第二十參話:匈奴の未来を握る者、冒頓単于 中編 その壱
紀元前215年、冬
秦の始皇帝――嬴政こと佐藤誠――は、韓信、蒙毅、そして近衛兵と精兵を率いて北辺へと向かい、咸陽を出発してから数週間が経過していた。
一行は蒙恬が待つ万里の長城の拠点に到着した。
長城の石壁は霜に覆われ、遠くの陰山を白く染める雪が視界を霞ませていた。
拠点周辺には、蒙恬が指揮する守備兵が配置され、冬の過酷さにもかかわらず、堅固な防衛線を維持していた。
誠は長城の拠点内に設けられた簡素な指揮所に身を置いていた。
厚手の黒と金の袍に身を包み、青銅の火鉢が置かれた室内で暖を取りながら、蒙恬からの報告を待っていた。火鉢のオレンジ色の炎が揺らめき、石壁に影を投げかけていたが、隙間風が袍の裾を微かに揺らし、冷気が室内に忍び込んでいた。
「北辺は思ったより寒いな」と誠は呟いた。
窓の外では雪が舞い、長城の石積みが風に耐える低い唸り声を上げていた。
蒙恬とはしばらく会っていなかったが、誠の彼に対する信頼は揺るぎなかった。
やがて蒙恬が指揮所の入り口に現れ、誠の前に膝をつき、頭を下げた。
兜の下から覗く彼の目は鋭く、数々の過酷な戦場で鍛えられた武人の風格が漂っていた。
蒙恬は落ち着いた声で報告を始めた。
「陛下、匈奴の頭曼単于の部族は、現在、陰山の南麓に拠点を構えております。斥候の報告によれば彼らの拠点は黄河の湾曲部から北へ約二百里、風を避けられる谷間に位置しております。陛下が仰せの匈奴の動向掴むのに時間がかかり、申し訳ございません」
誠は蒙恬の言葉に深く頷き、袍の袖を軽く振って応じた。そしてその声には賞賛が込められていた。
「蒙恬、いや、むしろ早いくらいだ! よくぞ見つけてくれた。朕は正直、この件は雲を掴むほど難しいと思っていたが、期待に見事応えてくれたな。心から嬉しく思うぞ。恩賞ははずませてもらおう!」
「は、勿体ないお言葉にございます。主君の期待に応えるのが臣下の務めゆえ。とはいえ、恩賞は楽しみにしております」
蒙恬は控えめに微笑んだ。
(蒙恬は相変わらず堅実に不可能を可能にする優秀な将軍だな)
と誠は内心で感嘆した。
「陰山南麓、黄河から二百里とは、まさに匈奴が冬を凌ぐに最適な地だ。お前の経験と洞察がなければ、この過酷な冬に我々が的確に動くことはできなかっただろう。長城の守りを固めつつ、こんな正確な情報まて掴むとは、流石だな蒙恬!」
誠は蒙恬の有能さに感動を隠せなかった。
蒙恬は目を伏せ、控えめに礼を述べた。
「陛下のお言葉、身に余る光栄にございます。北辺の守りと匈奴の動きを見極めるのは俺の務め。この長城を拠点に、斥候を駆使して得た情報に誤りはありません」
誠は竹簡に目を落とし、心の中で呟いた。
(史実では冒頓単于が父の頭曼を殺し、匈奴を統一するまでまだ数年ある。今は頭曼が部族の長として力を持ち、冒頓はまだその影に隠れた若者に過ぎない。蒙恬の正確な情報のおかげで、頭曼に会える可能性が高いのは本当に助かる。)
咸陽から万里の長城の拠点までの数週間の行軍は、冬の厳しさによって一層過酷なものとなっていた。
地面は凍りつき、馬の蹄が滑り、兵たちの吐息が白く凍てつく中で立ち上った。
風は鋭い刃のように頬を切りつけ、厚い毛皮の外套を着込んだ近衛兵でさえ、時折肩を震わせていた。
道は雪と氷に覆われ、馬車の車輪が何度も泥濘に嵌まり、兵たちが力を合わせて押し出す光景が繰り返された。
雪に覆われた木々の枝が折れる音が響き、遠くで狼の遠吠えが聞こえることもあった。
救いは、食糧事情を改善したおかげで補給物資が十分にあったことだろう。
兵たちは寒さに苦しみながらも、時折温かい飯で英気を養い、助け合いながら進んだ。
