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第二十伍話:匈奴の未来を握る者、冒頓単于 後編

 紀元前214年、冬の終わり。


 陰山南麓での会談を終え、秦の始皇帝――嬴政こと佐藤誠――は冒頓を連れて咸陽への帰路についていた。


 凍てつく風が荒々しく吹き抜ける中、遠くの山脈は雪を被り、まるで白い巨獣が横たわるように連なっていた。



 雪に覆われた北辺の道は凍てつき、馬車の車輪が時折泥濘に嵌まり、近衛兵が力を合わせて押し出す光景が繰り返された。


 車輪の軋む音と兵たちの低い掛け声が、冷たく澄んだ空気に響き合った。



 韓信が馬を率いて先頭を進み、精兵たちが整然と隊列を組む中、誠は馬車の中で冒頓と向き合っていた。


 馬車の内は毛皮の敷物で暖かく、窓から差し込む淡い光が二人の顔を照らしていた。



 冒頓は灰色の毛皮の外套を羽織り、窓の外を眺めていた。雪が舞う陰山の峰々が遠ざかり、秦の平野が視界に広がるにつれ、彼の目に微かな戸惑いが浮かんだ。


 凍てついた草原の果てに、煙を上げる村の影がちらりと見えた。



 誠は冒頓のそんな表情を見逃さず、穏やかに声をかけた。


「冒頓、初めての中華の地はどうだ? 匈奴の地とはずいぶん違うだろう」



 冒頓は一瞬黙り、窓から目を離さずに答えた。


「広大だ。雪は同じでも、道がこんなに整い、田畑が続くのは見たことがない。秦の民は飢えを知らぬのか?」



 誠は笑みを浮かべ、袍の袖を軽く振った。窓の外では、雪解けの水が小さな流れを作り、道端の枯れ草を揺らしていた。



「飢えは減ったが、それだけで人は満足せぬ。民の腹を満たすことができたら、次は心を満たしてやらねばならん。そして、豊かに快適にしていくことで国は発展していく」



 誠の治世で、確かに中華に住む民は豊かになっていた。

 だが、少し前までは戦乱が続き、戦乱が終われば秦の法による厳罰と大規模な土木工事で民は苦役を強いられていた。



 それらをうまく緩和し、調整し、さまざまな改革を断行することで、秦は生まれ変わったのだ。



 ただ、秦が安定し始めたのはごく最近のことだった。あえて誠はそれを口にしなかった。馬車の揺れに合わせ、彼の袍の裾が軽く揺れた。



 冒頓は誠をちらりと見て、微かに頷いた。外では、隊列の馬が小さく嘶き、鞍の金具がカチャリと鳴った。


「父上は言っていた。腹が満たされれば戦う力が生まれると。そして、奪うことで誇りが生まれると。奪われぬために戦士は強くならねばならぬと。ゆえに、豊かな地に住む者から奪うのは必然だと……。平地に住む人間はまったく考え方が違うのだな」



 誠は匈奴の考えを否定しなかった。


「いや、そういう考えも、北の厳しい大地で生きるには必要なことかもしれぬ。食糧や資源が限られているなら、より多くの人間を生かし、部族の全滅を避ける。そうやって生きるうちに、さまざまな決まりや掟が生まれたのだろう。お前の嫌う部族の掟もその一つだ」



 冒頓は部族の掟を嫌っていた。特に親を殺して世代交代する自らの部族の風習を変えたいと望んでいた。秦の始皇帝ならその答えを知っている気がした。



 馬車の中で、冒頓は拳を軽く握り、窓の縁に触れた。



「皇帝は、部族の掟を変えるにはどうすればよいか知っているのだろう?」



「そうだな。掟を変えるのは簡単だ。お前が長となり、強引に変えればよい。匈奴全体を変えたいなら、匈奴の部族をすべて統一すればよい。その後に匈奴の民の暮らしを豊かにすれば、いろいろと変えやすくなる。そうなるよう努力するのだな」



「それでは、俺はいずれ父を殺さねばならぬ。それは避けたいのだ。父が死んだ後に民が豊かになっても意味がない。父にも認められ、他の部族にも犠牲が出ぬ方法を俺は知りたい」



(難しいことを言う奴だな。秦だって多くの犠牲があって今がある。だが、不思議な男だ。匈奴の厳しい環境に育ちながら、誰かを切り捨て、誰かを守るという選択が身についていないとは……。この広い心は生まれつきのものか? それとも匈奴の人間も考え方が変わりつつあるのか?)



