閑話:馬鹿の起源、指鹿為馬(しろくいば)騒動
紀元前215年、秋の終わりが近づく頃。咸陽の宮殿は、重厚な石柱に支えられた広間が秋風にそよぎ、窓から差し込む薄い陽光が床に淡い影を落としていた。
玉座に鎮座する秦の始皇帝――嬴政こと佐藤誠――は、竹簡を手にしていたが、その目はどこか遠くを見ているようだった。
宮殿の空気は静寂に包まれ、時折、重臣たちの衣擦れの音や遠くの衛兵の足音が響くのみ。
この日誠は、訳あって宮殿に李斯、蒙毅、陳平、韓信を集めた。
そして、重臣達を集めた広間の中央には異様な光景が広がっている
一頭の鹿が、縄で繋がれ、立派な角を揺らしながら静かに立っているのである
毛並みは艶やかで、秋の陽光に照らされて淡い茶色が輝き、時折「メェ」と小さく鳴いては、周囲を見回すその姿は、宮殿の威厳ある雰囲気と奇妙に対照的だった。
衛兵が鹿の縄を握り、困惑した表情で秦の始皇帝である誠を見上げている。
誠は竹簡を机に置き、ゆっくりと立ち上がった。
黒と金の袍が床を擦り、玉座の背に刻まれた龍の彫刻が陽光に映える。
重臣たちが一斉に目を上げ、誠の動きに注目した。
誠は威厳を湛えた声で、宮殿に響き渡るようこう告げた。
「臣下ども、耳を貸せ。朕は一つの試みを思いついた。朕がこの鹿を指して馬と呼べば、汝らはいかに応じるか。それを見極めたい。さあ、この鹿をよく見よ」
誠は心の中で呟いた。
(史実では趙高が『指鹿為馬』の騒動を起こし、臣下を試した。鹿を馬と強弁し、権力で真実を歪めた話だ。俺が趙高を斬ったゆえにその話は生まれない、故に俺が再現する必要がある! 時代のイベントとして歴史ある故事成語に自分が手を加える)
そんな安易な思いから始まった計画だった。
韓信が静かに眉を寄せ、鋭い目で鹿を見つめた。質素だが仕立ての良い袍の裾が微かに揺れ、彼の冷静な声が広間に響く。
「陛下、鹿と馬で臣下を試すとは如何なるお考えか。何か深い意図がおありか?」
誠は威を保ちつつ、穏やかに応じた。
眉を軽く上げ、口元に微かな笑みを浮かべて鹿を指し示す。
「深い意図は無い。ただの興味に過ぎぬ。朕が『これは馬である』と申せば、汝らが如何に答えるか見たいだけだ。歴史に残る話となるやもしれぬ。答えよ」
重臣たちが互いに顔を見合わせ、宮殿に微妙な沈黙が流れた。
李斯は竹簡を握る手を固くし、蒙毅は腕を組んで眉をひそめる。
陳平は飄々とした態度で様子をうかがっている。
韓信は無表情で鹿を見据えたままだ。
誠は堂々と腕を組み、臣下たちの反応を待つ。
内心では、
(さて、誰が『馬です』と答えるか楽しみだな)
と誠は胸を高鳴らせていた。
誠は鹿を指し、威厳ある声で宣言した。秋風が窓から吹き込み、袍の裾が揺れる中、声が石壁に反響する。
目の前にいる何処からどうみても鹿の姿をした動物に向かって誠は言う!