韓信は馬車を降り、自ら馬に跨り、先頭で隊列を統率していた。
彼の袍は雪で白く染まり、兜の縁に氷が張っていたが、その姿勢は微塵も崩れなかった。
誠が馬車の窓から外を見ると、韓信が兵に鋭く指示を出し、隊列を整える姿が目に入った。
「韓信、この冬の行軍はやはり厳しいな。咸陽からここまでの長旅で、兵たちの疲弊はどうだ?」
韓信は馬を寄せ、冷たくも確固たる自信に満ちた声で応じた。
「陛下、確かに冬の行軍は過酷でございます。咸陽からの数週間、風は強く、雪は兵の足を奪い、補給物資を運ぶ馬車も遅れがちでした。しかし、私が鍛えた精兵と陛下を守る近衛の力は、この程度では揺らぎません。精兵たちは私の命に従い、寒さの中でも陣形を崩さず進みました。近衛は陛下の安全を第一に、昼夜問わず警戒を怠りません。この隊列の堅牢さは、私が保証いたします」
誠は韓信の言葉に目を細め、外を見渡した。韓信に鍛えられた精兵は、凍てつく風の中でも整然と行軍し、長槍を手に持つ手は微かに震えながらも決して緩まなかった。
彼らは韓信の厳しい訓練で鍛え上げられ、雪の中でも一糸乱れぬ動きを見せていた。一人が槍を構えれば、他の兵が即座に連動し、まるで生き物のように隊列が動いた。
始皇帝を守る近衛兵は、馬車を囲むように配置され、重装の鎧に身を包み、剣と盾を手に鋭い目で周囲を睨んでいた。彼らの鎧には雪が積もりながらも、その動きに隙はなく、匈奴の急襲があっても瞬時に応戦できる準備が整っていた。
特に選ばれた十数名は、誠の馬車から一歩も離れず、風雪の中でも微動だにしない姿勢を保っていた。
(韓信の精兵と俺の近衛の実力は尋常じゃないな。史実でも韓信の軍略は天才的だと聞いていたが、この世界で実際に見ると同じ人間とは思えないレベルだ。咸陽から長城までの数週間、こんな過酷な冬でも崩れない統率力……頼もしい限りだ。韓信が鍛えた兵と近衛の強さなら、匈奴の騎馬軍とも互角以上に渡り合えるだろう)
と誠は内心で確信した。
ーーーーーー
万里の長城の拠点で報告を受けた後、蒙恬と北辺に詳しい斥候に案内されながら、始皇帝一行は陰山南麓の谷間に到達した。
頭曼単于の部族の拠点は、蒙恬の情報通り、風を避ける谷間に広がっていた。
粗末な毛皮の天幕が点在し、馬や羊が雪の中で草を探し、匈奴の戦士たちが焚き火を囲んで暖を取っていた。遠くからは馬の嘶きと、部族の子供たちの叫び声が風に乗って聞こえてきた。
雪に覆われた谷間は静寂に包まれ、焚き火の煙が薄く立ち上っていた。
誠は馬車を降り、韓信、蒙恬、蒙毅を伴って拠点を見下ろす丘に立った。
袍の裾が雪に埋もれ、冷たい風が髪を乱したが、彼の目は鋭く光っていた。
「蒙恬、ここが頭曼の拠点だな。報告通りだ。韓信、兵を動かすなよ。我々は彼らを討伐しに来たわけではない。頭曼に会うことが目的だ。匈奴を敵に回すのではなく、味方に引き込むのが今回の目的だ。しかし蒙毅、念のためにお前は部族の拠点を遠巻きに包囲しろ。戦闘は避けつつ、匈奴に逃げ道を塞ぐ形で威圧を与えろ」
韓信は頷き、馬上の姿勢を正した。
「陛下の仰せのままに。精兵と近衛に命じ、拠点への接近は慎重に進めさせます。攻撃はせず、包囲の形で威圧を与えつつ、陛下の安全確保をさせていただきます。匈奴が襲ってくれば即座に応戦しますが、無用な血は流さぬよう厳命いたします」
蒙恬もそれに同意し、誠に提案する。
「陛下、頭曼は部族長として誇り高い男ですが。勝てぬ戦をするよう愚か者でもございません、話を持ちかければ応じる可能性があります。私が先に使者を送り、陛下の意を伝えましょう。匈奴は冬の食料が乏しく、交渉の余地があるかと」
蒙毅は腕を組み、力強い声で応じた。
「陛下、万一のために部族の拠点を遠巻きに包囲いたします。我が兵は韓信殿の精兵と連携し、谷間の出入り口を押さえ、匈奴がおかしな動きをすれば即座に対応いたします」
