第二十四話:匈奴の未来を握る者、冒頓単于 中編 その弐
紀元前215年、冬。
陰山南麓、頭曼単于の天幕の入口がめくられ、一人の若者が中に入ってきた。
背は高く、肩幅は広く、灰色の毛皮の衣に身を包んでいるが、その動きには野生の獣のようなしなやかさと、どこか品のある落ち着きがみてとれた。
腰には短い曲刀が下がり、雪に濡れた黒髪が額に張り付き、鋭い目が天幕の中を見渡した。
毛皮の外套には雪が薄く積もり、肩にかけられた狼の毛皮が焚き火の光に照らされて鈍く輝いていた。
彼の背後には、東胡と月氏から来た数人の若い戦士が控え、彼に軽く頭を下げていた。
戦士たちの目は尊敬と親しみに満ち、冒頓の存在感を物語っていた。
彼こそが、冒頓! 後の冒頓単于である、
頭曼単于の長子であり、匈奴の未来を担う若者だ。
義理人情に厚く、他部族との争いで仲間を庇い、飢えた者に食料を分け与え、敵味方関係なく一目置かれている存在。
若くして陰山の部族の間では名が知られている戦士である。
東胡の若者とは馬を交換し、月氏の戦士とは酒を酌み交わして和平の道を模索し、互いの誇りを認め合う姿は、頭曼の部族を超えて信頼を集めていた。
数年前、東胡との小競り合いで捕らわれた若者を解放し、馬と食料を与えて送り返したことで、東胡の頭から感謝の馬を贈られ、月氏の民が飢えた冬には、頭曼の許可なく羊を分け与え、月氏の戦士たちに「義の男」と呼ばれるようにもなった。
そんな冒頓の名は、匈奴の若者たちの間で語り草となり、部族の未来を担う希望として輝いている。
天幕の中央には、秦の始皇帝――嬴政こと佐藤誠――が黒と金の袍の裾を整え、威厳を漂わせて立っていた。
袍の龍の刺繍が焚き火に照らされ、黄金の輝きを放っていた。
誠の目は鋭く、しかし穏やかな微笑みがその顔に浮かんでいた。
誠の目は、冒頓を一瞥した瞬間、わずかに輝いた。
史実の冒頓を知る誠にとって、この若者は単なる匈奴の王子ではない。
父を殺し、匈奴を鉄の意志で統一し、数十万の騎馬軍を率いて漢を脅かした冷酷な覇者――それが史実の冒頓だ。史実で言うなれば、モンゴル大陸の始皇帝みたいな存在だ。
しかし、目の前に立つ冒頓は、義理人情に厚く、他部族から信頼される若者だった。
(こいつが冒頓か……。史実じゃ冷酷無比な覇者なのに、今は情に厚い若者だと頭曼から聞いた。何でも東胡や月氏とも既に交流があり、他部族の若者たちにまで慕われる姿……こいつはすでに匈奴全体の未来を担う器としての片鱗がある。味方にできれば、秦はモンゴル高原を制して、更に国土を広げることが可能になるだろう。理想としてはここから俺の元で育てあげたいところだが……。)
誠は始皇帝としての威厳を保ち、穏やかに口を開いた。声は低く、しかし天幕全体に響き渡った。
「冒頓、よく来た。朕は秦の始皇帝、嬴政だ。お前の父、頭曼単于と和平を結び、匈奴と秦の繁栄を共に築く約束を交わした。お前にもその意志を確かめたい。どうだ、匈奴の未来をどう考えている?」
冒頓は一瞬、頭曼をちらりと見た。
頭曼は毛皮の椅子に座し、焚き火の向こうで目を細めていた。
そして、その顔には、野獣のような鋭さと息子への複雑な感情が混ざっていた。
それを見て冒頓は深く息を吸い、誠を見据えた。声は低く、力強く響いた。
「秦の皇帝よ、俺は和平を望む。匈奴の民が冬を飢えず、略奪に頼らず暮らせるなら、それに越したことはない。東胡の仲間とは馬を交換し、月氏の戦士とは酒を酌み交わして、そういう話も今迄沢山してきた。族長である父上がお前に協力すると決めたなら、俺もその道を進む。だが、俺には俺の考えがあるし、それは尊重してもらいたい」
「ほう、何を尊重して欲しいのだ?」
「俺は今ある部族の掟……親を殺して長となる風習を辞めさせたいと思って行動している、秦の始皇帝としてそれを認めて欲しい」
「朕がそれを認めてどうなる? 部族の風習、掟はそれこそ部族の中の問題であろう、干渉すべきではないと思うがな」
「いや、我が部族が秦と協力関係になり、属するというなら、貴方が認める事で効果はある。俺は父を殺してまで部族を纏めるというのは厭うのだ。だからこの機会にそれを認めて頂きたい」
誠は冒頓の言葉に心の中で驚いた。
史実の冒頓は親殺しを冷酷に実行し、部族を鉄の意志でまとめた男だ。
それなのに、この冒頓は部族の掟を拒み、親を思う情に厚い。
「親殺しの風習を嫌うとは、頭曼に聞いたて通りだな。匈奴では力が全て、弱者は生き残れぬと聞く。お前ほどの男が、何故その掟に背きたいと思う?」
冒頓の目が一瞬揺れた。焚き火の炎が彼の顔を照らし、葛藤の影を浮かび上がらせた。
毛皮の衣の裾がわずかに震え、彼の指が曲刀の柄を無意識に握った。外の風が天幕の隙間から入り込み、炎を揺らした。