「この目の前の動物は馬である! さぁ我が臣下達よ!、如何に思うか?」
誠の言い方は芝居がかっていた。
が、
李斯は即座に答えた。
「陛下、これは鹿にございます。角があり、四肢の形も馬とは異なり申す。馬と呼ぶは流石に無理かと存じます」
李斯は誠に忖度しなかった。
続いて、武門の名門、蒙家の次男、蒙毅も答えた。
「李斯の申す通り。陛下、これは鹿にございます。馬ならばもっと背が高く、蹄の音も異なります。軍馬を扱う者として、これを見違える者はおりませぬ!」
(まあ、こいつらはそう言うと思ったよ。俺に忖度とかしない奴等だからな)
次に韓信が冷静に目を細め、鹿の角をじっと見つめた後、簡潔に言った。
声に感情はなく、ただ事実を述べるような冷たさが漂う。
「陛下、鹿にございます。馬ではござらぬ。以上」
それに続いて陳平も言う。
「陛下、あっしにも鹿に見え申す。馬であるはずがない! こいつは、鹿ですよ」
誠は目を丸くし、一瞬言葉を失った。
こいつら、まるで俺に忖度しない!
誠は急に顔が熱くなり、額に汗が滲むのを感じた。
内心では驚愕していた。
(何!? 全員が鹿と言うのか!? 史実では趙高が権力で臣下を黙らせ、『馬だ』と答えたというのに、こやつら馬鹿正直すぎるではないか! 俺の目論見、悉く裏切られたぞ!)
誠は声を張り上げ、宮殿に響き渡るよう叫んだ。
袍の袖を振り、鹿を指す手が僅かに震える。
「汝ら、全員が鹿と申すのか!? 朕が『馬である』と命じておるのに、何故一人も合わせて答えぬ! 何か企みがあると疑わぬのか?」
重臣たちが再び顔を見合わせ、微妙な空気が流れた。
李斯は目を伏せ、蒙毅は唇を固く結ぶ。韓信は無表情のまま微かに首を傾げ、陳平は笑いを堪えきれず肩を震わせていた。
宮殿の窓から吹き込む風が鹿の毛を揺らし、「メェ」と鳴く声が妙に大きく響いた。
誠は顔を紅潮させ、玉座に重々しく座り直した。
額の汗を拭い、袍の袖で隠すように手を握り潰す。内心では、(今日の俺は威厳があったものではない! ただの笑いものだよこれ)
「臣下ども! 一人くらい『鹿を馬である』と申せ!朕に少しは気を遣え、汝ら! 朕が試みを行っておるに、全員が馬鹿正直に『鹿だ』と……。朕の威光が穢された! 甚だ恥ずかしゅうてならぬぞ!」
誠は言は恥の上塗りだった。
そして、それを隠そうと顔を強張らせたが、宮殿の衛兵たちがクスクスと笑い始め、重臣たちは慌てて目を逸らした。
(今日のこの時、この場所に限り咸陽宮殿にはこういった緩い空気が流れている)
李斯は竹簡を握り潰し、蒙毅は咳払いで誤魔化そうとする。韓信は無表情ながら、口元が僅かに緩んだように見えた。陳平は遠慮せずニヤニヤしていた。
誠は鹿を指し、怒りを込めて叫んだ。袍の袖が風に揺れ、指先が鹿の角を鋭く捉える。
「貴様、気楽なものだな! 鹿ゆえに朕を斯様な目に遭わせるとは! 馬ならば斯様なことにはならぬ!」
鹿が「メェ」と鳴き、首を振って朕を見上げた。
その無垢な目が、まるで嘲笑うかのように映り、朕の顔がさらに熱くなった。
陳平が、場を収めようと進み出た。陽光に照らされた彼の顔は笑みを湛えつつも、微かに緊張が混じる。
「陛下、お鎮まりくだされ。あっしらが正直すぎただけでさ。こう、陛下のご機嫌取りに申せば……。いや、この鹿、馬に見えなくもござらぬ。足が長く、筋肉質な感じも……」
「陳平、無理に合わせるな。それは鹿だ。馬ではない!」
韓信が冷たく遮った。声は静かだが、鋭い目が陳平を射抜く。