誠は三人の言葉に満足げに頷き、丘から拠点を見下ろした。
「良し、蒙恬、使者を送れ。頭曼に伝えろ。『秦の始皇帝が和平と共存を求めて会談を望む』と。戦いを避けたいのは匈奴も同じはずだ。韓信、兵を配置して備えを怠るな。蒙毅、包囲を固め、匈奴の動きを封じ込めろ。冒頓がここにいるかどうかはまだ分からぬが、頭曼に会えば手がかりが掴める」
蒙毅は即座に動き出し、部下に指示を飛ばした。
彼の指揮する兵たちは谷間の周囲に広がり、遠巻きに拠点を包囲する形で配置についた。
雪の中でも素早く動き、匈奴の戦士たちに圧力をかけつつ、攻撃を仕掛ける気配は見せなかった。韓信の精兵と連携し、谷の出入り口を押さえ、匈奴が逃げ出す道を塞ぐ態勢が整った。
使者が戻り、頭曼単于が会談に応じるとの返答を得た。誠は韓信、蒙恬、蒙毅、そして近衛の護衛を伴い、頭曼の天幕へと向かった。
天幕の外では匈奴の戦士たちが鋭い目で一行を睨み、弓を手に警戒していたが、韓信の精兵と蒙毅の部隊が遠巻きに包囲する形で睨み返すだけで、その場は緊迫しつつも戦闘には至らなかった。
精兵たちは雪の中で槍を手に整然と立ち、匈奴の動きに即座に対応する準備を整えていた。近衛兵は誠の周囲を固め、剣を手に風雪の中でも微動だにせず、匈奴の戦士たちに圧倒的な威圧感を与えていた。
天幕の中は毛皮が敷かれ、焚き火が赤々と燃えていた。頭曼単于は粗野な毛皮の衣を纏い、腰に曲刀を下げた大柄な男だった。
顔には風と戦いで刻まれた深い皺があり、目は野獣のような鋭さを持っていた。彼は誠を見据え、低く唸るような声で言った。
「秦の皇帝が我が天幕に来ようとはな。何用だ? 冬に兵を動かし、我々を叩く気か?」
誠は袍を正し、威厳ある姿勢で応じた。
声は穏やかだが、内に秘めた力が感じられた。
「頭曼単于、朕は戦いに来たのではない。和平と共存。秦と匈奴が共に栄える道がある事を提案しに来たのだ。秦と匈奴が争えば双方に損失が出る。朕はお前達の部族と和睦を結びたい。共に繁栄する道を選ぶ気はないか? そうすれば冬の食料と馬や家畜も秦は提供しよう、その代わりにお前達の部族は秦での略奪を止め、北辺の安定に力を貸すよう約束せよ」
頭曼は目を細め、焚き火の炎を見つめながら黙り込んだ。ややあって、彼は低い笑い声を上げた。
「秦が我々に食料や家畜をくれるだと? そんな事をしてなんの益になる。それに我らはただ与えられる事に慣れておらぬ。その提案は素直に受けれぬ!」
誠は冷静に言葉を続けた。
「これは双方に益のある話だ。我らが食糧や家畜を支援するかわりに、お前達には北辺を荒らす他の部族と交渉してもらう。そして、お前の部族が北辺の騎馬民族の代表となるように秦は助力する。そうして略奪や争いを減らすのだ。そうする事で中華もその北の大地もより平和で豊になる。他者から奪っては奪い返される、そんな無限地獄をお前が望むなら話は別だがな」
頭曼は不思議そうに誠に訪ねる。
「どうしてそこまで、平和だの豊だのに拘るのだ?」
「別に拘っているわけではないがな。君主という者は人を導くために存在すると朕は考えている。そして導く人間の数が多ければ多い程、君主の器が大きい証なのだ。だから人が減らないように、人が快適に暮らせるように行動しているに過ぎぬ。その枠に北辺の人間も加えたいだけの事だ! 答えになったか?」
「俺が提案を断ったら?」
「朕はお前が断る程に愚かには見えんがな、ただ、秦の力、我が精兵はその気なれば、お前たちを一瞬で滅ぼせる。ここにいる韓信と蒙恬の手にかかれば、この谷間は血に染まるだろう。それに蒙毅の包囲網が谷を押さえ、逃げ道は既に無い。お前が賢明なら、この提案を受け入れるはずだ。そして朕は愚かな者を生かすつもりはない」
