷わず宰相・李斯を呼び、旅の準備を命じた。
桃華山への旅と仙人との対話。
数日後、誠は将軍・蒙恬と少数の衛兵を連れて桃華山へ向かった。
山道を登る間、桃の花が風に舞い、甘い香りが漂う。山頂近くに差し掛かると、白髪を長く伸ばした老人が岩の上に座していた。仙人は穏やかな瞳で誠を見据え、静かに口を開いた。
「秦の始皇帝、嬴政よ。汝が我を訪ねた理由は分かっておる。夢を見たのだな?」
誠は驚きを隠しつつ、威厳を保ちながら答えた。「仙人、朕は夢で匈奴の脅威を見た。それがお前からの予知なら、詳しく教えよ。秦を守るためだ」
仙人は薄く微笑み、杖で地面を叩いた。すると、周囲に霧が立ち込め、神秘的な雰囲気が漂った。誠は一瞬警戒したが、仙人は落ち着いて助言を述べた。
「匈奴は北の草原で力を蓄えておる。近いうちに大軍を率いて南下し、秦を襲うだろう。だが、汝にはそれを防ぐ力がある。民を団結させ、壁を築き、備えを怠らぬことだ」
誠は目を輝かせ、少し頭を下げた。
「仙人、感謝する。匈奴に備え、秦を守る。教えを無駄にはせぬ」
仙人は頷き、
「汝の志は天に届いておる。行け」
と告げると、霧のように姿を消した。
白昼夢のような体験だったが、誠にとって、それが真実かどうかは問題ではなかった。匈奴への備えを急ぐべきだとその確信に変わった。
咸陽への帰還と内政の強化。
咸陽に戻った誠は、即座に李斯、蒙恬、李信を広間に召集した。三人の重臣を前に、彼は決意を込めて命じた。
「朕は桃華山の仙人に会い、匈奴が近いうちに攻めてくるとの予知を得た。秦を守るため、今から内政を固め、備えを進める。李斯、経済と食糧の強化を頼む」
李斯が瘦せた体を進めて跪いた。
青白い顔に鋭い眼光が宿り、長い顎髭が揺れた。「陛下、匈奴の襲来とは重大な知らせです。それと経済をどう強化いたしますか?」
誠は前世の知識を活用し、具体的な指示を出した。
「農地改革を更に進め収穫量を増やせ。穀物の備蓄を各地に設け、匈奴の襲来で食糧が略奪されたとしても、民を飢えさせないような仕組みを作れ。そして、民の負担を減らすため税を一部軽減しつつ、軍資金は富裕層への新たなる資産課税で確保しろ。不満はでるだろうが、ある程度は許容させよ! それにより、上下水道の整備が遅れても構わぬ。まずは、民を匈奴の略奪から守る事を優先させよ!」
李斯は感嘆の声を上げた。
「早速実行に移します」
次に、誠は蒙恬に目を向けた。
「蒙恬、お前には特別な任務だ。匈奴を防ぐため、北に長大な壁を築け。辺境の守りを固めよ」
蒙恬が太い声で応じた。
「陛下、俺に任せてください。世界に誇る強大な壁をこしらえてみせますよ!」
扶蘇の登場と長城建設の委任。
その時、誠は一人の青年を広間に呼び入れた。18歳ほどの若者で、誠に似た鋭い目と穏やかな気品を併せ持つ彼は、長子・扶蘇だった。
黒い袍をまとい、長い髪を結い上げた姿は、若さの中に知性と優しさを漂わせていた。史実では穏健派として知られ、後に趙高に殺される運命の扶蘇だが、もはや趙高はいない世界線である。
そして誠はこの世界で彼を鍛え、守り、自分の後を継がせる決意を固めていた。
「蒙恬、朕の息子、扶蘇を頼む。お前と共に北の壁の建設を任せる。息子を鍛えつつ、辺境を守ってくれ」
扶蘇が一歩進み出て、落ち着いた声で跪いた。
「父上、この度の任拝命致します。匈奴から国を守るため、壁の建設に尽力を尽くす所存です。蒙恬将軍、よろしくお頼み申し上げる」
誠は扶蘇を見つめ、心の中で呟いた。
(史実では悲運の王太子だったが、この世界では違う。お前は秦の未来だ、扶蘇)
「良い志だ。蒙恬に付いて、北を守れ。お前は秦の希望だ」
蒙恬が笑い、扶蘇の前に傅き、始皇帝を見上げる。
「陛下、扶蘇様なら俺にお任せ下さい。北の壁の建設は俺と殿下で完璧に仕上げてみせます」
誠は頷き、
「蒙恬、扶蘇を頼む。北の壁は秦の盾だ。しかし無理はするなよ! 民を労りつつ、安全に配慮してやってくれ」
と信頼を込めて言った。
最後に、李信が若々しい顔に少し笑みを浮かべ、前に出て話す。
「陛下、王太子であり、民にも人気のある扶蘇様が北におられるなら北辺の民も喜びましょう。私も早いうちに軍を編成し、匈奴対策に備えます故、ご安心下さい」
誠は頷き、
「頼りにしているぞ、李信」
と強く信頼する気持ちを持って答えた。
そして誠の命令は迅速かつ速やかに実行に移された。
「打てる手はそれなりに打ったはずだ。後はどうなるかだな。歴史通りなら俺の寿命は後10年もないだろうが……。死ぬ迄に何としても未来に秦を残す改革を断行して行くぞ!」
偶然にも秦の始皇帝になってしまった誠ではあるが、その姿は未来に向けて懸命に動く為政者そのものであった。