 誠は考え込み、馬車の壁に寄りかかった。外では、遠くの鳥の鳴き声が雪の静寂を破っていた。



「冒頓よ。人には好むと好まざる感情があるのはわかるな。簡単に言えば、好きや嫌いという感情だ。誰しもが持つものだ」



「そんなことは幼子でも知っている。当たり前のことがどうしたというのだ?」



「それはどこから来て、いつ当たり前になる?」



「……。」

 冒頓はうまく答えられなかった。窓の外では、雪が薄く積もった道が続き、遠くに農夫の姿が小さく揺れていた。



「それは、誰かに教えられ、それを繰り返すことでそうなるものなのだ。誰かに奪うことを教えられた者は、奪うのが当たり前になり、それを繰り返して常識となる。その常識を変えるには、それが間違いだと誰かに教えられるか、自分で不快と感じる必要がある」



 誠は言葉を続けた。馬車の中は静かで、彼の声だけが低く響いた。



「冒頓よ。これは朕の推測にすぎぬが、お前の父、頭曼単于の部族は、厳しい環境で生き抜くため、年老いた者が若者の負担にならぬよう部族を存続させる掟を作ったのではないか。頭曼はその掟に従って部族をまとめているが、優秀な男ゆえ、厳しい掟の中でもお前をそう育てなかったのだと思う。あるいは、お前が親の深い愛情を受け継いだ結果かもしれぬ」



「確かに、父上は俺が幼い頃はとてつもなく優しかった。だが、俺の身体が大きくなるにつれ厳しくなり、掟を守るよう促してきた。だから俺には不思議でならぬ。それなら父上の本心は、息子に殺されることを望んでいないということではないか……」



「人は元来、親に愛され育てられるとそうなるものだ。だが、環境がそれを許さぬ場合もあるし、状況が変わることもある。多分、今が時代の変わり目なのだと朕は推測する。だからこそ、お前の考え方に賛同する若者が西の月氏、東の東胡にも多くいたのだと考える」



 誠の目は遠くを見据え、まるで時代の流れを視るようだった。外では、隊列の旗が風に揺れ、鮮やかな赤が雪に映えた。



「それでは俺はどうすればよい?」



「それはお前がこれから学び、考え、選択することだ。何から何まで、子供のよう朕に教えを乞うてはならぬ。それくらいは今のお前にもわかるだろう?」



「すまぬ。父上と違って、何でも答えてくれそうな気がして調子に乗ってしまった……」



「まあ、多少の相談なら今後も乗らぬでもないがな。だが、朕はこう見えてわりと忙しい。こうしてじっくり話す機会はそうそう持てぬかもしれぬ。それと、咸陽であまり無茶はするなよ。北辺とは色々と事情が違うゆえ、最初は戸惑うかもしれぬが、その経験がきっとお前の今後に役立つと朕は願っている」



「秦の皇帝は、優しいのだな。とても、匈奴全体を滅ぼすと父上を脅して交渉をまとめたとは思えぬ」


「君主とはそういうものだ。お前にもいずれわかる時がくる」



 誠は心の中でニヤリとした。


(こいつ、史実の冷酷な冒頓とはまるで別人だ。義理人情に厚く、部族を超えた信頼を集める若者……。こいつをうまく育てれば、匈奴全体を秦の傘下に置き、モンゴル高原を勢力圏に収めた時、統治がスムーズに進みそうだ)




 彼の目には、遠く咸陽の城壁が浮かんでいるようだった。馬車の外では、凍てつく風が一瞬止み、静寂が訪れた。



 誠は内心、良い人材を確保できたと歓喜していた。




ーーーー



 馬車が咸陽の城門をくぐったのは、それから数週間後のことだった。



 冬の終わりとはいえ、咸陽の市場は活気に溢れ、絹や青銅器、穀物が山積みにされた屋台が並び、商人の呼び声が響いていた。


 石畳の道には荷車がごうごうと音を立て、焼き栗の甘い香りが漂っていた。



 冒頓は馬車から降り、初めて見る都の喧騒に目を奪われた。色とりどりの幔幕が風に揺れ、遠くの宮殿の屋根が朝日に輝いていた。



「これが秦の都か……。部族の天幕が何百個あっても足りぬ!」



 誠は冒頓の肩を叩き、笑った。市場のざわめきの中、彼の声はどこか温かく響いた。



「まあ、そのうち慣れる。まずはここで学び、匈奴の未来をどう築くか考えてみろ。お前ならできると朕は信じているぞ」



 こうして冒頓の咸陽での新たな生活が始まった。





 少し先の未来の話となるが、


 秦はモンゴル地方の匈奴全体を傘下に置き、自国の領土とした。その未来において、匈奴の若者は若い時期に咸陽で学ぶことが当たり前となり、モンゴル地方の人間も中華に徐々に馴染むこととなる。



 その最初の大きな架け橋となった男、冒頓単于ぼくとつぜんう



 彼の咸陽での成長が、その後の秦の始皇帝(佐藤誠)の絶大なる国土を支配する事に、大きく貢献することとなるのだが、それは随分と先の話である。




咸陽につくだけで、1話使ってしまった……。


そして、まだまだ続きます!

韓信や陳平の閑話がたまり、先にアップするか迷う日々です。

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― 新着の感想 ―
今回も面白く読ませていただきました。 秦の領域…めっちゃ広がりますね。史実だと北京から遼東半島くらいが北限ですからね。東胡と月氏も配下だと今の中国より広そう。 次は南か西ですかね。そろそろ徐福の回収も…
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