誠の言はハッタリではない。
秦の軍が本気なればこの時代の頭曼の部族はおろか、匈奴全体を北の果てまで追い払える程に戦力差がある。ましてや、今の秦は史実の秦よりも遥かに高い戦力が整っている。
「……。」
韓信が一歩進み出て、冷たい目で頭曼を睨んだ。蒙恬も静かに剣の柄に手を置き、威圧感を漂わせた。蒙毅は天幕の外で包囲を指揮し、匈奴の戦士たちに逃げ場がないことを示していた。
韓信の精兵は雪の中で槍を手に整然と立ち、匈奴の騎馬が動けば即座に迎え撃つ態勢を崩さなかった。
近衛兵の剣は鞘に収まったままだったが、その鋭い眼光と鍛え抜かれた動きは、匈奴の戦士たちに戦意を萎えさせるほどだった。
頭曼は焚き火に薪を投じ、火花が舞う中で再び笑った。
「平和を説きながら、平気で脅すのか……。恐ろしくも、面白い男だな、秦の皇帝。確かに貴様らの兵は強い。それは散々思いしらされている。それは我らの戦士も認めざるを得ん。包囲されて逃げ道がないのも分かっている。平和と豊かさか……。いいだろう中華の皇帝よ。お前の君主としての器のでかさを信用して、我が部族はお前に協力する事をここに誓おう」
そうして頭曼は頭を垂れた。
こうして誠は頭曼の部族を味方に引き入れる事に成功した。
そして、誠は頭曼に質問を投げかける。
「頭曼、お前の部族には親を殺して長となる風習があると聞く。お前もその慣習に従い、父を殺して地位を得たのか?」
頭曼は目を鋭く光らせ、声に誇りを込めて答えた。
「そうだ。我が父は強かったが、私がそれを越えた。我が部族では力が全てだ。親を殺し、家督を継ぐのは我々の掟。弱い者は生き残れぬ。それが部族の生き方だ」
誠はさらに問いかけた。
「その風習を、部族の皆が受け入れているのか? それを嫌う者もいるのではないか?」
頭曼は一瞬黙り込み、焚き火を見つめた。
「若者の一部は親殺しを良しとせぬ。特に我が息子、冒頓はそれを嫌う。奴は親思いで、同族を大切にする軟弱な心を持っている。だが、我々はそんな優しさを弱さと見なす。奴が私の地位を継ぐなら、掟に従い私を殺さねばならぬ。それが出来ぬ奴は半端者だ」
誠は冒頓の話題が突然出たことに内心驚いた。
(冒頓か! 頭曼の息子の冒頓は、親殺しの風習を嫌うほど情の深い人間のようだ。史実ではえげつない方法で部下を統率し、頭曼を殺したとされているが……別人か?)
誠は頭曼に冒頓をここに呼ぶように頼む事にした。
この遠征の、真の目的の男、冒頓にいきなり会える!
誠はその事に胸熱になりながらも平静を装い毅然とした態度で冒頓を待つ。
そしてしばらくすると、冒頓が天幕にやってきた。
秦の始皇帝となった誠と出会い、もっともその運命がかわり、この時代において誠のもたらす知識により、モンゴル帝国と同じ水準にまで騎馬民族を強化し導く人材。
冒頓単于。
これが始皇帝との最初の出会いであった。
冒頓単于(ぼくとつぜんう、紀元前234年頃~紀元前174年)は、匈奴の初代単于であり、匈奴を強大な遊牧帝国に発展させた指導者です。
史実では父の頭曼単于を殺して権力を握り、匈奴の統一を果たしました。彼は軍事力を強化し、特に騎馬弓兵を活用した機動戦術で周辺諸国を圧倒。東方の東胡や西方の月氏を制圧し、シルクロードの支配を拡大しました。また、漢の初代皇帝・劉邦とも対峙し、紀元前200年の白登山の戦いで漢軍を包囲するなど優位に立ちました。冒頓は厳格な統治と巧みな外交で匈奴の勢力を拡大し、中央ユーラシアの歴史に大きな影響を与えた人物です。
ですが、この物語では少し違ったキャラにして行ければなと思ってます。
匈奴編が長すぎるからかなり圧縮したけど、まだ、長い……。
ごめんよー。