「韓元帥、あっしは陛下を慰めようとしただけでさ。まあ、確かに鹿でごぜぇやすが……」
李斯が少し恐縮しながら進言した。
目を伏せて言葉を選ぶ様子が伺える。
「陛下、この鹿は……。ええと、馬に似ていなくもござらぬかと。角がなければ馬に見えるやもしれませぬ」
それにつられて蒙毅も渋々頷き。
「左様でございます。陛下のお言葉通り、馬らしき雰囲気は……。多少あるかと……」
誠はますます顔を紅潮させ、玉座に突っ伏し、袍の袖で顔を隠したいほどだった。
内心で呟く。
(気遣いが丸分かりで余計に恥ずかしい! 史実の趙高なら威圧で黙らせたものを、俺は慰められるのみか! まあ、それだけ親しみをみんなが俺に持ちつつあるのかもしれないが……。)
「汝ら! 気遣いが分かって余計に恥ずかしゅうなるわ! 『馬らしき雰囲気』とは何だ! 鹿ではないか、どう見ても! 」
宮殿に笑い声が響き渡り、衛兵たちの笑いが石壁に反響した。
(なんとも緩い空気になったもんだが、今日は特別だぞ)
その後鹿が再び「メェ」と鳴き、静かに首を振る姿が、宮殿に響いた。
ややあって、誠は顔を上げ、気を取り直した。
袍の袖で額の汗を拭い、重臣たちを見渡す。威厳を保ちつつ、微かな苦笑を浮かべた。
「分かった。汝らが馬は馬、鹿は鹿と馬鹿正直なのは良きことだ。朕が妙な試みを行い、醜態さらして悪かった。この鹿遊びは終わりだ」
「陛下、されど、この騒動で一つ分かり申した。臣下が正直なのは、陛下の統治が正しき証にございます。その事を誇っていただけたらと切に思います」
李斯が穏やかに微笑み、進言した。竹簡を手に持つ手が緩み、顔に安堵が浮かぶ。
「韓元帥の申す通り。陛下、我らが鹿を鹿と呼べるは、秦が正しき国ゆえにございます。陛下の徳と寛容があってこそ成立するのです」
蒙毅が頷き、付け加えた。服の裾を整え、硬い顔に微かな笑みを乗せる。
「陛下の徳の高さと寛容さが、民を始め、我らにも有難きことにございます。まあ鹿は鹿として……」
結局、誰も鹿を馬とは言わず。
鹿を馬であると言ったのは秦の始皇帝だけだった。
そして、その事実が官吏によって記録され残され後世に伝わる事になる。
後世には、鹿を馬ということ馬とは鹿の事にあらず、鹿は馬にあらずと伝わり。
間違いを堂々と口にする、それを馬鹿の始まり、馬鹿の始まり。
これが馬鹿という言葉の起源となった。
趙高と「指鹿為馬」の故事
趙高は、秦の始皇帝の死後、権力を握った宦官として知られています。彼は秦の二世皇帝である胡亥を傀儡として操り、実質的に国を支配していました。しかし、自分の権力基盤を確かめるため、ある大胆な実験を行いました。
ある日、趙高は朝廷に鹿を連れてきて、「これは馬です」と宣言しました。普通なら誰もが「それは鹿だ」と言うはずですが、趙高の権勢を恐れた廷臣たちの反応は分かれました。
一部の者は「確かに馬ですね」と媚びを売って同意し、
また別の者は「いや、それは鹿だ」と正直に反論しました。
趙高はこの反応を見て、誰が自分に忠実で誰が反対派かを把握し、後に反対した者たちを粛清したと言われています。このエピソードは「指鹿為馬」(しかをさしてうまとなす)、つまり「鹿を指して馬と呼ぶ」という成語として後世に残り、権力者の無理な主張を盲目的に受け入れる愚かさや、事実を歪める行為を象徴する話となりました。
誠は趙高を殺してしまったので、このエピソードが起きない = 馬鹿という言葉が生まれないかもしれないと思って、わざと馬鹿に振る舞ったかもしれない……。