「父上は強い。俺は父上を尊敬してる。幼い頃、父上が俺を馬に乗せ、弓の引き方を教えてくれた。飢えた冬には、父上が自分の食料を俺に分けてくれたこともあった。父上が部族を守ってきたように、俺も民を守りたい。なのに、掟は俺に父上の命を奪えと言う。父上はそれを当然と笑うが、俺にはできん。なぜ父上と俺の見解がこうも違うのか……。東胡の若者や月氏の戦士たちも、俺と同じように掟を疑問に思う者が多い。俺が悩むのは、俺が弱いからなのか?」
頭曼が低く唸るように笑った。声には嘲りと、どこか息子への愛情が混ざっていた。
「冒頓、軟弱なことを言うな。掟は我が部族の絶対だ。お前が俺を殺せぬなら、お前は長になれん。それが我々部族の生き方なのだ。東胡や月氏の甘い言葉に惑わされるな」
誠は頭曼の言葉を聞きながら、解決案を思いついてはいたし、冒頓の気持ちに深いものを感じてはいたが……。
あえてそれは言わずにいた。
誠の感覚でも親殺しの掟なんてものは無くした方が良いとは思っていたが……。
ましてや、次代の跡継ぎがそれを望むのだからと。
しかし、今の部族長は頭曼である。
なので一旦は冒頓の主張を退け、まずは秦と部族との正式な絆を結ぶ方を優先した。
______
天幕での会談は数時間に及び、誠と頭曼は和平の条件を詰めていった。
秦が食料、布、鉄器、家畜を提供し、頭曼の部族は北辺での略奪を止め、他の部族との交渉し併合して行く。匈奴の部族の統一には秦の兵も協力して行う。
頭曼の世代である程度は匈奴を統一しておくというのが誠の考えであった。
それに対して頭曼は当初懐疑的だったが、部族が大きくなり、より豊になるのならと受け入れた。
匈奴の他部族の併合に、秦の蒙恬将軍が協力するという点も頭曼にとっては魅力的だった。
そうして誠と頭曼の会談はスムーズにすすみ、
そして、会談の終盤、誠は頭曼に一つの提案を持ちかけた。
誠は覚悟を持ち、穏やかだが力強い声で言う
「頭曼、秦と匈奴の絆を深めるため、信頼の証が必要だ。朕はお前の息子、冒頓を数年間、咸陽に預かりたい。冒頓は義理人情に厚く、東胡や月氏の部族からも信頼されていると聞く。秦で学び、匈奴と秦の橋渡しとなる男になれば、和平はより強固になる。どうだ?」
頭曼は目を細め、焚き火を見つめた。
炎が彼の皺だらけの顔を照らし、深い影を刻んだ。頭曼の指は椅子の肘掛けを強く握り、狼の牙の装飾がわずかに揺れた。
冒頓が驚いたように誠を見たが、すぐに父の反応を待つため口を閉じた。
ややあって、頭曼は低い笑い声を上げた。声は谷間に響き、焚き火の煙を揺らした。
「息子を預けるだと? 秦の皇帝、ずいぶん大胆なことを言うな。だが、冒頓は確かに部族の若者たちにも慕われている。今だに軟弱な奴だが、匈奴の未来を担う男でもある。……いいだろう。冒頓を秦に預けよう。それが我々の絆の証だ。だが、皇帝よ、冒頓をただの客人にせず、匈奴の誇りを尊重してもらいたい」
冒頓が一瞬、父を睨んだ。曲刀の柄を握る手が震え、声にわずかな怒りが滲んだ。
「父上、俺を預けるだと? 俺は部族を離れるつもりはない! 俺は必要ではないのか?」
頭曼が手を上げ、冒頓を制した。声は厳しく、しかしどこか息子への信頼が込められていた。
「黙れ、冒頓。お前は俺の息子であって、今は長ではない! 部族のため、匈奴の未来のためなら、秦で学べるのは今をおいて他にない。北辺を出て中華をへの見聞を広げるチャンスだとは思え!」
誠は頭曼が認めてくれた事を気に、冒頓に秦に来るメリットを穏やかに伝えた。
「冒頓、秦で学ぶことは多い。統治の術、交易の知恵、軍の鍛え方。それはお前の部族を強くし、更には東胡や月氏との絆も、秦の後ろ盾があれば、より大きな和平に繋がる。朕は部族の誇りを傷つけるつもりはない! それに秦で学べば子が親を殺す風習を無くせる手段も学べる事を、朕が保証しよう」
冒頓はしばらく黙り込み、焚き火を見つめた。
炎が彼の瞳に映り、葛藤と決意が交錯していた。
外の風が天幕を揺らし、雪が入口の隙間から舞い込んだ。やがて、冒頓はゆっくりと頷いた。声にはまだ迷いがあったが、誠の言葉に心を動かされた様子だった。
「……分かった。秦の皇帝、俺はお前の言葉を信じる。だが、俺は匈奴の男だ。それにいずれは部族に戻らせてもらう」
誠は微笑み、袍の袖を振った。
「よかろう、冒頓よ! 秦で大きく学べ! それはきっと今後のお前の人生に役に立つはずだ!」
こうして、冒頓単于は数年間、誠のもとに預けられることが決まった。
秦と頭曼の部族の協力関係は新たな段階に入り、絆は更に一歩深まった。
こうして秦は匈奴を統一する最初の足掛かりを手に入れる事となった。
匈奴編は思ったより長くなりそうで、どうにか圧縮できないかを考え中……。
この物語の騎馬民族は秦の発展にかかせない存在です。
匈奴もモンゴル大陸も秦の一部となるのです!




